第2話
第2話
ハジメは目を開けた。
非常灯のオレンジが、再び天井からタイルへ垂直に落ちていた。視界の右下のHUDが時刻を返す。十五時四十一分。意識が裂けた瞬間からの経過は、十二秒。
転倒したバケツの縁が膝に触れている。流れ出した蒸留洗浄液はもう目地に吸い込まれ、輪郭だけ残して乾き始めていた。立ち上がる。膝の関節が、わずかに遅れて鳴った。
QXC-41を見た。正面パネルは、何事もなかった顔で閉じていた。指で触れる。冷たい。皮膚の下を通り抜けたあの別種の温度は、もう残っていない。0.3秒前の視界を確認する。量子コアの脈動は止んでいた。重ね合わせの揺らぎだけが、平常の密度で鎮まっている。
口の中で、何かの音節を反芻した。「層」「八千百九十二」。意味は浮かばない。音だけが、舌の奥に粒として残っていた。誰かに伝えれば、確実に幻覚と診断される類の音だった。
幻覚、と上官が結論する声が、耳の裏で先回りして聞こえた気がした。半年前、似たような診断書を一度受け取っている。HUD出力の歪み、睡眠不足、精神面フォローを推奨。判定欄は「軽微」。署名した医官は、彼の顔を一度も見なかった。
モップを拾い直した。柄の角に、転倒で剥がれた塗装の白い欠片が付いている。指で払う。床へ落ちる前に、その落下点が視界の右下に浮かんだ。直径〇・八ミリ、タイル目地の縁。落ちる。乾く。誰も気づかない。
清掃伝票に「異常なし」と記入し、サインを入れた。記入する手は、震えていなかった。震えていない自分の手を、彼はもう一度見つめた。震えていない、ということが、別種の異常として記録されるべきではないかと、ふと思った。
通用口へ戻る通路の途中、補給庫の扉が開いていた。
中から漏れる声が、ハジメの足を半歩だけ遅らせた。次長の声だった。 「在庫管理くらい一日でやれ。リーパー資格者をいつまで雑用に使わせる気だ」 返答する声は、低く擦れた女性のものだった。彼の知らない補給係。新しく配属されたばかりらしい。巻き戻し幅〇・八秒帯、配偶者持ち、子は無し――HUDが勝手に表示する公開人事データを、ハジメは無意識に流し読んだ。
扉の前を通り過ぎようとした。0.3秒前の視界に、次長の靴底の角度が浮かんだ。廊下側へ伸びる足。回避の選択肢は二つ。後退して別経路、あるいは速度を上げて通り過ぎる。彼は速度を選んだ。後退すれば、次長は別の獲物を蹴ってから自分を探しに来る。三年間の経験則だった。
それでも踵は届いた。脛の外側、骨の上。鈍い熱が皮膚の奥で広がる。倒れはしなかった。倒れることは、三年間で消えた選択肢のひとつだった。
「目障りだ。下を向いて歩け」 次長は視線を合わせなかった。ハジメも合わせなかった。視線の不在は、三年かけて磨かれてきた互いの了解事項だった。次長は補給係の顔へ視線を戻し、舌打ちを一度した。ハジメはそのまま通り過ぎた。背後で扉が閉まる音がする前に、廊下の角を曲がっていた。
更衣室の鏡で脛を確認した。皮下出血、面積およそ四平方センチ。0.3秒前の視界では、内出血の輪郭が薄い藍色の予感として浮かんでいる。明日には黄色く変色する。来週には消える。記録には残らない。記録に残らないものを、彼の身体は三年分蓄えていた。蓄えても、容量の上限はまだ来ない。
脱いだつなぎの内ポケットから、紙の封筒を取り出した。今朝、職員ロッカーの底に投函されていたものだった。発信元は配偶者候補登録機関。封蝋ではない、機械の糊。糊の硬さも〇・三秒前から知っていた。便箋を開く。
「籠目ハジメ様。第十七回マッチング審査の結果、ご紹介可能なお相手は確認できませんでした。階級・収入・能力評価値のいずれの条件においても、登録女性側の希望帯域に該当する案件は存在しません。次回審査は六か月後となります」
末尾に、参考情報が小さく添えられていた。「直近マッチング成立率(リーパー区分):同期内九十二パーセント。あなた:〇パーセント」
便箋を畳んだ。畳む音は、思ったより乾いていた。封筒ごと内ポケットへ戻す。捨てる場所が、観測局の構内には用意されていない。私物焼却炉は、巻き戻し幅一秒以上の階級者専用だった。
正午過ぎ、ロビーのモニターが切り替わった。
特別番組『リーパーの時代』。司会のアナウンサーが、桐生の隣で笑顔を作っている。今日はスタジオ収録ではなく、首都防衛省の屋上からの中継だった。観客席に整列した政府関係者。背後にビルの稜線。中継のテロップに「視聴者数推定四千二百万」と流れていた。
ハジメは清掃カートを押して、その前を通り過ぎようとした。だが床のワックス処理が未完了だった。カートを止め、モップを動かす。視線はモニターへ向けないように調整した。耳は塞げなかった。
「では桐生選手、本日の予測ショーを始めましょう」 「了解しました」 屋上のスタッフが、十枚のプレートを順に並べた。プレートには番号。一から十。それぞれに小型の発火装置が仕込まれている。司会者が無作為に選んだ番号のプレートが、三秒後に発火する。桐生はその一・八秒前に、どのプレートが燃えるかを言い当てる。
観客が息を呑む音まで、館内放送は拾っていた。
「七番」 桐生の声は、迷いがなかった。直後、七番のプレートから赤い炎が立ち上がる。歓声。拍手。屋上の風が、桐生の白い制服の裾を浮かせた。
モップを動かす。タイルの上で円を描く。0.3秒前の視界に、自分の動かす腕の軌跡が薄く浮かんでいる。〇・三秒。桐生の六分の一。彼の能力で言い当てられるのは、いま自分が描いている円の終点だけだった。それすら、誰も見ていない。
「桐生選手、五試行連続的中です。歴代最高記録です」 モニターの中で、桐生がカメラに向かって軽く頭を下げる。視線が画面のこちら側を一瞬捉えた気がした。0.3秒前の視界では、捉えていた。
ハジメは視線を逸らさなかった。逸らせなかった、と言うほうが近い。指の力でモップの柄を握り直す。ワックスの匂いが、奇妙に薄く感じた。匂いが薄く感じるのは、嗅覚が疲弊した時の症状だと医官の手引書に書かれていた。けれど嗅覚に疲労は来ていない。むしろ別の感覚――視界の縁に在る「匂いに近い視覚」――が、今、何かを過剰に拾っていた。
ロビーから職員通路へ折れた頃、視界の右下のHUDが、小さく揺れた。観測局の内部信号ではない。座標が、登録外。
ハジメは足を止めた。
壁に背を寄せ、信号源を視た。壁の冷たさが、つなぎの背中越しに脊椎へ達した。指先が、無意識のうちに壁の継ぎ目をなぞっている。そこにモルタルの粒の感触がある。粒の硬さも、〇・三秒前から既に手のひらに届いていた。彼はそれを、自分自身の感覚として再受信した。地下三層、第七区画B-12。今朝、彼が清掃を完了したサーバー室。停止しているはずのQXC-41が、いま、出力を持たないはずの何かを、極めて短いパルスで発信している。
パルスの間隔は、不規則ではなかった。三回、間、二回、間、三回。間の長さは、〇・三秒。彼の窓と、ぴたりと同じ幅だった。彼の0.3秒の窓を、軽く三度、二度、三度――叩く律動だった。それは、午後三時に彼の指がパネルに触れた瞬間の脈動と、同じ周波数だった。十二時間続けば固有振動と呼べる。今は数時間だが、終わる気配がない。
ハジメは呼吸を浅くした。心拍が早まる。けれど顔の筋肉は動かさなかった。肺の底に冷えた空気が貯まっていく感覚があった。廊下の蛍光灯が、規則的な周波数で目蓋の裏を灼く。汗腺は反応していない。汗の代わりに、首筋の毛穴がひとつずつ閉じていく感覚だけが、皮膚の表面を上から下へ降りていった。三年間、それも訓練されてきた。廊下の防犯カメラの死角を計算する。0.3秒前の視界に、自分の歩幅と角度が、最適解として薄く浮かぶ。
清掃カートをそのまま壁際に置き、職員通路を逆戻りした。地下三層への直通シャフトは、彼の磁気カードでは深夜帯しか開かない。退勤打刻を済ませる。腕時計の針は十七時を回ったところだった。
QXC-41は、廃棄予定だった。明朝七時には搬出車両に積まれ、軌道焼却炉へ送られる。今夜が最後の機会だった。彼にとっても、それにとっても。
更衣室を出る瞬間、HUDが、もう一度、揺れた。三回、二回、三回。今度はわずかに、強く。誰にも届かない通路の闇の奥で、何かが彼を待っていた。