第2話
第2話
扉の奥へ、踵が、勝手に運ばれていった。 止めようと思った。意思の問題ではなくなっていた。腹の底に、何か別の重力が生まれていて、礼拝室の中央——白いセーラー服の方へ、俺の体重ぜんぶを引き寄せている。 靴底が、扉の敷居を越えた瞬間、空気がまた一段、変わった。 冷気が、湿気を含んだ重さに変質した。線香の甘さに、古い羊毛と、雨に濡れた紙の匂いが重なる。三十年、誰の声も拾わなかった空間が、今夜、誰かのために息を整えてきた——そんなふうに、思えた。 耳の奥で、自分の鼓動が、外の雨音より大きく響いていた。咽喉の奥がからからに乾いて、唾を飲み込もうとした音だけが、礼拝室の天井に、奇妙に大きく反響した。 懐中電灯の光が、長椅子の背を順に舐めていく。横向きに伸びた板の表面に、彫り込みの跡があった。「○○ より △△ へ」。そういう、どうでもいい落書きだ。生きていた誰かが、退屈な礼拝の時間にナイフの先で刻んだ、十代の証拠。 木目の溝に溜まった埃が、光の軌跡の上で、ふわりと、舞い上がる。それが、まるで、ずっと止まっていた時間が、今ようやく動き始めた合図のように、見えた。 その上に、白い指が、すっと、置かれた。 少女の手だ。 細い、骨と血管の透けた、十六、七歳ほどの手。指先は、爪が短く切り揃えられて、内出血のように紫がかっている。爪と肉の境目に、墨のような黒い線が、薄く、引かれていた。
——よく来てくれたね、奏太くん。
声は、口元から発せられたはずなのに、耳の奥に直接置かれていた。 鼓膜を経由しない言葉。脳の内側で、誰かが、こちらの名前を、優しく書き取った——そんな感触だった。 俺は、ようやく、彼女の顔を、見た。
左目が、濁っていた。 白濁ではない。透明な水に泥を一滴落として、底からゆっくりと煙らせた、そんな濁り方をしていた。瞳孔があるべき場所に、何かが、別の生き物のように沈殿している。右目だけが、ぞっとするほど澄んでいて、その左右差が、彼女の顔を、ひどく不均衡な造形に見せていた。 背丈は、俺の肩のあたり。長い前髪が額に張りつき、こめかみから一筋だけ、湿った髪が頬に貼りついている。白いセーラー服のリボンは、結び目が、古びた血の色に変色していた。 襟元のラインに沿って、細かな水滴が、玉になって光っていた。汗とも雨とも違う、礼拝室の冷気がそのまま結露したような、濡れ方だった。 スカートの裾から、靴下が見える。膝下までの、白いレーヨンの靴下。それが、両足首のところで、ずるりと、垂れていた。 靴を、履いていない。 礼拝室の床に、彼女は素足のまま立っていた。爪先が、フローリングの埃の上に、二つの小さな影を作っている。 影の輪郭が、やけに、はっきりしていた。普通、人の足は、立っている場所に微かな汗で円を残す。彼女の素足の周りには、その湿気がまったく無く、ただ、影だけが、紙に貼りついた切り絵のように、くっきりと床に押されていた。 「……君は」 やっと出した俺の声は、自分のものとは思えないほど、低かった。 「ずっと、待ってたんだよ」 彼女が、笑った。 口角だけが上がる、子供のはにかみみたいな笑い方だった。それが、どうしてか、心臓を直接掴まれるみたいに、痛かった。 「奏太くん、来てくれるって、信じてた」 信じてた、と彼女は言った。 何年も、誰かにそんな言葉をかけられた覚えがない。バイトのシフト、母への仕送り、配信仲間との約束。どれも「来るだろう」「来るはずだ」の延長でしか、俺は誰かに数えられたことがなかった。 信じてた、という三文字は、あまりにも、俺の生活に縁遠かった。 胸の奥で、何かが、ほんの一瞬、ふっと、緩んだ。長く張り詰めていた糸の片端が、ゆっくり、解かれていく感触。それが、何より、まずい、と、頭のどこかで、警報が鳴った。 ぐらりと、視界が傾く。 踏みとどまろうとして、長椅子の背に手を置いた、その瞬間だった。
——っ、ぐ。
階下から、雅人の声が、上がった。 言葉ではなかった。喉の奥が潰れるような、空気の漏れる音。 ヒロの方は、もう少し遅れて、短く、犬の鳴き声に似た悲鳴を、一度だけ上げた。 それきり、二人の声は、ぷつりと、切れた。 息も、足音も、機材を擦る音も、何一つ、続かない。 たった、二秒だ。 時計の針が二回動く間に、一階で、何かが、終わった。
「雅人——!」 怒鳴ろうとして、踵を返そうとした。 動けなかった。 膝から下が、床に縫い止められたみたいに、重い。彼女の左目が、俺を、しっかりと、見ていた。 「行かないで」 彼女の手が、俺のシャツの袖に、触れた。 体温が、無い。ただ、湿っていた。雨に濡れた布越しに、冷たい大理石を握り込んだような、そんな感触だった。 指先の冷たさが、シャツの薄い綿地を貫いて、皮膚を、すっと、撫で下ろした。一瞬、その感触に、自分の腕の毛が、ぞわりと逆立つのが、わかった。 「ね。私だけ、見てて」
私だけ、見てて。 その声に、ほんの一瞬、頷きそうになった自分が、いた。 そのことに、ぞっとした。 俺は、彼女の手を、振り払った。 湿った布が、皮膚から剥がれる感触。冷えた指先が、シャツの繊維に引っ掛かって、ぴ、と糸が一本、ほつれた。 背後で、彼女が、息を、細く、吐いた。怒りでも悲しみでもない、ただ、惜しい、と、言いたげな、そんな呼気だった。 「雅人! ヒロ!」 礼拝室を出て、廊下を駆けた。 鈴の音は、しなかった。代わりに、自分の靴底が床板を叩く音が、廊下の闇に、ばたばたと跳ね返った。階段の手摺りを掴んだ掌に、さっき上ってきた時には無かった、ぬめりが残った。木の表面に、何かが、薄く、塗りつけられていた。 指先を顔に近づけて、嗅いだ。 鼻先に、鉄の匂いが、上ってきた。 線香の甘さの底に、確かに、それは、混ざっていた。 階段を、二段飛ばしで降りた。 一階の廊下。配信の打ち合わせをしていた、玄関ホールの方角。懐中電灯の光が、床を、雑に舐めた。
雅人の三脚が、倒れていた。 脚の一本が、不自然に折れ曲がっている。レンズキャップだけが、廊下の隅に、ころんと転がっていた。 ヒロのカメラは、ストラップごと、床に置かれていた。電源は、まだ生きていて、レンズの内側で、赤いランプが、ちかちかと、無音で、点滅していた。 そして、二人の、姿が、無かった。 代わりに、床板の上に、二つの影があった。 影、ではない。 湿った、染みだ。 人の、形をしていた。 頭、肩、伸ばした腕、開いた指。雅人の三脚に重なるように、もう一人は、その一歩後ろに。仰向けに倒れた人間が、そのまま、水分だけになって床に滲み込んだような、輪郭。 染みの周りに、塩を撒いたような、白い結晶が、薄く、縁取りを作っていた。汗が、極限まで濃縮されて、最後に残った、それが、人間が「居た」ことの、最後の地図のように、見えた。 俺は、その輪郭の上に、しゃがみ込んだ。 指先で、触れた。 ぬるい。 体温の、名残のような、生ぬるさだった。それは、確かに、ついさっきまで、ここに「人間の体温だったもの」が在った、という、証拠の温度だった。 鼻を近づけると、線香と、鉄と、それから、男の汗の匂いが、まだ、薄く残っていた。 雅人だ。 中学のとき、夏の部活帰りに、同じ自販機の前で並んで飲んだ、あの汗の匂い。十二年経っても、こいつの体だけが持っていた、固有の匂い。それが、今、床に、染みとして、貼りついている。 口の奥が、痙攣した。胃が、せり上がってくる。なのに、声は、出なかった。 肩越しに、礼拝室の方を、振り返った。 階段の上の、闇の奥。 すりガラスの向こうに、白い影が、まだ、こちらを、見ていた。
礼拝室の方角から、ちりん、と、鈴が、一つ、鳴った。 さっきの、催促のような響きではなかった。 今のは、もっと、満足げな——食後の、軽い、ため息のような音だった。 俺は、自分の手のひらを、もう一度、染みの上に押し当てた。 ぬるさは、すでに、引き始めていた。あと数分もすれば、この温度は、完全に、廃墟の床と同じ冷たさに溶ける。雅人がここにいた証拠も、ヒロがいた証拠も、消える。 警察を呼んでも、説明はつかない。残るのは、二人を「最後に見ていた」俺、ひとりだ。 背後で、階段の踏み板が、ぎし、と鳴った。 裸足の重みが、一段ずつ、確かに、降りてきている。 段を一つ降りるごとに、踏み板の鳴き方が、わずかに違っていた。ぎし、ぎ、ぎし——そのリズムは、人間の歩幅というより、何か、別の生き物が、人間の歩き方を、思い出しながら真似ている、そんな、ぎこちなさだった。 俺の足は、まだ、動かなかった。 動かないのか、動きたくないのか——その区別さえ、もう、自分でつかなかった。