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残弾二発、雨の路地裏で

第2話 第2話

第2話

第2話

俺の指は、まだ引き金に掛かったままだった。

残弾一発。撃鉄は半ばまで起きている。

老人の掌は、雨の中に差し出されたまま、動かない。

雨が、その手のひらに溜まり、皺の谷を伝って、指先から落ちていく。距離は半歩。手を伸ばせば届く。届いた瞬間、引き金は落ちないかもしれない。落ちるかもしれない。

「下ろせ」

老人の声。命令でも懇願でもなかった。低く、しかし揺らがない。問いかけですらなかった。ただ、そこに置かれた言葉だった。

「自分で下ろせ。俺に下ろさせるんじゃない」

雨音。心臓。脇腹で脈打つ血の音。三つの音が、俺の頭蓋の中で押し合っている。

頭の中で、母の声がした。何の言葉でもない、ただ俺の名を呼ぶ声だった。父の声。妹の声。三つの声が、雨音の隙間で、ずれて重なった。

撃てば、会える。

撃てば、楽になる。

——駄目だ。

仇の名を、俺はまだ叫んでいない。父の喉に刃を立てた、あの男の喉に、俺はまだ何の傷もつけていない。死ねない。今夜は、駄目だ。

俺は、ゆっくり撃鉄を戻した。

か、ち、と、二段の音。

リボルバーを、自分のこめかみから外す。引き下ろす。腕が震えていた。指先が痺れている。銃身が、太腿の脇でだらりと垂れた。

息を、吸う。

雨が、肺の中まで降ってくる気がした。冷たかった。冷たい水が、胸の奥のどこかで、固まっていたものを溶かし始めた。

老人の掌は、まだ動かない。

俺はその手を見た。皺。節。爪の根元の小さな黒。指の付け根の、古い火傷の痕。何十年も、何かを握り続けてきた手だった。鋤か、刀か、誰かの骨か——その全部かもしれなかった。

俺は、自分の手を伸ばした。

血と雨で濡れた、震える指。

その指先が、老人の掌の中央に触れた。

——温かい。

雨に濡れた、皺だらけの、痩せた老人の掌。それなのに、芯のところが、確かに温かかった。三年ぶりに、俺は人の体温に触れた。妹の頬を撫でた、あの夜以来。指先の冷たさが、その温度に、ゆっくりと吸われていく。皮膚の下の血が、じわりと、別の血の温度を覚え始めた。

俺は、息を吐いた。

長い、長い、震える息だった。胸の奥で固まっていた何かが、雨と一緒に、口から路地に落ちていった。脇腹が、急に痛みを思い出した。膝が、笑った。視界の縁が、にじむように、ぼやけて、また戻った。

「立てるか」

老人が短く言った。

俺は答える代わりに、手を握り直した。引き上げる力が、思いの外、強かった。痩せた腕のどこに、これだけの筋がついているのか。俺の体重は、老人の片手で、ぐい、と引き起こされた。

「歩け。長くは止まれん」

「……あんた、何者だ」

「拾った犬に、まだ名は名乗らん」

老人は俺の左腕を、自分の肩に回した。脇腹の傷が、その動きで裂けた気がした。声にならない呻きを、俺は奥歯で噛み潰した。骨が、シャツ越しに分かるほど痩せた肩だった。それなのに、その肩は、俺の重さで軋まなかった。

「死ぬほどの傷じゃない」

老人が呟いた。診たわけでもないのに、断定だった。声には、長年いくつもの傷を見送ってきた者だけが持つ、乾いた確信があった。

「だが、ここで止まれば死ぬ。歩け」

俺たちは歩き出した。倒れた追手たちの間を縫うように、路地の出口へ向かう。先頭の男の頭は、まだ煉瓦に寄りかかっていた。眼は開いたまま、雨を浴びていた。死人だ。残りの五人——一人だけ、胸が上下している。

老人は、その一人の前で、ほんの一瞬足を止めた。

杖の先で、男の上着のポケットを探った。無線機が、半分覗いていた。スピーカーから、雑音と、ひっきりなしの呼びかけが漏れていた。

「応答しろ。第三班、応答。聞こえるか。第三班——」

老人は、無線機を石畳に置いた。杖の先で、一度だけ、突いた。

ぴし、とプラスチックが割れた。声が、止まった。

「あと十分も経たんうちに、二班目が来る」

老人が言った。

「歩く速度を上げろ。傷は、後で診る」

俺は頷いた。頷いただけで、首の付け根が痛んだ。

路地の出口で、老人が振り返った。

「短刀を拾ってこい」

短い命令だった。

「お前の得物だ。お前が捨てるか、俺が拾うかじゃない。お前が、お前の手で拾え」

俺は来た道を戻った。三歩。水溜まりの中に、短刀が沈んでいた。三年前、潜伏先の老師から譲られた、その一本。柄頭の朱が、雨に濡れて、血の色に近づいていた。

俺は屈んだ。指で柄を握った。冷たい。だが、その冷たさが、不思議と俺の手の震えを止めた。掌の中で、柄の革紐の摩耗が、指の腹に馴染んだ。三年間、毎晩、研ぎ続けてきた重さだった。捨てる権利は、俺にはない。

立ち上がった時、視界が一瞬、白く飛んだ。脇腹の出血が、思っていたより深かった。

老人の方を見た。老人は、何も言わずに、俺を見ていた。その眼の奥に、急かす色も、憐れむ色もなかった。ただ、見ていた。

俺は、歩き出した。

路地を抜けると、表通りに出た。

街灯が一本だけ点いていた。橙の光が、濡れた石畳に滲んでいた。人通りはなかった。雨のせいか、夜更けのせいか、それとも誰かが、この通りから人を抜いてあったのか——分からない。

通りの脇に、古いトラックが一台停まっていた。茶色の塗装が剥げて、荷台の縁が錆びていた。荷台には、粗い麻布が積まれていた。

「乗れ。横になっていろ」

老人は荷台の麻布を、片手で払った。

俺はよじ登った。脇腹が、登る動作の度に裂けた。麻布の上に倒れ込むように寝た。雨が、顔に直接落ちてきた。老人が、隣に積んであった粗布を、俺の上に被せた。視界が、灰色の布で覆われた。

「動くな。声も出すな」

エンジンが、ぐぐ、と唸った。

トラックが動き出した。石畳を一度、強く跳ねた。脇腹に、火がついた。俺は奥歯を噛んで、声を殺した。

布の隙間から、雨に滲んだ街の輪郭が流れていく。煉瓦塀。鉄格子。閉じた酒場の看板。三年間、俺が潜伏した街の、最後の景色だった。何の感慨もなかった。ただ、まだ生きている、という事実だけが、脇腹の痛みとして、俺の体に残っていた。

懐から、何かが滑り落ちた。

——写真。

妹の写真。油紙の包みが、揺れで開いたらしかった。麻布の上を、ゆっくり滑った。俺は手を伸ばした。指が届く前に、運転席から伸びた老人の手が、それを掬い上げた。

老人はハンドルを片手で握りながら、写真をちらりと見た。それから、無言で、俺の方に差し戻した。

「大事に持っていろ」

それだけ、言った。

俺は写真を、震える指で握り直した。油紙で、もう一度、丁寧に包んだ。

トラックは、街を抜けた。

舗装が、砂利道に変わった。揺れが、一段、深くなった。脇腹の傷が、揺れの一回ごとに、ずきりと脈打った。それでも、俺は声を出さなかった。

ふと、後方に、ヘッドライトが二つ点いた。

布の隙間から、俺は目だけでそれを追った。距離はある。だが、確実に、追いついてくる速さだった。

「来たな」

運転席から、老人の声。

慌てた響きはなかった。ハンドルを切る音。トラックが、横道へ折れた。アクセルが踏み込まれた。エンジンが、低く吠えた。

雨が、荷台の麻布を叩き続けていた。

俺の意識は、揺れの中で、ゆっくり遠のいていった。脇腹の痛みが、遠くなる。雨音が、遠くなる。老人の背中だけが、視界の隅で、まだ真っ直ぐに座っていた。

どれくらい走ったか、分からない。

トラックは、ある時、止まった。エンジンが切れた。雨音だけが、麻布の上を叩いていた。

布が、めくられた。

冷たい夜気と、土の匂い。それから、針葉樹の、湿った葉の匂い。街にはなかった匂いだった。

俺は、薄目を開けた。

老人が、覗き込んでいた。背後に、霧。霧の向こうに、黒い山の稜線が、ぼんやりと浮かんでいた。

「眠れ」

老人は言った。

「次に目を覚ました時、お前は別の場所にいる」

俺は、何か言おうとした。声は出なかった。代わりに、短く息を吐いた。さっき、老人の掌に触れた時に吐いた息と、同じ温度の息だった。

老人の節くれ立った手が、俺の額に触れた。

冷たかった。

その冷たさが、心地よかった。

意識が落ちる直前、俺は見た。荷台の縁に立てかけられた、節くれ立った木の杖の先端を。漆も塗られていない、ただ削っただけの、その粗い木肌を。

雨が、その先端を伝って、ぽとり、と俺の頬に落ちた。

俺は、目を閉じた。

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