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鵺ノ巣島、七年目の同窓会

第3話 第3話

第3話

第3話

宮村は、結局、夕食を半分も食べないまま部屋に戻った。

座卓の沈黙を最初に破ったのは田所だった。「宮村、酔ったんだろ」と笑って、誰も笑わなかった。田所自身の笑い声だけが、低い天井に当たって、痩せた残響になって、襖の隙間へ吸い込まれていった。最後の音節が消えるまで、誰も、息を、吐き直そうとしなかった。膳の上の徳利が、誰の手にも触れられないまま、湯気の名残を、襟元にだけ、こもらせていた。煙草の女は箸を置き、地面ばかり見ていたもう一人の女は、ずっと膳の角を指の腹でなぞっていた。爪が、漆の縁を、削るような角度で擦っていた。削る、というよりは、漆の下に何か潜んでいて、それを掻き出そうとする、そういう執拗さだった。爪の先が、漆の艶を、白く、引き攣れさせていた。藤代は、俺の隣で、自分の左手首を握りしめていた。握る指の関節が、白くなっていた。脈の通り道を、自分で、塞ごうとするみたいに、爪の先が、皮膚に深く沈み込んでいた。

廊下を引き上げる宮村の足音は、二回、踏みはずした。一回目は階段の下。二回目は、二階の踊り場。両方とも、踏みはずしたあとに、不自然に長い間があった。誰かが、宮村を支えたみたいに。その「支えた」誰かの足音は、聞こえなかった。聞こえないのに、宮村の体重が、誰かの肩に、確かに預けられたあとの、ずらされる衣擦れだけが、廊下の奥で、ふたつ、重なった。それから、奥の角部屋の襖を閉める音だけが、はっきりと、宿の天井に貼りついた。

俺は、自分の部屋に戻った。

畳の縁に座って、鞄の底のノートに手を置いた。表紙の墨の擦れを、指の腹で何度もなぞった。贄は、七人。七、という字の払いの先が、紙の繊維を、わずかに毛羽立たせていた。七年前、震える指先で書いた、その毛羽立ちの位置までが、いま、指の腹の記憶と、寸分、重なっていた。窓の外で、潮騒は止んでいた。風も、なかった。それなのに、雨戸の外で、ぎし、と、誰かが板を踏んだ音がした。ぎし、ぎし——三歩。それから、止んだ。俺は雨戸を開けなかった。開ければ、見てしまう、と思った。何を、とは、自分でもわからなかった。わからない代わりに、雨戸の木目の、その向こう側に、誰かの呼吸の温度が、貼りついている、と、確信だけがあった。雨戸の節穴の、ひとつが、ふと、暗くなった気がして、俺は、そこから視線を、ずらした。

天井の、少し離れたあたりで、また、足音が動いた。今度は、宮村の部屋の方角だった。

午前二時を、回った頃だった。

廊下で、女の悲鳴が上がった。

俺は飛び起きた。起き上がるより先に、自分の喉が、ひゅっ、と鳴っていた。夢の続きでもなく、寝起きの呆けでもなく、最初から、起きる、という形に、体が、強引に折り畳まれていた。畳の上で、片方の膝が、自分の膝とは思えないほど、冷たかった。

寝間着のまま廊下に出た瞬間、煙草の女が——名前を、いまだに思い出せないあの女が——廊下の突き当たりで、両膝をついていた。手のひらで口を覆って、声にならない音を、何度も、何度も、漏らしていた。視線の先は、中庭だった。障子戸が、開け放たれていた。夜の冷気が、彼女の背中を巻き上げて、廊下を奥まで撫でていた。冷気には、苔と、湿った石の、匂いが混じっていた。その匂いの底に、もうひとつ、覚えのある匂いが、薄く、敷かれていた。鉄を、舐めたあとのような、銅銭を、長く握ったあとのような、あの匂いだった。七年前の、地下室の、湿った石の床にも、同じ匂いが、敷かれていた。

田所が、寝間着の裾を踏みながら、俺の横を駆け抜けた。「うわっ」と、間抜けな声を上げた。それから、止まった。地面ばかり見ていた女が、後ろから来て、田所の背中にぶつかって、それでも止まらずに、田所の脇から中庭を覗いた。覗いた瞬間、彼女は、息を、吸えなくなった。喉の奥で、ひゅう、と、空気の鳴る音だけが、こだました。

俺は、廊下の障子の縁に、手を置いた。木の冷たさが、掌の真ん中で凍った。

中庭に、宮村が、いた。

苔むした手水鉢の、すぐ横だった。砂利の上に、仰向けに、転がっていた。寝間着の前が、はだけていた。胸の真ん中——心臓の、すぐ上のあたりが、抉れていた。皮膚と肉が、内側から外側へ、押し開かれたみたいに、丸く、深く、抉れていた。出血は、思ったより、少なかった。少ない代わりに、抉られた窪みの中に、何か黒いものが、こんもりと、盛られていた。

泥だった。中庭の、どこを掘っても出てきそうな、湿った、粒の細かい、黒い泥だった。それが、宮村の胸の窪みに、丁寧に、誰かの掌で押し固めたみたいな形で、盛られていた。盛り方の中央に、わずかな指のあとが、ひとつ、残っていた。子供の指の、太さだった。

宮村の、半開きの口の奥にも、同じ、黒い泥が、押し込まれていた。

唇の端から、こぼれた泥が、顎の輪郭を伝って、耳のあたりまで流れていた。その流れの形が、夕食の席で、宮村の汗が漆を濡らした、あの染みの広がり方と、寸分、同じだった。瞬きをしないままの宮村の眼球が、宿の二階の電球を、二つ、薄く映していた。眼球の表面の水膜が、まだ、生きているみたいに、震えていた。風はないのに、震えていた。

「うそ、うそ、うそ」

田所が、繰り返した。声が、子供みたいに、上ずっていた。「これ、なんで、なんで、なんで」。地面ばかり見ていた女は、廊下の柱に額をぶつけて、そのまま、滑り落ちるようにしゃがんだ。煙草の女は、まだ、口を覆っていた。指の隙間から、舌の付け根の、ねっとりした音が、漏れていた。

藤代は——

俺の、すぐ後ろに、立っていた。

砂利を踏む音は、しなかった。

藤代は、中庭の宮村を、見ていなかった。中庭の、向こう。霧の壁の、その先を、見ていた。俺は、藤代の視線を、追った。

霧が、出ていた。

夕方より、ずっと深い霧だった。中庭の砂利の縁から先は、もう、白く溶けていた。砂利と霧の境目は、定規で引いたようには、はっきりしていなかった。それなのに、その曖昧な境目の、向こう側だけが、別の世界の、別の温度を、保っているのが、頬の表面で、わかった。境界線の手前と向こうで、空気の重さが、違った。その白さの中に、人影が、一つ、立っていた。

肩の線が、低かった。背丈が、子供のものだった。

白い、衣のようなものを、まとっていた。輪郭が、霧と区別がつかないほど、淡かった。それなのに、こちらに向けられた顔の角度だけが、はっきり、わかった。顔の、あるべき場所が——黒く、抉れていた。宮村の胸と、同じ、形に。抉れた顔の、その縁に、いま盛られたばかりの泥の、湿った艶が、霧の白さの中で、ひとつだけ、黒く、息をしていた。

俺の喉の奥で、空気が、止まった。

七年前の、地下室の、鉄格子越しに見た、あの影だった。

三日目の夜、暗闇の中で俺が見た、白い、子供の影。あの夜、俺はそれを、夢か、衰弱した俺の幻だと、自分に言い聞かせて、忘れることにした。忘れることにして、ノートにだけ、写した。贄は、七人。その四文字の上に、俺は、子供の影の輪郭を、震える線で、なぞっていた。

影は、動かなかった。

俺だけを、見ていた。

藤代の手が、俺の寝間着の袖を、後ろから、握った。指は、冷たくなかった。生きている人間の、温度だった。それなのに、握る力が、爪の先まで、震えていた。

「ねえ」

藤代の声が、耳元で、低く、囁いた。

「あれ、あなたにも、見える?」

俺は、答えなかった。答えれば、認めることになる、と思った。けれど、答えなければ、もっと、悪いことになる、とも思った。答える代わりに、俺は、藤代の手の下で、自分の袖を、強く、握った。袖の布越しに、藤代の指の震えと、自分の指の震えの、周期が、ゆっくり、揃っていくのが、わかった。

霧の中の影が、わずかに、首を、傾げた。

子供が、何か面白いものを見つけた時の、あの傾げ方だった。それから、ゆっくり、白い腕のあたりが——抉れた顔の、口があるべき場所まで——上がった。腕が上がる速度は、人間の関節が動く速度では、なかった。霧の中で、白い染みが、別の白い染みへ、にじんで、ずれていくような、そういう、形のない移動だった。指の輪郭は、なかった。ただ、白い塊が、唇のあたりに、添えられた。

しっ、と、内緒の合図のように。

廊下の、ばあさんの数珠が、ことり、と、鳴った。

俺の真下——宿の床下、地下室の方向で、地鳴りに似た、低い、長い音が、応えた。畳の下から、足の裏の、土踏まずのあたりだけを、ゆっくり、押し上げてくる、そういう振動だった。

夕食の時より、近かった。

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