第1話
第1話
封筒の角が、指先を切った。
薄い切り傷からにじむ血が、宛名の俺の名前を縁取るようにして滲んだ。差出人の欄は白いままだった。糊の浮いた封の合わせ目をめくると、黴のような、潮のような、奇妙な甘さの匂いが鼻を突いた。七年前、あの夜の地下室の匂いだった。
便箋に印字された文字は事務的だった。「同窓会のお知らせ。鵺ノ巣島にて。九月十二日、桟橋十六時集合」。差出人の署名はなく、ただ印刷の余白にだけ、誰かがボールペンで囲った小さな丸が一つあった。インクが滲んで、涙が落ちたみたいに広がっている。
俺は、声を出さずに笑った。
七年だ。誰も俺を呼ばなかった。卒業式にも、成人式にも、誰かの葬式の知らせさえ来なかった。あの夜、地下室の鉄扉の向こうで響いた、七人分の笑い声。「明日になったら誰かが見つけるだろ」「バレなきゃいいよ」「あいつ泣いてんじゃね」。冷たい潮風が格子の隙間から吹き込んで、汗ばんだ首筋に張りついた、あの感覚を俺はまだ皮膚の奥で覚えている。
──行く理由なんて、一つもない。
一つも、ないはずだった。
便箋の隅、印刷の影に、極小の文字でこう刷られていた。「七年が経ちました」。それだけだった。喉の奥で、空気が鳴った。
俺はその夜、安いウイスキーを一本空けて、最終電車で港に向かった。鞄の底に、七年間しまい続けた一冊のノートを忍ばせて。
船は古い漁船を改装した渡し舟だった。デッキの塗装が剥げ、舳先に巻かれたロープが潮で硬く凝っていた。ディーゼルエンジンが咳き込むたび、足の裏が船底ごと震えた。船長は背中を向けたまま、こちらを一度も見なかった。
「鵺ノ巣島って、まだ人住んでるんですか」
俺の問いに、船長は煙草を口の端に挟んだまま、低く答えた。
「島の宿屋に、ばあさんが一人。あとは、来る客がたまにな」
「観光客が来るような島ですか」
船長は答えなかった。煙だけが風に流れて、俺の頬に触れた。鉄の味がした。船底の隙間から、赤茶色に錆びた釘が一本浮いていて、波の揺れに合わせてかたかたと鳴った。船長の左手の小指が、第二関節から先だけ欠けているのに、俺はそのとき気づいた。
霧が出ていた。九月の海は鈍い鉛色をしていて、空との境目が溶けていた。三十分も走った頃、霧の壁を割るようにして、黒い断崖が突き出した。山一つ分の岩塊が海に直接落ち込んで、その腹に申し訳程度の桟橋が張りついている。鵺ノ巣島だった。
桟橋に降り立った瞬間、足の裏が板の隙間に沈んで、ぎし、と鳴った。塩で錆びた釘の頭が、靴底ごしにごりごりと食い込んだ。背後で、船長は係留もせずにエンジンを唸らせた。「迎えは、明後日の朝だ」。それだけ言って、船は霧の中へ吸い込まれていった。エンジン音が消えるのに、一分もかからなかった。
──六人いた。
七年ぶりに見る顔だった。誰も、俺を見て驚かなかった。それが何より怖かった。まるで、俺が来ることを最初から知っていたみたいに。
「久しぶり」と最初に手を上げたのは、宮村だった。あの夜、最初に「お前を置いていこう」と言った男だ。スーツの袖を腕まくりにしている。顎の輪郭が少し緩んで、額の生え際が後退しているのが、俺には妙に滑稽に映った。
「来てくれて嬉しいよ。ほんと」
宮村は俺の肩を叩いた。手のひらの熱がシャツ越しに伝わって、俺は無意識に半歩引いた。指の関節が、骨ばって硬かった。七年前、地下室の鉄扉を内側から押さえつけた、あの手だ。
「……差出人、お前か」
「俺じゃない。みんな、誰が出したかわかんないんだ」
宮村の隣で、田所が笑った。野球部だった男だ。今は塗装屋でもやっているのか、爪の隙間に白い塗料が固まっていた。
「いたずらかと思ってさ、来たら全員いるんだもんな。気持ち悪いよな、これ」
その「気持ち悪い」が、俺には妙に芝居がかって聞こえた。台詞の間が、コンマ一つ分早すぎた。少し離れた場所で、女が二人、肩を寄せ合って煙草を吸っていた。一人が俺の方を見て、目を逸らした。もう一人は、地面しか見ていなかった。指先の煙草が、根元まで燃え尽きていることに、本人は気づいていないようだった。
七人。俺を入れて七人。
桟橋の奥から、もう一人が走ってきた。息を切らせて、髪を耳にかけながら、俺の前で立ち止まった。
「……来たんだね」
藤代だった。幼馴染だった、と過去形で呼ぶことに、俺は七年かけて慣れたはずだった。彼女は俺の名前を、七年ぶりに、声に出して呼んだ。
「よかった」
その「よかった」が、誰のための「よかった」なのか、俺にはわからなかった。喉の奥が、塩水を飲んだみたいに痛んだ。藤代の左手首には、見覚えのない細い火傷の痕があった。皮膚が引き攣れて、白く光っていた。
宿屋へ向かう山道で、藤代は俺の半歩後ろを歩いた。
つづら折りの坂道は湿っていて、足を置くたびに腐葉土が鈍く沈んだ。両側の竹藪が絶え間なく擦れ合って、頭上で鳴いていた。風はない。それなのに、竹の葉だけが鳴っていた。
「ねえ」
藤代が小声で言った。前を歩く宮村たちには届かない距離だった。
「ずっと、謝りたかった」
俺は答えなかった。靴底の下で、小石が鋭く軋んだ。
「あの夜、私──」
藤代の声が途切れた。前方で、宮村が大きな笑い声をあげたからだ。「うわ、まじか、こんな宿!」と、空々しい歓声が竹藪を抜けて降ってきた。
藤代は唇を噛んで、それきり黙った。横顔の輪郭が、七年前と同じところで、少しだけ違う形に痩せていた。彼女の呼吸が、坂の途中で一度、不自然に止まった。何かを言いかけて、飲み込んだ音だった。
宿屋は、断崖を背に建つ古い木造の二階建てだった。瓦の半分が苔色で、雨樋の継ぎ目から黒い染みが壁に走っていた。玄関の硝子戸を開けると、線香に似た、けれど甘ったるい匂いが廊下の奥から流れてきた。記憶の鍵が、頭の奥で回った。
地下室の匂いだった。あの夜、俺が閉じ込められた、あの場所の匂い。
「お部屋、ご案内いたします」
宿のばあさんは、皺の奥から俺を一度だけ見た。視線が、俺の胸の中心を撫でて、すっと外れた。何かを確かめたみたいだった。他の連中には、目もくれなかった。ばあさんの首には、変色した古い数珠が二重に巻かれていた。歩くたびに、玉と玉が乾いた音を立てた。木魚を小さく叩いたみたいな音だった。
割り当てられた二階の角部屋は、畳の縁が擦り切れていた。窓の桟に、細かい砂のような白い粉が積もっている。塩だった。指で擦ると、舌の根に張りつく苦みがあった。
部屋に荷物を放った俺は、窓を開けた。
崖下の岩に、波が打ち寄せていた。九月の海は冷たいはずなのに、潮の匂いだけが妙に生暖かかった。血の温度に近い、と思った。霧の向こうに、断崖の腹をくり抜いた古い祠の屋根が覗いていた。あの真下に、地下室がある。七年前、俺が三日間閉じ込められた場所。
俺はその方角を、ただ見た。指先がいつのまにか、窓枠の木をきつく握り込んでいて、爪の白さが自分のものではないみたいに浮き上がっていた。
その時、聞こえた。
潮騒に混じって、女の声。
啜り泣きだった。低く、長く、引き絞るような泣き声が、波の周期と少しだけずれて、ずれて、また重なった。声の主は、泣くことに慣れていない人間の泣き方をしていた。喉の奥で、何度も何度も、声を殺そうとして、殺し損ねていた。
俺は息を止めた。
廊下で、田所が笑い声をあげていた。宮村が何か叫んでいた。階下の食堂から、椅子を引く乾いた音がした。誰も気づいていない。気づいているのは、俺だけだ。
啜り泣きは、確かに、宿の真下から──地下室の方向から、聞こえていた。
「夕飯、六時からだって!」
廊下で誰かが叫んだ。藤代の声ではなかった。
俺は窓を閉めた。硝子の鍵をかけた瞬間、外の啜り泣きは、ぴたりと止んだ。風の音さえも消えていた。耳の奥に、自分の心臓の音だけが、太鼓のように残った。
部屋の畳に、俺は腰を下ろした。鞄の奥から、七年抱え続けた一冊のノートを取り出す。あの夜、地下室の床板の下から見つけて、こっそり持ち帰った古文書の写しだ。表紙の墨は擦り切れて、たった四文字だけが、まだ読めた。
──贄は、七人。
ノートを閉じた俺の頭上で、天井が、ぎしり、と鳴った。
二階の、誰もいないはずの部屋で。
足音が、ゆっくり、こちらへ近づいていた。