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残弾二発、雨の路地裏で

第3話 第3話

第3話

第3話

意識の縁で、薪が爆ぜる音がした。

ぱち、ぱち。ぱち。

火の音だ。雨ではない。

俺は目を開けた。

天井——板と梁。黒く煤けた檜。節穴の一つから、細い光が差し込んでいた。朝か、昼か、判別がつかない。視界の周縁が、まだ揺れている。瞼の裏に、雨の路地と、男の白目と、自分の血の鉄錆の味が、断片のまま貼りついていた。それを一つずつ、瞬きで剥がした。

身体を、確かめる。

仰向け。藁布団。背中にごつごつと、藁の節が当たる。脇腹に巻かれた、晒の感触。締め付けはきつくない。指先で押した。じくり、と痛んだが、出血の濡れはなかった。誰かが、傷を縫った。糸の結び目が、皮膚の下で、二つ、三つ、確かに留まっていた。指の腹で、その結び目を一つずつ数えた。一、二、三。素人の仕事ではなかった。等間隔で、しかも糸の張りが揃っている。何度も、人の身体に針を入れてきた手だ、と直感した。

頭を、ゆっくり起こした。

四畳半。板敷き。囲炉裏が、部屋の中央で赤く燃えていた。鉄瓶が、湯気を細く吐いている。壁際に、節くれ立った木の杖が一本、立てかけてあった。漆の塗られていない、ただ削っただけの、あの杖だ。先端の握りの部分だけが、長年の使用で飴色に光っていた。

——あの老人の。

懐に、手をやった。

写真。油紙。指の腹で確かめる。妹の笑顔は、まだ俺の懐の中にいた。リボルバーは、ない。短刀も、ない。武器は、全て取り上げられていた。

奇妙なことに、それで肩の力が抜けた。三年、ずっと胸の奥に冷たい鉄を抱えて生きてきた。それがないだけで、息の入り方が違った。代わりに、肋骨の中で、心臓だけが、やけにはっきりと脈を打っていた。

囲炉裏の火が、ぱち、と一つ爆ぜた。

俺は、布団に肘をついて、半身を起こした。脇腹が、また、軋んだ。

板戸の向こうで、ざ、と砂利を踏む音がした。

戸が、横に滑った。

朝の、白い光。霧の匂い。湿った針葉樹の、青い香り。それと一緒に、あの老人が入ってきた。

茶色の外套は脱いでいた。代わりに、藍の作務衣。袖を肘までまくっている。前腕に、何本もの古傷が走っていた。刃物の傷だ。それも、一本や二本ではない。斜めに走ったもの、点として穿たれたもの、皮膚の表面で蚯蚓のように盛り上がったもの。一つひとつが、別々の場面で、別々の相手から受けた痕に見えた。俺は、目を逸らせなかった。

老人は、手に椀を一つ、提げていた。

「起きたか」

声は、雨の路地の時と同じだった。低くて、揺らがない。

「歩けるか」

「……たぶん」

「無理に歩くな」

老人は囲炉裏の脇に、椀を置いた。中は、湯気を立てる粥。米と、何かの葉。匂いだけで、胃の奥が締め上げられた。三日、いや、四日か。何も食っていない。喉の奥で、唾が勝手に湧いた。それを、悟られないように、ゆっくりと飲み下した。

「食え。冷めるぞ」

俺は、布団の上で正座を組もうとした。脇腹が、それを許さなかった。胡座でやめた。椀を、両手で包んだ。木の温度が、掌の皮膚を透して、骨にまで届いた。

匙はなかった。椀のまま、口へ運んだ。

熱い。舌が、ひりつく。それでも、止まらなかった。米が、喉を通った。塩。葉の苦み。咀嚼するたびに、頬の奥が、痛むほどに動いた。三年ぶりに、誰かが俺のために炊いた飯だった。

途中で、手が止まった。

——なぜ、止まったのか、自分でも分からなかった。たぶん、これ以上、温かいものを受け取ったら、何かがほどけてしまう、と、身体のどこかが察したのだ。

老人は、囲炉裏の向こう側で、煙管に火を移していた。煙草の葉が、ふ、と赤く燃えた。煙が、低い天井に溜まり、節穴から、糸のように外へ抜けていく。葉の香りは、甘くも辛くもなく、ただ古い枯草のような、土に近い匂いだった。

俺は、椀から目を上げた。

「あんた、誰だ」

老人は、煙を一つ吐いてから、答えた。

「氷室、と呼べ」

それだけだった。氏名でも、名乗りでもない。ただ、呼べ、と言った。

「氷室——さん」

「さんはいらん」

「……氷室」

「それでいい」

煙管の灰を、囲炉裏の縁で、軽く落とした。火の粉が、灰の中に消えた。

俺は、息を整えた。次の問いを、口の中で、二度繰り返してから、出した。舌の上で、言葉の重さを、確かめるように。

「なんで、俺を助けた」

「気が向いた」

即答だった。

「気が向いた、だけか」

「だけだ」

「……俺の名前は」

聞かなかった。俺の方から、言いかけた。喉まで出かかった。三年間、捨てていた名前。家族と一緒に、土に埋めたはずの名前。

「言うな」

老人——氷室は、煙管をくわえたまま、片手で制した。掌が、こちらに向いていた。骨の節が太く、指の腹に、小さな胼胝が並んでいた。

「拾った犬に、名前はいらん」

笑った。皺の寄った頬が、さらに皺を寄せた。それは笑いの形だったが、目の奥は、笑っていなかった。何かを、量っている目だった。値踏みではない。もっと冷たい——たとえば獣医が、連れてこられた犬の脈を、ただ数えているような目だった。

「ここはどこだ」

「山だ」

「どこの山だ」

「お前が知らん場所だ。それでいい」

椀が、空になった。底に、米の一粒が、張り付いていた。指で、それを取って口に入れた。

氷室は煙管を置いた。立ち上がる。痩せた身体が、すっと伸びた。背筋に、年齢を感じさせる軋みが、一つもなかった。膝も、腰も、まるで重力を感じていないように、垂直に、上がった。それを目の前で見て、初めて、俺は、この老人を「老人」と呼んでいいのか、分からなくなった。

「立てるなら、外を見せる」

「……ああ」

俺は、布団から這い出た。脇腹が、引き攣れた。歯を食いしばった。氷室は、手を貸さなかった。ただ、立つ俺を、見ていた。手を貸さないのは冷たさではなかった。立てるかどうかを、自分で決めろ、という、無言の問いだった。

板戸の外に出た。

霧。

針葉樹。

朝の、湿った冷気が、肺の奥まで入ってきた。三年、街の煤と血と火薬の匂いしか吸ってこなかった肺が、そこで、一度だけ、はっきりと震えた。

そこは、平らに均された土の庭だった。広さ、十間四方ほど。中央に、丸太を二つに割った木の腰掛けが置かれていた。庭の縁を囲うように、組まれた丸太の柵。柵の根元には、苔が薄く青く張りついていた。長い時間、誰も、それを削ろうとしなかった、ということだ。

そして、庭の正面——

板張りの、古い建物。屋根は瓦ではなく、杉皮葺き。軒の下に、墨で薄く文字が書かれた、木の額が一つ。

——「氷室道場」。

文字は、何十年も前のものだった。墨は退色し、板の節と一体化していた。

「道場、なのか」

「俺の家だ」

氷室は短く言った。

「ここで、何を教えてる」

「教えていない」

「は?」

「もう、誰も来ない。三十年、誰も来とらん」

霧の中で、額の文字が、白く滲んで見えた。三十年、と俺は心の中で繰り返した。三十年、誰も来ない場所に、ひとり、何のために、こんな男が立っているのか。

俺は、庭を見渡した。土には、足跡の跡があった。だが、それは複数ではない。一人分の、毎日同じ場所を踏んだ、馴染んだ跡だった。同じ角度で踏み込み、同じ角度で抜けていく、整いすぎた足跡だった。修練の跡だ、と分かった。誰にも見せず、誰にも教えず、ただ自分のためだけに、毎朝、繰り返されてきた何かの跡。

「俺は、ここで、何をする」

「眠る。食う。傷を治す」

「それから」

氷室は答えなかった。俺の目を見ていた。霧の中で、その瞳の奥が、ほんの一瞬、動いた気がした。だが、それが何だったのかは、読めなかった。

「それから、お前が決めろ。俺は、お前を助けたかったわけじゃない。あの夜、たまたま、お前があの路地にいた。それだけだ」

雨の路地で言われた、「気が向いた」と、同じ意味の言葉だった。

「……信じていいのか」

「信じるな」

即答だった。

「俺を信じるな。お前が信じるべきは、お前の脇腹の傷と、お前の懐の写真だけだ。俺は、たかだか、屋根を貸しているだけの爺だ」

俺は、霧を吸い込んだ。

冷たかった。

肺の奥で、その冷たさが、何かに変わった。三年間、俺の中で固まっていた何かに、ひびが入った音がした。それは音ではなく、たぶん、感覚だった。氷の塊の表面に、毛筋ほどの線が、すっと走った——そういう、ごく細い感覚だった。

「……氷室」

「なんだ」

「俺は」

言葉が、続かなかった。三年捨てた名前を、呼ぶ気になれなかった。氷室は、俺の中の沈黙を、急かさなかった。煙管を、もう一度、口にくわえる気配もなかった。ただ、待っていた。何を待っているのか、本人にも、たぶん分かっていなかった。

「いい」

氷室は、背を向けた。

「飯を、もう一杯食え。それから、寝ろ。傷は、明日また、診る」

外套の裾が、霧の中へ消えていった。俺は、その背中を見送った。痩せた、骨ばった背中。だが、そこに——「人」の気配が、やっぱり、無かった。歩幅も、足音も、霧に吸い込まれて、すぐに、何も残らなかった。

板戸を、もう一度、潜った。

囲炉裏の火が、まだ赤かった。

俺は布団に戻った。横になった瞬間、瞼が落ちた。

明日、あの椀には、何が入っているのだろう。

そんなことを、ぼんやり考えながら、俺は、また、深い夜の底へ落ちていった。

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