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クロウ・ハンター 法の外の探偵

第2話 第2話

第2話

第2話

トンネルの闇が、ヘッドライトを一瞬で噛み潰した。 壁のナトリウム灯が、黄色い帯になって流れる。走るというより、落ちていく感覚だった。 速度は二二〇のまま。 「九条」 無線から黒瀬の声。落ち着いた声。七年前と同じ、書きかけの報告書を指でつつくときの声。 「減速しろ。いまならまだ、戻れる」 俺は口を開かない。 代わりに、アクセルを踏み増した。 メーター、二三〇。エンジンの悲鳴が、耳鳴りと同じ周波数で胸骨を揺する。 助手席の野川が、シートに爪を立てた。「死ぬ、死ぬ」と呟いている。 「黙ってろ」 三度目の指示。今度の俺の声は、自分でも氷みたいだと思った。 後部のアタッシュが、継ぎ目を越えるたびに跳ねる。どん、どん。硬貨の音が内ポケットで重なる。ちゃり、ちゃり。 婆さんの爪の根元の油染み。息子夫婦に連れられて消えた終の棲家。七日分の五百円玉三枚。 俺が戻れるのは、そこだけだ。 ミラー。最後の一台。距離を保ったまま追ってくる。撃ってこない。撃つ必要がない。出口に黒瀬が立っている。挟み撃ちの完成形。 トンネル残り、六百メートル。 光の輪が、正面で大きくなる。 暗闇の向こう、白い半月みたいな出口。その真ん中に、黒い立ち姿がシルエットで浮かぶ。 肩の線。右だけ、少し下がる。 ——黒瀬。

出口が開いた。 夜の空気が、顔を殴る。 トンネルの湿った匂いが一瞬で剥がれ、代わりに排ガスと川の湿気が鼻孔を突いた。 黒瀬は路肩に立っていた。両足を肩幅に、両手で握ったグロックの先が、こちらを狙っている。構えは教科書通り。いや、俺が教科書を見せた張本人だ。射撃場で、こいつの右手の癖を矯正したのは、俺の指だった。人差し指の第二関節が、ほんの半ミリだけ内側に巻く癖。三ヶ月かけて直した。その指が、いま、俺の眉間に向いている。 「九条」 無線から、生声と、同時に届いた。 二つの声が、コンマ秒の遅延でずれて耳を叩く。現実と回想がちょうど同じ角度で重なる音だった。 「名簿を置け。野川も置け。そうすりゃ、一発で済ませる」 「サービスだな」 「昔のよしみだ」 俺はブレーキを踏まない。 踏めば、そのまま轢き殺せる。距離、八十。七十。ヘッドライトの中で、黒瀬の顔が白く浮かぶ。目尻の皺、頬の古い傷。どれも俺が知っている。右目の下の傷は、三年前、四谷の裏でこいつを庇って俺がつけさせた。皺のほうは、俺の結婚式の朝、二日酔いで笑ったときに刻まれた。どれもこれも、俺の時間の断面だ。 あいつは動かない。 銃口を、俺のフロントガラスに合わせたまま、一歩も引かない。 五十。 黒瀬が、唇の端で笑った。 知っている笑いだった。事務所のスチール机の向こうで、書類から目を上げずに漏らすあれだ。

閃光。

フロントガラスに、白い穴。 風圧。 左肩、焼ける。 一発目は、完璧な狙いだった。俺の頭を外して、運転席側ガラス越しに肩を抜いた。わざとだ。殺す気はない。殺すなら、眉間に来る。 わかった瞬間、腹の底で怒りが跳ねた。 温情じゃない。侮辱だ。こいつは、俺がまだ戻ってくると思っている。まだ、跪けば許されると思っている。その見下しが、傷より熱い。 「お前——」 二発目。 今度は胸に来た。 防弾ベストが受ける。肋骨が鳴る。息が止まる。視界が一瞬、白く飛んだ。 肺の袋が内側で畳まれて、二度と開かない気がした。心臓が、胸骨の裏で拳ひとつぶん跳ねて、位置を取り戻す。 ハンドルが、手の中で暴れる。 野川が絶叫した。 俺は左へハンドルを切る。黒瀬の横を、紙一重で抜ける。セダンのドアミラーを、〈クロウ〉のフェンダーが削り取った。火花が黒瀬の頬を舐める。 横目に見た黒瀬の表情は、変わらなかった。火花を浴びながら、まつげひとつ動かさなかった。そこが一番、腹立たしかった。 直後、右のリアタイヤが抜けた。三発目。サイドウォールを狙い撃ちだ。 車体が、尻から流れる。 「くそっ」 カウンターを当てる。当てる間もない。トンネル出口の先は高架橋。両側はガードレール、その向こうは暗い川面。 メーターはまだ一八〇。 制御を失った〈クロウ〉が、右のガードレールに斜めから食いつく。 鉄の悲鳴。 助手席の野川の体が、シートベルトを引きちぎる勢いで飛んだ。 俺の頭が、サイドウィンドウに叩きつけられる。 世界が、白く明滅する。 こめかみの奥で、電球が一つ、また一つ、順に切れていく感覚。音が遠のき、視覚だけが妙に鮮やかに残る。ガードレールの塗料の剥がれ、錆の筋、そんなものまで一瞬で読み取れた。脳が、最後に何かを覚えておこうと悪あがきをしているのだとわかった。

ガードレールが、裂けた。 見慣れた景色がひっくり返る。 空、川、空、川。回転するたびに、夜景の灯りが筋になって視界を切る。 遠くの看板、対岸のマンションの窓明かり、信号の赤、すべてが線になって編まれる。美しい、と一瞬だけ思ってしまった自分を、俺は心の中で殴った。 〈クロウ〉は橋の端から、宙へ吐き出された。 重力が、内臓の位置を教えてくれた。胃の腑が、喉の裏に張り付く。肺の中身が、ぐしゃりと潰れる。シートベルトが鎖骨を裂きにかかる。 耳の中で、気圧が変わる音がした。ぽん、と鼓膜が一度だけ外向きに膨らんで、すぐに戻る。 一秒。二秒。 落ちている時間だけが、永遠に長い。 耳の奥で、七年前の声が鳴った。 ——先に死ぬのは、俺のほうだ。安心しろ。 嘘つきめ、ともう一度思う。 あの夜、新宿のバーの裏口。煙草の煙越しに黒瀬が言った。酔っていた。だから信じた。信じた俺が馬鹿だったと、今さら認めるしかない。 内ポケットで、三枚の五百円玉が鳴った。ちゃり、ちゃり。最後まで、あの音だった。

水面。 ボンネットが、コンクリートの板みたいな水に叩きつけられた。 衝撃。 額がステアリングに当たる。鉄の味が、鼻の奥まで駆け上がる。前歯が、舌の先を噛む。血が、熱い。 口の中にたまった血が、唾液と混ざって妙に甘い。その甘さが、自分がまだ生きているという唯一の証だった。 エアバッグが、遅れて開いた。粉が舞って、目を焼く。 車内に、黒い水が、ためらいなく流れ込んできた。 冷たい。 冷たすぎて、熱い、と勘違いしそうな温度。 四月の夜の川は、こんな温度をしているのか、と頭のどこかが呑気に観察する。 足元から腰、腹、胸。上がってくる水の速度が、呼吸の速度を追い越す。 シートベルトの金具。指が痺れている。血で滑る。外れない。 爪の先で、金具の角を探る。何度も弾かれる。焦るな、と自分に言い聞かせる声が、まだ保っている。焦った指は開かない。それだけは、七年前に黒瀬に教えたことだった。 野川の体が、水の中で斜めに浮いた。白目を剥いている。首が、ありえない角度に折れている。 死んだな。 冷静に、そう思った自分の頭の芯が、まだ生きている証拠だった。 左手で、シートの下のナイフを手探りする。 あった。 ベルトを、根元から切る。 繊維が一本ずつ裂ける感触が、刃越しに指に伝わる。残り三本。二本。一本。 ドアは開かない。水圧。 運転席側の窓は、もう割れている。黒瀬の二発目が、代わりに開けてくれていた。 皮肉だ、と笑おうとして、口から泡が漏れただけで終わった。 俺は窓枠に指をかけた。左肩が、火をつけたように痛む。かまわない。 体をねじ込む。 窓枠のガラス片が、脇腹を裂いた。水の中で、裂けた皮膚が冷たい舌に舐められる感触になる。 外へ。

暗い水の中へ。

上下がわからない。気泡の向きだけが、唯一の羅針盤だった。 自分の口から漏れた最後の泡を、必死に目で追う。それが上だ。それ以外の指標はない。 顎を上げる。 肺の残量、あと何秒か。 数える余裕はない。ただ、まだ足りる、と自分に嘘をつき続ける。

水面を割った。 吸う。吐く。吸う。 冷えた夜気が、喉を削りながら入ってくる。川の水が、口の端から零れる。鉄の味と、ヘドロの匂い。 生きている、という事実が、まず痛みとしてやってきた。肩も、胸も、脇腹も、すべてが順番に声を上げる。 橋の上、はるか遠くで、黒いシルエットが手すりから身を乗り出していた。 黒瀬。 距離があっても、わかる。あの肩の線だ。 無線はもうない。車ごと沈んだ。それでも、耳の奥で、あいつの笑い声が鳴っていた。 吐息混じりの、短い、短い笑い。 事務所のスチール机の向こう、湯気の向こう、七年分の時間の向こう側で、あの音だけが、輪郭を保って残っていた。 視界の端が黒く落ちていく。 左肩から、ぬるい何かが川へ流れていく。 自分の血が、水の流れと混ざり、下流へ、下流へと、別の誰かのもとへ運ばれていく感覚があった。俺の一部が、先に海へたどり着く。 流れに乗って、俺の体が、橋脚の影に吸い込まれていく。 意識が遠くなる前に、最後に、俺は決めた。 ——生きて戻って、必ず殺す。 それだけを、舌の裏に刻みつけて、水に呑まれた。

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