第2話
第2話
天井の足音は、俺の真上で、ぴたりと止まった。
息を止めたまま、俺は天井板の節目を睨んだ。畳に置いた指先が、自分のものではないみたいに冷たかった。三秒、五秒、十秒——何も起きない。それなのに、頭上の板の向こうで、誰かが立ったまま、こちらの息遣いを聴いている気配だけが、確かにあった。板の節目の一つが、薄暗がりの中で、瞳孔のように見えた。じっと、こちらを見下ろしている。
廊下の奥で、田所の笑い声がまた弾けた。「だからさあ、それは違うって!」。宮村が応じる声、女の誰かが乾いた相槌を打つ声。階下の食堂のあたりで、皿の擦れる音もした。生活の音だ。生きている人間の音だ。俺の真上にあるそれだけが、その輪から外れていた。
俺は、ゆっくり立ち上がった。
廊下に出ると、宿の電球はどれも黄色く、芯まで届かない明るさだった。階段を一段ずつ上る。三段目の踏み板が、靴下越しに湿っていた。雨も降っていないのに。指で踏み板に触れてみると、湿り気は冷たく、けれど粘つくような、人肌に近い温度の名残があった。三階の踊り場まで上がりきった瞬間、俺は足を止めた。
——三階、なんてあったか。
宿の外観は二階建てだった。崖を背負った木造の、瓦屋根の。それなのに、俺の靴下の下には今、確かに踊り場の畳が広がっていて、奥に短い廊下が一本、闇に伸びている。電球は、なかった。窓もなかった。空気だけが、地下室と同じ匂いをしていた。線香に似た、けれど甘ったるい、あの匂い。喉の奥に、ねっとりと貼りついてくる匂いだった。鼻で吸うと、舌の付け根まで届いた。
廊下の突き当たりの襖が、五センチほど、開いていた。
その隙間の奥で、何かが、ゆっくり、こちらを覗いている。視線、と呼ぶには形のないもの。けれど、俺の左の頬骨のあたりに、確かに、何かの重みが当たっていた。
「お客さん」
階段の下から声が降ってきた。宿のばあさんの声だった。俺の肩が、自分でも驚くほど大きく跳ねた。
「上は、行かれませんで」
振り返ると、ばあさんは階段の途中に立っていた。数珠の玉が、皺の手の中で、ことり、ことり、と鳴っていた。俺はもう一度、廊下の奥を見た。襖は、閉じていた。隙間のどこにも、何の影もなかった。畳の縁の、ささくれの一本までが、何事もなかったような顔をしていた。
「夕飯の刻限でございます」
ばあさんは、笑っていなかった。
中庭は、宿の口の字の真ん中にあった。
ばあさんに案内されて、俺は一度、外履きを借りて庭に降りた。「夕飯までに、お着きの皆様で一服を」とのことらしかったが、宮村も田所も、二人の女も、誰一人として庭には出てこなかった。藤代だけが、縁側の柱の影に立って、こちらを見ていた。
砂利を踏むたび、足の裏で乾いた音がした。中庭の真ん中には、苔むした手水鉢が一つ。底に溜まった水が、夕暮れの曇り空をくすんだまま映していた。水面に、小さな羽虫が一匹、もがいていた。その羽の動きが、不自然なほど、規則正しかった。何かに合わせて、刻んでいるみたいだった。一拍、一拍——どこか遠くで打たれている、見えない太鼓に合わせるみたいに。
俺は、手水鉢の縁に手を置いた。
そのふりをして、視線だけを、宿の北側へ流した。瓦屋根の向こう、断崖の腹を背にして、低い祠の屋根が覗いている。屋根の下に、苔色に錆びた鉄の格子が、わずかに見えた。
地下室は、あそこだった。
七年前、俺が三日間閉じ込められた、あの場所。位置は、記憶のままだった。宿の玄関から数えて——歩幅で四十七歩。一つも、ずれていない。あの夜、暗闇の中で俺は、自分が運ばれた歩数を数え続けていた。逃げ出したときに、戻ってこられるように。結局、逃げる代わりに俺はそこで三日眠り、四日目の朝にばあさんに見つけられた。仲間たちは、その時にはもう島を発っていた。鉄の格子越しに見上げた朝の空の青さを、俺は今も、忘れられずにいる。あの青さの裏側で、誰かが俺を「置いていく」と決めた音を、聴いた気がしていた。
——今、あそこに、誰がいる。
啜り泣きの方角と、寸分違わなかった。
「何、見てるの」
藤代の声が、すぐ後ろでした。砂利を踏む音はしなかった。俺は手水鉢から手を離した。指の腹に、薄い苔の緑が貼りついていた。
「いや。何でもない」
藤代は答えなかった。代わりに、手水鉢の水面を覗き込んだ。羽虫はもう、動いていなかった。仰向けになって、空を映した水の上で、点になっていた。
「ねえ」
藤代の声は、低かった。
「夕飯、私の隣に座って」
俺は、藤代の左手首を見た。火傷の痕が、薄い肌着の袖口から、わずかに覗いていた。引き攣れた皮膚が、夕暮れの光の角度で、銀色に光った。皮膚の縁が、まるで水の縁取りのように波打っていた。
「いいけど。何で」
「お願い」
それだけだった。藤代は俺の答えを待たずに、縁側へ戻っていった。砂利を踏む足音が、来たときよりも、はるかに重く聞こえた。背中の薄い肩甲骨が、肌着越しに、何かを耐えるように、強く張りつめているのが分かった。
夕食の席は、長い座卓だった。
七人分の膳が、行儀よく並んでいた。誰かがすでに割り箸を割っていて、その音だけが障子の桟に張りついて残っていた。宮村は床の間を背に座っていた。田所はその右隣。煙草を吸っていた女が、田所の対面に。地面ばかり見ていた女が、そのさらに奥に。藤代は、座卓の手前側、俺の右隣の座布団を、わずかにずらして空けていた。
俺が腰を下ろすと、宮村が顔を上げた。
「久しぶりに、揃ったな」
宮村は、笑っていた。額の汗を、指の腹で何度も拭いていた。エアコンは効いている。むしろ、寒いくらいだった。
膳には、煮付けと、白和えと、見たことのない山菜のおひたしと、白い小鉢が一つ。小鉢の中には、半透明のとろりとした液体に、何か黒い粒のようなものが沈んでいた。誰も、それには手をつけなかった。ばあさんも、運んできてから一度も説明しなかった。膳の縁にだけ、小鉢の輪郭が、にじむような影を落としていた。
「いただきます」
田所がわざとらしく手を合わせた。煮付けの煮汁を、白い飯にどばどばとかけ始めた。「うっま、これ。ばあちゃん、料理上手いよ」。それまで会話の輪から外れていた女が、ぎこちなく笑った。煙草の女は、白和えに箸を伸ばして、口に運ぶ手前で止めた。
俺は、宮村を見た。
宮村は、箸を取らなかった。膳の上の小鉢を、じっと見ていた。半透明の液体の中で、黒い粒が、ゆっくり、底に向かって沈んでいくのを、瞬きもせずに見ていた。沈み終えた粒の上に、新しい粒が、どこからともなく浮かんでは、また、沈んだ。
それから、ゆっくり、顔を上げた。
俺と、目が合った。
宮村の唇が、動いた。声は出なかった。「ご」「め」——そこまで読めた。三文字目を作りかけて、宮村の唇は止まった。額の汗が一筋、こめかみを伝って落ちた。落ちた汗の先が、膳の縁の漆を黒く濡らした。漆の上で、その染みは、ゆっくり広がっていった。まるで、染みの方が、宮村の体の中から、何かを吸い出しているみたいだった。
「宮村?」
田所が、笑いながら声をかけた。「おい、どうしたよ。冷めるぞ」
宮村は、答えなかった。
俺だけを、見ていた。瞬きの回数が、極端に減っていた。眼球の表面の、薄い水膜だけが、電球の光を細かく揺らしていた。口は半開きのまま、何かを言いかけて、言いそびれて、また言いかけて——何も、出なかった。喉の奥で、空気だけが、何度も、ひっかかっていた。
そのまま、宮村は、視線を逸らさずに、座卓に両肘をついた。
両手で、自分の口を塞いだ。
座卓の沈黙が、急に重くなった。田所の笑い声が、不自然なところで途切れた。煙草の女の箸が、空中で止まった。藤代の右の腿が、座布団の上で、わずかに、震えていた。俺の太腿に触れそうな距離で、震えていた。藤代の左手が、火傷の痕の上に、強く重ねられていた。爪が、自分の皮膚に、白く食い込んでいた。
宮村の喉から、低い、嗚咽に似た音が、漏れた。
その音は、昼間、二階の窓から聞いた、あの啜り泣きの周期と——同じだった。
廊下の奥で、ばあさんの数珠が、ことり、と鳴った。
宿の真下、断崖の腹のあたりで、地鳴りのような、低い、長い音が、確かに、応えた。