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クロウ・ハンター 法の外の探偵

第3話 第3話

第3話

第3話

目を開けた瞬間、右の掌に金属の感触があった。 円い。硬い。指が、三日ぶんの握力で、それを握りしめていた。

天井の蛍光灯。鼻にチューブ。腕に針。左肩の奥で、焼けたワイヤーが脈と同じ速度で疼く。 病室だ、と頭の芯が判定した。同時に、時計の短針も、日付も、全部が三日ぶんずれている、と骨が教えてきた。 息を吸う。肺の袋が、内側から錆びた蝶番みたいな音を立てた。肋骨の内側に、砂利が詰まっている感じがした。吸うたびに、その砂利が一粒ずつ落ちていく。落ちきるまで、あと何秒、と数える癖が、意識より先に動いた。

掌を開く。 銀色の、無地のコインが一枚。 五百円玉ではない。あれは、俺の内ポケットに、三枚入っていたはずだった。 縁に、小さな切り欠きが三つ。 ——見覚えがある。 七年前、黒瀬の煙草の箱の底に、いつも一枚だけ紛れ込んでいたやつだ。「おまじない」とだけ言って、由来は教えなかった。あいつはそれを、人差し指と親指でつまみ、俺の目の前でくるりと回して見せるのが癖だった。銀の縁が、煙草の煙を裂いて光った。その動作を、俺は三秒、四秒と目で追って、いつも切り欠きの数を数え損なっていた。三つ。今なら、数えられる。

こめかみに、冷たい汗。 このコインが、俺の掌まで届いた。 川から引き上げた救急隊員のポケットから、たまたま出てきた——そんな偶然じゃない。三日間、意識のない俺の指に、誰かが何度も握り直させた。握力が戻るたび、確認に来た。掌の中心、生命線の終わりのあたりに、コインの縁の跡が、薄く、二重に刻まれていた。一度きりの押し付けでは、こうはならない。少なくとも、二度。握らされ、握り直され、最後の一回で、指がそれを自分の意志で捕まえた。

裏切りの印。 わざわざ、届けに来た。

廊下で、靴音が止まる。 俺はコインを、口に含んだ。舌の裏。金属の味が唾液を呼ぶ。鉄と、古い銅と、誰かの指紋の脂が、ひと混ぜになって頬の内側に広がった。

ノックなしで、看護師がドアを開けた。若い女。薬指に、細い指輪の跡。最近外した痕。白衣の襟元に、消毒液ではない、かすかな煙草の残り香が滲んでいた。メンソール。安物ではない。 「九条さん、お目覚めになったんですね」 声が、明るすぎる。 三日昏睡の患者が覚醒したなら、ナースコール、担当医、家族連絡——その全部を飛ばしてきた。 「水を」 掠れた声で言う。喉の奥が、紙やすりを呑んだように引き攣れた。 「少しずつ、ですよ」 女の手が、サイドテーブルの紙コップに伸びた。指先が、一瞬、コップの縁ではなく、俺の口元の距離を測った。点滴の速度より先に、俺の呼吸数を見た。 俺は、点滴の針を奥歯で食いしばって引き抜いた。腕の内側から、血が噴く。 「あっ」 看護師の目が、俺の顔ではなく、枕元のモニターを見た。心拍の数字を、読んだ。 見舞客じゃない。報告役だ。

「あんた、配置はいつからだ」 「え?」 「俺の担当は、いつから替わった」 「……昨日、です」 昨日。俺が目覚める可能性が出た日に、差し替えられた。 女の喉仏が、小さく上下した。嘘をついていない。だが、嘘をつかずに済むよう、台本の範囲で答えている。そういう口の動き方だった。

鼻のチューブを、引き抜く。喉の奥を逆向きに引きずり出される感覚。嘔吐反射を、舌のコインで抑え込む。奥歯が、金属の切り欠きの角を探り当てて、そこを支点に、胃の痙攣を押し返した。鼻腔の奥で、三日ぶんの粘液と、薬剤の残り香が、ひと塊になって落ちた。 枕の下に、携帯を滑り込ませる習慣は昔からだった。指が探る。あった。防水仕様。液晶にヒビ。電源を入れる。起動音が鳴らないように、指の腹でスピーカーを塞いだ。 着信、二十三件。 一番上の通知。

《施設入居者、永倉トメ様、本日未明、階段より転落。病院到着時、心肺停止》

婆さん。 五百円玉を三枚、俺の机に置いた、冬の枝みたいな指の、あの婆さん。 「探偵さん、これくらいしか、払えんけど」と言って、硬貨の縁を机の木目に沿って、一枚ずつ並べた指。爪の根元に、長年の工場油が、黒い半月を描いていた。俺はそれを、断らなかった。断ったら、婆さんの背骨が、もう一度折れると分かっていた。

腹の底で、何かが、音もなく裏返った。 怒りでも、悲しみでもない。もっと古い、名前のない温度。胃の壁に、錆びた釘を内側から打ち込まれたような、鈍い熱。

俺はベッドを降りた。 足の裏に、床の冷たさが戻る。視界が一度、ぐるりと回って、戻った。リノリウムの目地に、爪先の血が、点々と跡を引いた。 「一人で立っちゃ、駄目です」 看護師が、俺の左肩の包帯に手を置いた。指の腹が、傷口の縫い目を、探るように動いた。 素人の触り方じゃない。縫合の数を、指で数えていた。報告のためだ。 「離せ」 「せめてドクターを——」 「離せ、と言った」

俺は右手で、看護師の手首を取った。脈を指先で読む。速い。だが、怯えていない。恐怖で速いのではなく、興奮で速い。こういう脈を、俺は昔、取調室の向かい側で、何度も測ったことがある。 「伝言しとけ」 「……?」 「三日預かってくれた礼は、いつか返す。利子つきで」 手首を離す。 看護師は、一歩も下がらなかった。口の端が、ほんの少しだけ吊り上がった。 その笑い、俺は知っている。 素人は、驚く。プロは、笑う。

俺は背を向けた。 撃たれないことは、もう読めていた。こいつの仕事は、俺を泳がせること。行き先を、あいつに知らせること。背中に、女の視線が、冷たい円を描いて貼り付いた。肩甲骨の間、ちょうど心臓の裏側。プロの、見送り方だった。

ロッカー。 川の匂いの染みた衣服が袋に入っていた。ビニールを開けた瞬間、泥と、藻と、重油の匂いが、病室の消毒臭を一息に押しのけた。三日前の夜が、そのままそこに閉じ込められていた。着替える間、左肩の包帯が、新しい血で滲む。ジーンズのポケットに、三枚の五百円玉。濡れて、貼り付いていた。爪の先で、一枚ずつ剥がす。婆さんの体温は、もう、どこにもなかった。 剥がした硬貨を、布で拭う。布の端が、すぐに、川の灰色に染まった。 「すまん」 誰に言ったのか、自分でもわからなかった。婆さんにか、黒瀬にか、七年前の自分にか。声にしてしまうと、そのどれでもあり、どれでもなかった。

階段を使った。 三階分。一段ごとに、左肩が叫ぶ。歯を食いしばる。舌の裏のコインが、頬の内側にずれる。踊り場の窓から、朝の白い光が斜めに差し込んで、階段の手すりに、俺の影を短く切った。影の左肩だけが、にじんで見えた。血が、シャツの下で、包帯の外まで染み出している証拠だった。 職員通用口。守衛は新聞を読んでいた。視界の端で、俺を追う気配はなかった。追う必要がない。あの看護師が、もうどこかに報告を入れている。新聞の見出しに、昨日の日付と、知らない政治家の顔。世界は三日のあいだ、俺を置き去りに、ちゃんと進んでいた。 外。 朝の、湿った空気。アスファルトに、まだ夜の匂いが残っていた。街路樹の下に、吸い殻が一本、折れた指みたいに落ちていた。

歩道で、コインを弾いた。 銀の縁が、朝日を一瞬、切る。 掌に戻す。裏。切り欠きが、三つ。 携帯を取り出す。事務所の固定電話。三コール、五コール、十コール。留守電にも切り替わらない。回線が、死んでいる。 別の番号。情報屋の爺さん。三コールで出た。 「お前、生きてたのか」 爺さんの声が、煙草で焼けた喉の奥から、ゆっくり引きずり出された。俺が死んだ前提で、葬式の段取りまで考えていた声だった。 「事務所は」 「焼けた」 「いつだ」 「三日前。お前が橋から落ちたのと、同じ夜だ」

受話器の向こうで、爺さんが息を吸う音が、一度だけ止まった。 「九条、やめろ。探偵には、戻る場所が要る」 「戻らない」 「……〈クロウ〉を出すのか」 「出してくれ。西麻布の、地下だ」 「あれを走らせたら、お前は探偵じゃなくなる」 爺さんの声の底に、長い沈黙が一枚、敷かれていた。その沈黙は、七年前、黒瀬が事務所のドアを最後に閉めた日の、ドアの閉まり方と、同じ厚みをしていた。 俺はコインを、親指の腹で撫でた。切り欠きの三つ。冷たい金属が、指紋の谷を、一つずつ埋めていく。 婆さんの爪の根元の、工場の油染み。 震える手で、机に置かれた五百円玉、三枚の体温。 「知ってる」

タクシーが、歩道脇に停まった。 運転手の顔を、ミラー越しに確認する。知らない顔。右耳の付け根に、古い火傷の痕。左の小指が、第二関節から先、ない。その欠けた指で、ハンドルの革が、かすかに擦り減っていた。長く乗っている男の、長く隠している過去。 乗り込んで、ドアを閉めた。助手席のドアミラーに、病院の裏口から出てくる、髪の長い女のシルエットが一瞬だけ映って、消えた。携帯を耳に当てていた。俺の行き先を、今、誰かに吹き込んでいる。 「どこまで?」 俺は、舌の裏のコインを、奥歯で噛んだ。切り欠きが、歯茎に食い込む。血の味が、金属の味に、一滴だけ混ざった。 「焼け跡まで」 運転手がメーターを倒す。倒す手つきに、一瞬、迷いがあった。行き先を、知っていた手つきだった。 俺は、もう一度コインを掌に戻し、左の内ポケットで、濡れた五百円玉三枚の上に、重ねて置いた。 ちゃり、と、四枚分の音が鳴った。 その音が、胸の奥で、もう一度、小さく反響した。四枚。三枚ぶんの婆さんと、一枚ぶんの、七年前。勘定は、もう、合い始めていた。

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