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雨夜の依頼書

第2話 第2話

第2話

第2話

革手袋の指が、ドアの隙間で止まった。

城戸は息を止めた。橙色の読書灯も、もう消してある。闇の濃度が、瞳孔の奥で安定するのを待つ。三秒、四秒。雨音が、鼓膜の内側で渦を巻いた。畳の目の一本一本まで、暗さに慣れた目が拾い始める。喉の奥に、苦い唾が溜まっていた。飲み下す音さえ、向こうに聞かれそうだった。

ドアが、また三センチ動いた。

蝶番が、湿気で泣いた。よそ者の指は、その音に一瞬怯んだ。素人ではないが、この部屋の蝶番は知らない。城戸は知っている。七年、毎日聞いてきた音だ。建付けの歪み、軋む位置、止まる角度。蝶番は、味方だ。

壁から背を剥がす。靴下の踵で、畳の縁を踏む。床鳴りの位置を、足の裏で避けながら、出窓の側へ二歩、三歩。脇腹に、銃身の冷たさを押し当てた。汗で滑らないよう、グリップを握り直す。出窓のクレセント錠は、もう半分外してある。指一本で、開く。雨の匂いが、革と鉄錆の匂いを薄く洗っていた。胸の奥で、心臓が、いつもより半拍だけ早い。だがそれだけだ。震えはない。指先の感覚は、むしろ研ぎ澄まされていた。

ドアが、一気に開いた。

革手袋の男が、肩から先に入ってくる。九十キロ。靴音の通りだった。サプレッサー付きの拳銃。銃口は床へ向いている。安全のためではない。室内の角度を測っているのだ。プロの突入。肩の角度、踵の入れ方、呼吸の浅さ。全部、訓練された人間の動きだった。少なくとも、街のチンピラに払う額の、十倍は払われている男だ。

「いない」

低い囁き。 後ろの男への合図。 入る、確かめる、仕留める。手順は三つ。

二人目が滑り込んでくる。瞳の高さが、九十キロの肩より低い。若い。同じく覆面、同じくサプレッサー。耳に、無線のイヤピース。コードが首筋を走っている。覆面の隙間から、若い男の汗の匂いが微かに漂った。緊張している。九十キロの方は、汗の匂いがしない。場数の差だった。

——後ろだ。

城戸は声に出さなかった。 代わりに、机の脇の灰皿を、手首だけで投げた。 三十二本のフィルターを孕んだ陶器の塊が、暗闇を切って、若い方の顎を打った。骨と陶器のぶつかる音。フィルターと灰が、宙に散る。男の膝が落ちる。

城戸はその動きを待たなかった。

九十キロの方へ、三歩で詰めた。サプレッサーの銃身を、左手で下から撥ね上げる。男の射線が、天井へ飛ぶ。発砲は、ない。プロは、外れる引き金を引かない。 代わりに、男の右肘が、城戸の脇腹へ食い込んだ。 息が抜けた。 構わない。

右の肘を、男の喉首へ内側から突き上げる。喉仏の硬い軟骨が、肘に伝わる。 「ぐ——」 男の体重が、わずかに浮いた。

——浮かせれば、それで終わりだ。

城戸は男の腰のベルトを掴み、自分の腰を低く落とした。男の重心が、城戸の肩に乗る。九十キロが、九十キロのまま、宙へ持ち上がった。柔道の経験は、ない。だが、人を担いで運んだ夜は、刑事時代に何度もあった。生きていない人間を、何度も。担ぐ要領は、あの夜の屍体たちが教えてくれている。死体は文句を言わない。生きた人間は暴れる。だが、息を奪われた直後の人間は、その中間で、いちばん運びやすい。

出窓の框まで、半歩。 腰の捻りで、男を外へ放る。 革のジャケットが、雨の中へ、墨を撒くように消えた。

二階下のコンクリート。鈍い音。 それから、小さく一度、呻き。

「——この野郎ッ」

若い方が立ち上がっていた。顎が割れている。歯のあいだから血の泡。手にはナイフ。突く構え。

距離、二メートル。

城戸はオートマチックを抜いた。 撃たない。 銃身を、振り下ろした。 男の手首の橈骨に、鉄の角がめり込む。手首が裏返り、ナイフが畳に落ちた。

「やめ——」

膝で、男の鳩尾。肘で、男の顳顬。

二発で、意識は閉じた。

イヤピースから、ノイズ混じりの男の声が漏れていた。 「——応答しろ。二号」 答える者は、もういない。落ちた覆面の縁から、若い男の素顔が半分覗いた。二十代の前半。どこかで見たような、見たことのない顔。城戸はその輪郭を、一瞬だけ記憶に焼き付けた。後で照合する。生きていれば、の話だが。

城戸は、若い男の腰帯を掴んだ。框まで、二歩。 七十キロ。さっきより軽い。 框の外へ、もう一人を投げた。

二階下で、雨が二つ目の重い音を吸った。

城戸は窓枠に手を掛け、外の闇へ身を投げた。 非常階段の手すりを、掌で受ける。冷たい鉄が、手のひらの皮を一枚剥いだ。血の温度が、雨に薄まっていく。 構わない。 足を踏み替え、一段、二段、三段。錆びた鉄板が、靴の下で、ぐ、ぐ、と沈んだ。 踊り場で、一度だけ振り返った。 六畳の窓に、煙草の匂いと、机の上の離婚届を置いてきた。差し押さえ通知も。冷蔵庫の中の、腐ったマヨネーズも。 全部、置いていく。

地面に着く。

城戸は壁に背を貼った。 非常階段の真下、ゴミ集積所の影。生ゴミの腐った酸の匂いが、雨に膨らんでいる。投げ落とした二人は、コンクリートの上で動かない。九十キロの方は、首が変な角度に折れている。若い方は、口から血の泡を吐いて、まだ呼吸している。倒れた男たちのサプレッサーが、雨に濡れて鈍く光っていた。拾うべきか、一瞬、迷った。だが、足跡を残す凶器は、置いていく方がいい。刑事だった頃の、染みついた癖だった。

エンジン音。

セダンは、まだ路地の角に停まっていた。 排気の白い煙が、雨の中で、まっすぐ立ちのぼっている。 ドアは、開かない。 運転手は、降りない。 助手席も、降りない。

——なぜだ。

仲間が二人、二階から落ちてきた。普通なら駆け寄る。撃ち返す。何かする。 何もしない。

ということは。

城戸は、銃身を路地の反対側へ向けた。 ゴミ箱の列の奥。古いブロック塀。塀の上から、雨樋の影。 影が、一つ、不自然に長い。

——三人目。

最初から、そういう布陣だった。 二人で踏み込み、一人で逃げ道を塞ぐ。 セダンの二人は、運転手と狙撃手。降りないのではない、降りる必要がない。

城戸の喉が、乾いた。 だが、口の端が、わずかに上がった。

七年前の感覚が、戻ってきていた。

塀の影が、わずかに動いた。 銃口の光が、雨粒に反射する。 コンマ二秒。狙撃手なら、もう撃っている。

——引き金を、引かない。

殺すな、と命令されている。

城戸の胸の奥で、何かが、はっきり噛み合った。 殺すなら、出窓から落とした時点で、セダンの二人が降りてきている。 生かして、連れ帰る指示。 ということは——七年前の何かを、向こうはまだ俺に問いたい。

握り潰された証拠。 消えた同僚。 自殺で処理された恋人の、最後の電話。

七年、ずっと一人で抱えてきた問いに、向こうから答えが歩いてきている。

雨が、襟首から背骨を伝った。冷たさが、尾骨の手前で止まる。そこから先は、もう熱だった。腹の底に、七年間、ずっと炭火のように埋めてきた熱。それが、今夜、息を吹き返そうとしていた。怒りでも、憎しみでもない、もっと静かな、もっと飢えた、何か。

城戸は、ゴミ集積所の蓋を、靴底で蹴った。蓋が鉄の音を立てて転がる。塀の上の影が、その音に反応して、コンマ一秒、銃口を逸らした。

その隙に、城戸は路地の奥へ駆けた。

水たまりを蹴る。革靴の底が、雨と油と血の混じった水を撥ねる。背中に、発砲音はない。 当然だ。 撃たない、と決めている相手は、撃たない。

代わりに、靴音が一つ、追ってくる。 塀の上から飛び降りた音。 革底ではない。ゴム底。 追跡用の靴。

——三人目。今、こちらへ向かってきている。

城戸は路地の角を曲がった。 角の壁に、肩を一度叩きつけて、息を整える。 グリップを握り直す。掌の皮が剥けた箇所に、グリップの溝が食い込み、痛みが熱に変わった。 痛みは、覚醒だった。

雨の音の向こうで、ゴム底の足音が、止まった。

止まったということは、相手も角の手前で止まったということだ。 こちらの呼吸を、聞いている。 こちらの銃口の高さを、想像している。

城戸も、息を止めた。 角を挟んで、二人の人間が、互いの輪郭を、雨音の振動だけで測っていた。

雨が、睫毛を伝って、頬を流れた。

煙草が、欲しかった。

口の端が、また少しだけ、上がった。

七年ぶりに、自分の方から、角を曲がる側に立っていた。

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