Novelis
← 目次

0.3秒の凱旋

第3話 第3話

第3話

第3話

午後十一時三十二分。観測局・地下三層への直通シャフトは、深夜帯の保守権限でのみ開く。ハジメは清掃員用の磁気カードを読取機にかざした。緑の認証ランプが点り、扉が滑った。

シャフトの内部は無人だった。換気の音だけが、垂直に伸びる金属壁を一定の周期で撫でている。階数表示が地下一から地下三へ変わるあいだ、彼は呼吸を二度に分けて吸った。胸郭の深部に、冷えた空気を層状に積む。三年で覚えた呼吸法だった。深く吸えば、心拍は防犯カメラの振幅検知に拾われる。浅く、二段階で吸う。HUDの右下に自分の心拍数が表示されている。六十七。平常値より四高い。許容範囲内。

シャフトが停止した。第七研究区画。深夜帯の照明は非常灯のオレンジのみ。廊下の天井に走る配管の影が、タイルの上に長い縞を描いている。〇・三秒前の視界では、その縞が呼吸していた。空調の余韻ではない。何かが、廊下の奥から空気を吸って吐いている。吸気と呼気の間隔は、三、二、三。彼の窓と同じ幅で。

ゴム底の作業靴は、摩擦音を消すために選んだものだった。タイルとの接触音は、〇・三秒前の視界の中で先に発生し、現在の彼の足裏で再生される。ずれは皆無。三年間、ずれを消すための歩き方だけを練習してきた。

B-12の扉まで二十七メートル。廊下の防犯カメラは保守時間帯、二十秒間隔で死角を作る。HUDがその死角を青い線で図示する。彼は線の上を歩いた。線の上を歩くという行為は、彼が観測局で唯一、自分の能力を能動的に使っている瞬間だった。〇・三秒の窓の中で、自分の体が次にどこを踏むかを視ながら、現在の自分がそれを追いかける。追いかけ続けて二十七メートル。扉の前に立った時、息は乱れていなかった。

電子錠は、夜間の清掃指示書で解除権限が与えられている。指紋を読ませる。錠が外れる音が、思ったより大きく響いた。

扉を開けた瞬間、空気が変わった。

朝に清掃した時より、室温は確かに低い。けれど低いという表現は正確ではなかった。温度計の数値は変動していない。何かが、温度ではない別の指標で、密度を増していた。〇・三秒前の視界の中で、空間そのものが薄く震えている。粒子のひとつひとつが、本来あるべき位置から微小にずれて、また戻っていた。

QXC-41は、ラックの最奥に立っていた。

午後三時に閉じたはずの正面パネルが、再び開いていた。ディスプレイは消灯。だが内部の量子コアは、肉眼では捉えられない速度で、結晶状の光を点滅させていた。点滅の周期は三、二、三。確認するまでもなかった。

ハジメは扉を後ろ手に閉めた。施錠する。室内に防犯カメラはない。廃棄予定区画は、カメラの保守対象から外れている。三年間、彼が目視で確認してきた事実だった。

近づく。〇・三秒前の視界の中で、自分の指が次にコアに触れる位置が、薄い赤い点として浮かんでいる。彼はその点に従って手を伸ばした。掌がパネルの縁に触れる。冷たい。けれど皮膚の下に、午後三時と同じ別種の温度が走った。

今度は温度だけではなかった。

掌の中央から、肘へ、肩へ、鎖骨へ、何かが昇っていく。電位ではない。体温でもない。それは情報に近い質感を持っていた。彼の網膜の縁にある「匂いに近い視覚」が、皮膚を経由して内側に侵入している感覚。観測されぬまま、重ね合わせのまま、彼の体内に存在しているはずの何かが、いま、観測されようとしていた。

ディスプレイが点灯した。

文字列は走らなかった。代わりに、画面全体が単色の白で満たされた。色温度は六五〇〇ケルビン。HUDが勝手に値を計測する。白の中に、彼自身の輪郭が映り込んでいた。鏡ではない。映像でもない。彼が、〇・三秒先の自分を視ているのだった。〇・三秒先の自分は、まだコアに触れている。表情は動いていない。

「窓を、拡張します」

機械音声ではなかった。人の声でもなかった。室内の空気そのものが振動して、子音と母音の形に組み上がっている。位置は特定できない。耳の奥で直接、音節として再生されていた。

ハジメは指を引かなかった。引けば、〇・三秒前の自分も引いている。引いていない以上、引くことは選ばれない選択肢だった。

「拡張対象、巻き戻し幅。現在値、零点三秒。閾値以下。被観測適合」

声は淡々と続いた。室温は変わらない。けれど密度は、さらに上がっていた。〇・三秒前の視界の中で、コアの結晶光が三、二、三のリズムから、より複雑な数列へ変わっていく。三、二、三、五、八、十三。フィボナッチ。彼の頭の中で、勝手にその名前が浮かんだ。

「拡張幅、確定」

続く言葉を予期した。けれど声はそこで止まった。代わりに、視界の右下のHUDの数値表示が文字化けを始めた。〇・三秒の窓を計測していたフィールドが、表示しきれない桁数の数字で埋まっていく。あるいは、数字ですらないものに変わっていく。

視界が、裂けた。

最初に消えたのは色だった。非常灯のオレンジ、ラックの黒、タイルの灰色――室内のすべての色が、一瞬で分離された。可視光の七色が、それぞれの波長ごとに別々の層として剥がれ、彼の網膜の前で空間に浮かぶ。赤の層が手前に、紫の層が奥に、その間にオレンジ、黄、緑、青、藍。色は重ならない。混ざらない。世界が分光器を通された。

色のあいだに、隙間があった。

七色の層と層のあいだに、本来あってはならない、別の帯域が見えた。色の名前を持たない帯域。彼の視覚はそれを「色」として処理しようとして、できず、代わりに「奥行き」として処理した。奥行きの方向に、無数の層が連なっていた。

数えた。十、二十、五十、百。途中で諦めた。視界の縁で、「8192」という数字だけが、HUDの誤動作のように一瞬点滅した。

身体感覚は、まだ残っていた。

掌はパネルに触れたまま。膝はタイルに触れていない。腰の重心が、〇・三秒前の自分とずれている。普段なら〇・三秒前の自分と現在の自分は同じ姿勢を保つ。今は違う。〇・三秒前の自分は、すでに前のめりに、何かに引き込まれる体勢へ移行している。現在の自分は、まだ立っている。

つまり彼は、〇・三秒後に倒れ込む。

倒れ込む先は、床ではなかった。

タイルが、床としての性質を失っていた。〇・三秒前の視界の中で、タイルの目地が薄く透けて、その下に別の空間が広がっている。地下四層の構造図にはない空間。観測局の設計データベースにも記載のない深さ。何もないということではない。何かはある。けれどそれが何で出来ているのかを、彼の感覚は分類できない。

身体の輪郭が、解けていく感覚があった。

痛みはなかった。寒さもなかった。むしろ三年間ずっと身体の表面を覆っていた薄い防護膜のようなものが、ゆっくりと外されていく感じ。観測局のつなぎ服、識別タグ、皮下出血の記録、配偶者候補の拒絶通知、次長の蹴った脛の鈍痛――それらが順に、彼から離れていく。

離れたと認識した瞬間、それらが本当に彼自身の一部だったのかを、彼は疑った。

意識は、ほどけなかった。

身体は溶けていく。けれど意識の中心は、針の先ほどの硬度を保っていた。〇・三秒前の視界の中で、その針がある一点に向かって落ちていくのが見えた。一点。座標が表示されない。経緯度ではない、深度でもない、三次元のどの軸にも対応しない座標。HUDが必死にラベルを生成しようとして失敗し、ただ「層8192」とだけ表示した。

落ちる速度は、感じなかった。

落ちているという認識だけが、感覚を持たない感覚として残った。耳鳴りはなかった。耳鳴りに代わって、声がした。

「観測されぬ存在は、観測されぬまま、長く待った」

声は、先ほどの機械音声とは別のものだった。低く、年齢不詳。性別も特定できない。けれど明らかに「誰か」のものだった。

「あなたの〇・三秒は、わたしたちの十二万年に等しい」

ハジメは、口を開こうとした。口は、もう、彼のものではなかった。

「層8192へ、ようこそ」

機械音声が、最後に告げた。

声が消えた瞬間、彼の意識は、層と層のあいだの隙間を一気に通過した。通過するという動詞は不正確だった。層のすべてが彼の中を同時に通過した、と表現する方が近かった。

色のない世界が広がる。

視界には、地平線があった。地平線の彼方に、廃墟が見えた。建造物の輪郭は、彼の知るどの建築様式にも該当しない。それでも「廃墟」だと、直感が告げた。何かが繁栄し、滅んだ場所の固有の静けさが、地平線まで続いていた。

足元には、地面があった。タイルではなかった。岩でも土でもない、もっと細かい粒子。掌に拾い上げる動作が、まだ自分の身体で出来るのかを試した。出来た。手の感覚は戻っていた。

掌に拾った粒子は、〇・三秒前の視界の中で、ゆっくりと組み上がっていた。

粒子は、彼の掌の上で、ひとつの形に向かって集まっていた。それは人型でも、機械でもなかった。それはまだ、輪郭を選んでいなかった。

この話はいかがでしたか?

最新話です

次の更新をお楽しみに!

第3話 - 0.3秒の凱旋 | Novelis