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雨夜の依頼書

第1話 第1話

第1話

第1話

灰皿で、煙草が短く爆ぜた。

城戸隆は最後の一本を押しつぶし、フィルターの焦げを指の腹で潰した。三十二本目。今夜だけで。

灰皿は、もう山ではなく塚だった。フィルターの焼けた匂い、湿気、雨に運ばれてくる排気ガスの粒子。舌の根が苦い。指先は黄ばみ、爪のあいだに灰が詰まり、爪の白い半月は、もう半年も見ていない。胸の奥では、肺の代わりに何か別の臓器が、煙を消化しているような気さえした。

雨が窓を叩いている。安アパート二階、六畳一間、家賃三月滞納。机の上には差し押さえ通知が一枚。その下に、判の押されないままの離婚届。妻の欄だけが、几帳面な字で埋まっている。 俺の欄は、白いままだ。

——もう妻ではない女の筆跡を、城戸はもう何百回となぞっただろう。きれいな字だった。最後まで、最後の最後まで、こちらを責める言葉ひとつなく、ただ署名欄を埋めた。憎まれているなら、まだ救いがあった。彼女は、城戸を憎むことすらせず、ただ静かに、扉を閉めるように降りていったのだ。

蛍光灯が一度、瞬いた。

七年前まで、城戸は刑事だった。今は探偵の看板すら下ろし損ねたまま潰れかけている。差し押さえを待つ部屋。煤と煙草のヤニ。それが今の城戸隆だ。

壁紙はもう壁紙の色をしていない。台所のシンクには洗わないままのカップが三つ。床の隅で、ゴキブリが一匹、長い触覚をゆっくり揺らしてから、暗がりへ滑り込んだ。配管が一度、ぐぅ、と鳴った。家そのものが、内臓を病んでいる。

——もういいだろう。

ぼんやり、そう思った。首を吊るには天井が低すぎる。眠剤を煽るには、薬局へ行く金もない。じゃあどうするか。考えるのも面倒だった。面倒、という感覚すら、もう本物の感情ではないような気がした。

そのとき。

エンジン音。

低く、滑るように、窓の下を通り過ぎる。一瞬。それだけ。

音は、奇妙なほど規則的だった。アクセルを踏み込まず、惰性で滑らせる音。アスファルトの水たまりを切り裂くタイヤの摩擦音が、二秒、三秒。それから消える。普通の通行なら、もう少し速い。配達車なら、もう少しエンジンが荒い。あれは、見ている側の音だった。

城戸は目を開けた。

時計の針は午前一時を回っている。雨脚は強い。傘も差さずに歩く者はいない時間。配達には早すぎ、酔客のタクシーには遅すぎる。 あの徐行は、何だ。

椅子から立ち上がる。膝が鳴った。長く座りすぎた身体が、油の切れた蝶番のような音を立てる。 カーテンの隙間に、身体を寄せる。指でカーテンを開かず、頬を布の端に当てて、雨粒越しに外を見た。光に対して影をつくる側に、自分を置く。

灰色のセダン。

国産の中型。色は、街灯の下で正確に灰色に見えるように選ばれている。夜に溶ける色だ。 街灯の下を、ゆっくり通り過ぎていく。ナンバープレートは、街灯の角度に対し、わずかに俯いている。読まれない位置に、運転手が首を振った。プロの動作だ。運転席の影。助手席にも、誰か。二人乗り。

——三度目だ。

最初は午前零時を回ったところ。 二度目は、その十二分後。 そして今、三度目。

頭のメモが、勝手に時刻を刻んでいる。間隔はほぼ十二分。三度とも、同じルート、同じ徐行、同じナンバーの伏せ方。偶然の通行が、偶然の同じ動作を三度繰り返すことは、刑事の経験則ではあり得ない。

路面の水を切るタイヤの音が、三度ともほとんど同じ秒数だった。ハンドルを握る人間の踏み込みが、三度とも同じ筋肉で、同じ重さを掛けている。一人の人間が、訓練された手順で、同じ部屋を三度なぞっているのだ。標的の確認、退路の確認、そして、突入時刻の確認。三度目で、向こうの中で何かが「決」に変わった。それが、雨音の向こうから、はっきり伝わってきた。

巡回している。標的を確認している。

刑事の目、と言うほど大層なものではない。ただの習慣だ。張り込み。尾行。追跡。やる側だった頃の感覚が、勝手に背骨を伝った。背骨の節が、一つ一つ、思い出すように熱を持ち始める。

煙草を新しく一本咥えた。火は点けない。 窓の外から、室内の煙の動きを読まれたくなかった。 咥えた煙草のフィルターを、奥歯で軽く噛む。冷たいまま。それでも口の中に煙草の匂いが滲み出してくる。空咥えで吸う息は、ただの夜の空気より、ずっと深く肺の底まで届いた。

セダンのテールランプが、ブロック塀の角で消える。

城戸は床へ膝をついた。 畳の縁を爪で起こす。手応え。古い造りはこういうとき助かる。畳の下、根太と根太の間。油紙に包まれた金属の手触り。冷たい。指先に伝わる冷たさが、肘から肩、首の後ろまで、一直線に登ってきた。

拳銃。

油紙の四隅を、湿気が黒く滲ませていた。七年分の畳のかび臭さと、銃油の鉄錆の匂いが、指先からゆっくり立ちのぼってくる。鼻の奥で、その匂いと、長年染みついた煙草のヤニが、古い知り合い同士のように馴染んでいった。指の震えはなかった。逆だった。指は、油紙の手触りを、待っていた。

中古のオートマチック。違法に決まっている。退職金で買った最初の物が、これだった。何のために買ったのか、その時は自分でも分からなかった。妻にも、誰にも、言わなかった。畳の下に油紙を敷いたあの日、城戸は、自分が何を埋葬したのか分かっていなかった。

七年経って、ようやく分かる。 俺は、いつかこういう夜が来ると、自分で知っていたのだ。

油紙を剥がす指が、自分のものでないように落ち着いていた。グリップに親指を這わせる。記憶していたよりも軽い。記憶していたよりも、馴染んだ。掌が、七年前の形を覚えていた。

弾倉を抜く。 装弾数、八発。薬室に一発。 スライドを引いて戻す。雨の音に紛れて、金属音はほとんど消えた。金属が金属に噛み合うその小さな手応えが、掌から肘、肩甲骨の裏側まで、忘れていた経路を一直線に辿って降りていった。マガジンを底から掌で叩いて押し込む。カチン、と心臓の奥にだけ届く音がした。 指は——わずかに震えていた。

ただし、それは恐怖の震えではなかった。長く眠っていた筋肉が、起こされた驚きで震えているのだ。

「また来やがった」

声に出してみて、自分の声が思ったより低いことに、少し驚いた。 七年ぶりに、生きている声だった。

そのとき、雨音の合間に、別の音が入った。

廊下。 鉄製の外階段を上る靴音。湿気で軋む段板を、知らない者の歩き方。革靴。一人——いや、二人。 故意に音を殺している。だが、軋ませない歩幅を知らない。よそ者だ。 段板の軋み方で、体重まで読めた。前を行く方が重い。九十キロ前後、肩幅のある男。後ろはやや軽い。七十あるかないか、足運びがしなやかで、おそらく若い。前が突入役、後ろが補助。役割まで、靴音が教えてくれる。

息を殺す。

——カチ、と。

鍵穴に、針金が滑り込む音。

聞こえるか聞こえないか、ぎりぎりの金属音。だが、やっている側のリズムまで分かった。鍵穴の奥にピックを差し、テンションを掛け、内側のピンを順に弾いていく音。素人ではない。三秒で、半分まで終わっている。

ピンが一つ、二つ、三つ。テンションレンチの角度がわずかに変わる気配。プロは、こういう仕事に呼吸の音を漏らさない。漏らさない、ということ自体が、彼らの素性を雄弁に語っていた。あれは、人を殺すために来た足取りだ。

城戸は壁へ背を貼りつけた。

蛍光灯のスイッチを、左手でゆっくり下ろす。 机の上の、橙色の読書灯だけ残す。いきなり全消しは、向こうへの合図になる。 コードを足の指で踏み、コンセントから引き抜いた。 真っ暗。

暗さに、目が慣れるのを待つ。三秒。四秒。雨音が、三倍に大きく聞こえる。瞳孔が開き、闇の中に部屋の輪郭が、墨で描いたように浮かび上がってくる。机、椅子、窓、ドアの位置。歩幅の数まで、頭の中で測り直した。

頭の中で、選択肢が並ぶ。 警察。間に合わない。震えた指で押した一一〇は、繋がる前に死ぬ。 廊下。出口は一つ。塞がれている。 窓。鉄格子はない。下は雨で滑る非常階段。二階分。

——窓だ。

決める。

決めた瞬間、男の眼の奥で、何かが灯った。 七年間、灰の中で燻っていた何か。潰れた煙草の、最後の火種。

獣の目、と他人なら呼ぶだろう。 城戸自身は、それを昔、「仕事の目」と呼んでいた。

カチリ、と最後のピンが落ちる音がした。

ドアノブが、外側からゆっくりと回る。

城戸は動かない。 息は浅く、心拍は速い。 だが、震えはもう、なかった。

差し押さえも、離婚届も、机の上に残していく。 七年前に握り潰された証拠の名前も。 自殺で処理された恋人の顔も。

全部、ここに置いていく。

ドアが、五センチ、開いた。

その隙間から、雨に濡れた革手袋の指先が、すっと入ってくる。

窓の外。街灯の下に、さっきのセダンが戻っていた。 今度は、停まっている。 エンジンを、切らずに。

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