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雨夜の依頼書

第3話 第3話

第3話

第3話

雨の角。二人の人間が、互いの呼吸を、雨音の振動だけで読み合っていた。

城戸は、肩を壁から剥がさない。グリップを握り直す。剥けた掌の皮の下から滲む血が、グリップの溝へ流れ込み、握りが少しだけ滑った。それを、指の腹で押し戻す。橈骨と尺骨の間で、心臓の音が、一拍、二拍、間延びする。

ゴム底の足音は、止まったままだ。

雨が、屋根のトタンを叩く。リズムが、二回、いつもより重い場所がある。あれは、屋根ではない。雨樋の下、塀のこちら側に積まれた段ボールの上。男の体重が、雨を吸わせて、紙を沈ませている音だ。一センチ刻みで、紙の繊維が崩れていく音まで、城戸の耳は拾った。男もまた、息を殺している。だが、雨を吸った段ボールは、男の心拍に合わせて、わずかに沈み続けていた。心拍は、速い。城戸より、二割は速い。それだけで、向こうの優位は、一つ、削れた。

——出てこないなら、引きずり出すまでだ。

城戸は、左手で胸ポケットを探った。煙草の箱。中身は空。フィルター一本もない。代わりに、空箱を、肩越しに、角の向こうへ低く放った。

紙の塊が、水たまりに落ちる。チ、と微かな音。

向こうが、コンマ一秒、反応した。 ゴム底が、半歩、後ろへ引いた。

——半歩、足りない。

城戸は、角を曲がった。

銃は、構えない。構えれば、向こうも構える。肘を折り、肩から先に、男の輪郭へ突っ込んだ。

帽子の庇。覆面。マズルフラッシュを抑える筒。 全部、目の端で拾った。距離、一メートル半。男の銃口が、城戸の胸の中央へ、上がってくる。動作の速さは、訓練されている。素人ではない。引き金にかかった指の角度が、教科書通りに整っていた。逆に言えば、教科書通りすぎた。城戸は、その硬さの隙間に、肘を差し込んだ。

だが、城戸の右肘の方が、コンマ二秒、早かった。

男の顎の付け根。下顎の関節。 肘の硬い角が、骨を、内側へ押し込む。

ゴ、と。

雨の音の中で、ただ一瞬、その軋みだけが、はっきり聞こえた。

男の膝が、コンマ五秒遅れて、崩れた。

城戸は、男の体を塀へ押し付けた。 銃を持つ手首を、左手で潰す。指の腱が、ぐ、と外れる手応え。落ちた銃が、水たまりに沈んだ。波紋が一つ広がり、街灯の橙色が、その上で歪んだ。

「動くな」

囁いた。 自分の声が、また、低い。雨に喰われて、自分の耳にすら届かないほど低い。だが、男の瞳孔が、はっきり一段、絞られた。届いている。

男のイヤピースが、首から下がっている。コードの先のレシーバーから、ノイズと、別の声。 「——三号、応答しろ」 城戸は、レシーバーを足で踏んだ。プラスチックが、ぐしゃりと潰れる。コードがプチン、と切れた。

向こうの声が、消えた。

セダンの方角で、ドアが開く音もしない。 向こうも、もう、降りてはこない。 仲間が一人、応答しなくなった。撃ち合いの音もない。室内で発砲の閃光も上がらなかった。読み取れる情報の量が、少なすぎる。だから、慎重になる。プロの判断だ。城戸も、追う側だった頃、同じ判断を何度もした。引き際を間違えた相棒の顔が、一瞬、雨の向こうに浮かんで、消えた。あの時、雨は、もっと冷たかった。

男の覆面を、剥ぐ。

二十代の後半。額に、古い切り傷。 見覚えはない。 だが、首筋の奥、耳の裏に、墨で入れた小さな印。点が三つ、円の中。 こいつは、末端だ。組の番号を、肉に焼き付けられている側の人間。代わりはいくらでもいて、消えても誰も探さない側の人間。城戸は、その肌の上の墨を、指の腹でなぞった。雨に濡れても、墨は、にじまなかった。

「誰の指示だ」

男は答えない。

城戸は、男の顎をもう一度、肘で押した。下顎の関節が、また鳴る。男の喉が、ヒュ、と鳴った。

「誰の、指示だ」

「——知らねぇ」

歯のあいだから、血の混じった唾が漏れた。 本当に知らない、ではない。 知っていて、言えない、の口の動きだった。城戸はその違いを、刑事時代に何百人分も見ている。本当に知らない男は、目を泳がせる。知っていて言えない男は、目を、地面の一点に固定する。今、こいつの目は、城戸の靴の爪先を見ていた。雨で濡れて光る革の縫い目、その一点だけを、瞬きもせず追い続けていた。視線を他所へ動かす許可を、こいつは、自分の頭の中の誰かから、まだ受け取っていない。

「組の名は」

返事がない。

膝で、男の脇腹。 肘で、男の鎖骨の付け根。

二発で、首が傾いた。意識は、まだ繋がっている。だが、もう抵抗の力は残っていない。

城戸は、男の懐に手を入れた。 財布。携帯。鍵束。 それから——身分証。

雨の中、ビニールカバーに包まれた、薄いカード。 街灯の下に、一度、かざす。

街灯の橙色が、カードの表面を、ゆっくりと、舐めた。

——紋章。

円の中に、翼を広げた、鳶。 翼の先が、左右、非対称。 左の翼が、わずかに、長い。 鳶の喉に、細い、鎖。 鎖の輪は、三つ。三つ目の輪だけが、他より、ほんのわずかに、太く彫られていた。印刷の誤差ではない。意図して、印として、太くされたものだ。

城戸の胸の中で、何か、固いものが、一気に弾けた。指先が、ほんの一瞬、痺れた。雨で冷えていたはずの掌に、急に熱が戻ってくる。心臓が、肋骨の内側を、下から殴った。

七年前。 握り潰された捜査資料の角に、藍色の印影。 真夜中の電話。受話器の向こうで、震えていた女の声。

『隆、私、もう……』

それきり、唯の声は、二度と聞けなかった。 浴槽。手首。遺書はなかった。 担当の検視官は、自殺、と書いた。

城戸が現場に駆けつけた時、浴室の鏡には、湯気で薄れた指の跡が、五つ。 彼女の細い指のものではない、もっと大きな、男の掌の跡。 報告書には、書かれなかった。城戸が指摘しても、現場主任は鏡を見ようとさえしなかった。翌朝、鏡は清掃業者の手で拭われ、跡は、この世から消えた。

同期の沢渡が、署の地下倉庫から、段ボール三箱分の証拠品を運び出すのを、見た。 廊下の蛍光灯の下、沢渡の右袖に、藍色の印影が一瞬覗いた。 翌週、沢渡は、地方の署への転属を理由に、姿を消した。 警察学校で同じ釜の飯を食った男だ。結婚式で、城戸が祝辞を読んだ男だ。 今、どこにいるのか、生きているのかも、分からない。

その全部の入り口に、この紋章があった。

捜査資料の隅、潰された写真の縁、唯の最後の電話の三十分前、彼女のマンションのインターホンに映っていた、男の上着の襟元。 全部、同じ紋章。 円の中の、翼の歪な、鎖の鳶。

七年間、誰一人、この紋章を口にする者はいなかった。 警察も、新聞も、興信所も。 あったのは、城戸の頭の中だけだった。やがて、自分の妄想ではないか、とすら、思い始めていた。酔った夜、何度も自分のノートを破りかけた。鏡の前で、自分に「お前が壊れているだけだ」と言い聞かせた朝もあった。 それが、今、雨の中、城戸の指の上で、橙色の街灯に、はっきり浮かんでいる。

——いた。

城戸の喉から、声にならない音が、漏れた。

七年、灰の下に埋めていた炭が、芯から、白く灼け始めた。 怒りは、もう、ない。 あったのは、確認だった。 七年間、自分の頭の中だけで生かし続けてきた一つの仮説に、初めて、外側から、声にならない返事が返ってきた。その、息の詰まるような、一瞬の静けさだった。 俺は、間違っていなかった。 唯は、自殺ではなかった。 沢渡は、ただ逃げたのではなかった。 握り潰された証拠は、紛失ではなかった。

ぜんぶ、繋がっていた。 七年、繋がっていた。 俺だけが、糸を見失っていた。

カードを、内ポケットに突っ込む。 胸の内側で、紋章の角が、肋骨に当たる。冷たい角だ。 だが、その冷たさが、今、城戸の体温を、内側から押し上げていた。指先まで、ゆっくりと、血が戻ってくる。雨が、また、皮膚の上で温度を持ち始めた。

城戸は、男の体を、塀の脇に転がした。 死なない程度に、生かしておく。 こいつは、駒だ。 本物の獲物は、もっと、奥にいる。

セダンは、もう、いなかった。 排気の白い煙の残滓だけが、雨にほどけていく。 向こうも、引いた。 今夜の獲物が、思った以上に、噛み返してきたから。

城戸は、表通りの方へ、歩き出した。 踵の血が、水たまりに、薄い赤を、引く。

——狩る側に、戻る。

口の中で、煙草の代わりに、その言葉を噛んだ。 苦かった。 七年分の、灰の味がした。 だが、舌の根に、確かな手応えがあった。

朝までに、整理しなければならないものが、いくつかある。 コインロッカーの奥に、七年前のノートが、ある。 駅裏のファミレスは、始発前から、明かりが点いている。 ナプキンが、何枚あっても、足りないだろう。

雨脚が、わずかに、弱まり始めていた。

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