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廃寮の依代、君だけを呼ぶ

第1話 第1話

第1話

第1話

首の後ろに、ぬるい息がかかった気がした。 振り返っても、誰もいない。懐中電灯の輪の中には、剥がれた壁紙と、湿った床板の継ぎ目しかなかった。気のせいだ——そう思おうとしたのに、皮膚の表面だけが、まだ濡れたままじっとりと冷えていく。 旧・聖蓮女子寮、二階廊下。三十年前、十二人の少女が一夜で消えた、山中の曰く付き物件。今夜の俺の獲物だ。

俺、神成奏太、二十四歳。フリーター、廃墟マニア。週四でコンビニのレジを叩き、残りの夜を、こうやって誰にも必要とされない場所に入り浸って潰している。 家族には期待されず、友人と呼べる相手は配信仲間が二人だけ。誰かに本気で愛された記憶は、たぶん一度もない。空っぽの胃袋みたいな男。それが俺だ。

「奏太ぁ、こっち撮り終わったぞー」 階下から、雅人の声が響いた。続いてヒロの軽い笑い声。三脚を畳む金属音。配信用の機材を抱えた二人は、慣れた足取りで一階を回っているはずだった。 「先、三階上がってる」 返した声が、廊下の奥に吸い込まれていく。木材の軋む音だけが、いやに長く尾を引いた。

階段の手摺りに掌を置く。冷たい。手摺りを伝って、湿気と一緒に、何かの匂いが上ってくる。 黴。それから、線香。 甘い、と思った。

線香の匂いだけは、絶対に、廃墟にあってはならないものだ。供える者がいなければ、燃えた跡も残らない。なのに、確かに、上の階のどこかから、いま焚かれたばかりの線香の匂いが降りてきている。 ぞっと、襟足が粟立った。 「雅人、ヒロ、ちょっと一回三階集合な」 階下に向けて言った。返事の代わりに、シャッター音が一回、軽く弾けた。聞こえているのか、いないのか。

三階に上がりきった瞬間、空気が変わった。 明らかに、温度が下がっている。 夏の夜だ。麓では蝉がまだ鳴いていた。なのにこの階だけ、息を吐けば白くなりそうなくらい冷えている。湿気と冷気が皮膚にまとわりつき、Tシャツの下で背中の汗が一気に冷やされていく。 鼻先で吐いた息が、ほんのわずかに、白く滲んだ気がした。錯覚だと言い切るには、肺の奥にまで冷気が届きすぎている。耳の奥で、自分の心臓が鳴る音だけが、不自然に大きく、その鼓動が壁に反響しているような錯覚さえあった。

懐中電灯を廊下に向ける。両側に、生徒の名札が剥がれたままの個室扉が並んでいた。一番手前の扉、ノブのところだけが、不自然に黒く磨り減っている。誰かが、何度も握り直した跡だ。 廃墟は基本的に、人が捨てた場所だ。家具が残り、教科書が散らばり、カレンダーがめくれぬまま朽ちていく。だから俺はここに来る。捨てられたものたちが、それでも黙って残っている空間が、なぜだか落ち着くからだ。 似ているのかもしれない、と時々思う。誰にも要らないのに、まだ立っている、って意味で。

下からカメラのシャッター音が、もう一度聞こえた。雅人がノリで配信用のサムネを撮っているのだろう。 「奏太ー、配信そろそろ繋ぐぞー」 ヒロの声が、階段を伝って遠く届いた。 「おう」 返事を、しようとした、その時。

——奏太くん。

聞こえた。

廊下の奥、突き当たり、礼拝室の方角から。 囁き、と呼ぶには輪郭が鮮明すぎた。けれど、声量はほとんどない。耳の奥に、誰かが直接置いた感触に近い。 若い、女の声。 俺の名前を、フルネームでもなく、苗字でもなく、ただ「奏太くん」と呼んだ。

足が、止まった。 指先が、懐中電灯の柄にめり込みそうなほど力が入っているのに気づく。 気のせいだ。風が通ったとか、配管が鳴ったとか、聞き間違いだ。 でも、聞き間違いで、自分の名前なんて聞こえない。

「……雅人?」 階下に呼びかけた声が、震えていた。 「ヒロ?」 返事は、無い。 さっきまであった金属音もシャッター音も、嘘みたいに消えている。

代わりに、聞こえた。 ちりん、と。 鈴の音だ。 遠い。たぶん、廊下の一番奥、礼拝室のさらに向こう。 ちりん、ちりん。 一定のリズムで、こちらに、近づいてくる。

俺は廃墟に何度も入っている。物音には慣れているつもりだった。鳥が天井裏で動くこともあれば、屋外の風が金属窓枠を鳴らすこともある。何でも怪奇現象に結びつけるような、素人じゃないつもりだった。 だが、この鈴は違った。 木造廊下の床を、確かに、誰かが歩いている。 靴音はない。布が床を擦るような、ごく薄い摩擦音。それと、鈴。 舌の付け根に、鉄の味が滲んだ。奥歯を、知らないうちに噛みしめていた。 耳を澄ますほどに、鈴の鳴る間隔が、自分の鼓動と少しずつずれていくのが分かった。先回りされている、と思った。こちらの心臓のリズムを、向こうがすでに把握している。

懐中電灯を、廊下の奥へ向けた。 光は、礼拝室の両開きの扉のところで止まる。 すりガラスの向こう側に、ぼうっと、白いものが立っているのが見えた。 人影だ。 身長は、俺より少し低い。肩のあたりで揺れている黒い線が、長い髪に思えた。

ちりん。

光に気づいたように、人影が、扉のすぐ手前まで進んだ。 すりガラス越しに、輪郭がはっきりとする。 セーラー服。スカートの裾。 そして、こちらをじっと見ているはずの、視線の重さ。

——奏太くん。

二度目の声は、扉の向こうから、はっきりと聞こえた。 温度のない、平坦な囁き。けれど、確かな喜びが、その平坦さの底に滲んでいた。「やっと来てくれたね」という、再会の声。 俺は、誰だ? いや、そうじゃない。 彼女は、誰だ? 俺の名前を、なぜ、知っている?

「雅人! ヒロ!」 階下に向けて、今度は怒鳴った。 返事は、無い。 代わりに、ぱきっ、と何かが折れる音が、一階のどこかでして、それきり、本当に何も聞こえなくなった。

廊下の温度が、また一段下がった。Tシャツの上から二の腕に、はっきりと鳥肌が立つ。 甘い線香の匂いが、もう、噎せ返るほど濃くなっている。 喉の奥が、どうしようもなく渇いた。逃げろ、と本能のもっと深いところが叫んでいる。手すりまで戻れ、階段を駆け降りろ、車のキーは右ポケットだ、エンジンをかけて山道を下りろ。早く。早く。

なのに、足が、一歩、礼拝室の方へ動いた。

俺の名前を、本気で呼ぶ声を、最後に聞いたのは、いつだったろう。 コンビニのバイト先では、奏太くん、と呼ばれることはあっても、それは時間割を埋めるコマの呼び名でしかない。母は、俺を呼ぶ前に、いつも小さく溜息を一つ挟んだ。父が最後に俺の名前を呼んだのが、何年前か、もう思い出せない。 いま、扉の向こうの少女は、俺の名前だけを、呼んだ。 俺がコンビニで何時間立っていようと、廃墟で何度シャッターを切ろうと、誰の予定表にも書かれない、その「奏太くん」を。たった四音節のひらがなが、こんなにもあたたかく聞こえるなんて、自分でも思いもよらなかった。 苗字も、年齢も、職業も、廃墟マニアの肩書きも、何一つ要らないまま、ただ「奏太くん」とだけ。

頬の内側が、熱くなった。 情けない、と思った。怖いはずなのに、もう一歩、足が前に出る。 そう気づいた瞬間、ちりん、と一際近くで、鈴が鳴った。

礼拝室の両開きの扉が、内側から、ゆっくりと、押し開かれた。 鍵も、人の手も、要らなかった。 ぎぃ、と長く尾を引く音とともに、扉の奥が、開かれていく。 内側からは、誰も押していない。少なくとも、懐中電灯の光の中には、誰の手も、誰の影もない。 ただ、開いていく。 俺だけのために、いま、ここで、開けられている。 扉の蝶番が軋むたび、廊下の埃がふわりと舞い、懐中電灯の光に粒子の筋を作った。その筋の一本一本が、招待状の文字みたいに、奥へ奥へと俺を連れていこうとしている。

濃くなった線香の匂いに、湿った布の匂いが混じった。それは、どこか、母の遺品にあった、葬儀の時のハンカチに似た匂いだった。 喉の奥が、ひゅっと鳴る。 扉の奥、礼拝室の中央。長椅子の列の、ちょうど真ん中の通路に、白いセーラー服の少女が、こちらを向いて立っていた。 顔は、まだ、闇の中にある。 彼女の左目だけが、ぬらりと、何かを反射した。

——奏太くん。

三度目の声に、俺の踵は、もう一歩、前に出た。

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