第1話
第1話
午前三時、首都高湾岸線。 メーターの針が二一〇を超えた。 エンジンの唸りが、脳の芯まで沁み込んでいる。ステアリングから伝わる振動、路面の継ぎ目が、肋骨を小さく殴ってくる。窓の外、街の灯りはもう点の列でしかない。景色は液体みたいに溶けて、俺の視界から流れ落ちていく。
ルームミラー、三つの光。黒いバンが横並びで追ってくる。左の一台、助手席の窓から銃身がのぞいた。俺はハンドルを半キロ握り直す。 革の感触。手のひらの汗が、もう指紋を浮かせているのがわかる。こめかみに脈が走る。落ち着け、と自分に言い聞かせる必要もない。こういう夜は、何度もくぐってきた。
助手席で男がうめいた。後頭部を殴ってから十五分、そろそろ目覚める頃合いだ。 「黙ってろ」 後部シートには革のアタッシュ。老人ホームから奪い返した顧客名簿。二百三十七人分の、終の棲家の記録。 金庫から引き抜いたとき、ずっしりと重かった。紙の重さじゃない。人生の重さだった。二百三十七件、それぞれの名前の下に、預金口座、年金番号、保険の解約書類、白紙の委任状。書類の束は、死に方の設計図みたいに揃っていた。
最初の銃声。 リアガラスの右端に白い星が咲く。防弾は三枚目で止まった。 二発目が続けて来る。左のサイドミラー、根元から吹き飛んだ。破片が後方へ消えていく。 「減速帯、来る」 一人で呟いて、ギアを叩き落とす。タイヤが鳴いて、火花が散る。車体が尻を振る。それでも踏む。 シートベルトが肩に食い込んで、肺の奥を絞る。舌の裏に、鉄の味がにじむ。奥歯が鳴った。顎の筋が、痙攣するみたいに跳ねた。視界の端で、追走するバンのヘッドライトが、細かく震えながらこちらに迫ってくる。距離、四十。三十五。読める。読めているうちは、死なない。
依頼人は五人の老人だった。最年長の婆さんが、震える手で俺の机に五百円玉を三枚置いた。七日分の調査料、と言い張った。「息子夫婦に連れられていった施設で、契約書にサインしたら、全財産が消えていた」 婆さんの指は、冬の枝みたいに細かった。爪の根元に、昔、油を触った仕事の痕が薄く残っていた。工場に出てた、と言っていた。旦那が死んでからは、ひとりで息子を育てた、とも。机に置かれた三枚の五百円玉は、体温で温かくなっていた。俺はそれを、いまも内ポケットに入れて走っている。走るたび、胸の左で、硬貨と硬貨がかすかにぶつかる音がする。ちゃり、ちゃり、と、心臓の裏側を小さく叩く。 仕事はいつも、法の外側を走る。 警察が動かない場所で、弁護士が逃げる書類の先で、俺は走る。
バンの一台が右から並んだ。運転席の男が俺を見て、何か笑った。プロだ。素人はああは笑わない。 口角だけ持ち上げて、目は笑っていない。獲物を見るときの、猟犬の顔だ。訓練された顔。どこかの組織で飯を食ってきた男の顔。 ナビに着信。 無線が割れた。短い、短い笑い声。
耳が覚えていた。七年間、背中を預けた声だった。 たった一音、吐息混じりの、ほとんど音にならない笑い。なのに、俺の体の骨格が、その音の形を覚えていた。事務所のスチール机の向こうで、書類から目を上げずに、あの男がよく漏らした笑いだった。
——黒瀬。
首の後ろの毛が逆立つ。アクセルが軽くなる。踏んでいる足の感覚が、一瞬だけ消えた。 胸の奥で、冷たい水が一滴、落ちた気がした。落ちて、底の方で、ゆっくり波紋を広げた。波紋は胃の腑まで届いて、そこで小さく渦を巻いた。 「……お前か」 返答はない。かわりにノイズ。そして、遠くで誰かに車線変更の指示を出す、落ち着いた男の声。 「合流地点、変更だ。浮島トンネル出口」 俺の声を聞いた黒瀬が、それを決めた。
合流地点で、相棒が待っている。 銃を持って。
助手席の男が目を覚ました。「誰だ、誰だ」と鳴く。俺はハンドルに顎をのせたまま、横目で見た。 「野川不動産、野川健作。六十二歳。乗っ取り担当の現場責任者だ」 「知らねえ、知らねえっ」 「知ってる。名簿を持ち出した夜の映像、銀座の防犯カメラで三秒拾った。お前、腕時計を自慢げに見る癖がある」
野川が口をつぐむ。 いい。ずっとそのままでいい。 こいつの右手首で光っているロレックスが、いくら分の老人の年金と引き換えになっているのか、数えるのも馬鹿馬鹿しい。銀ブラの帰り、歩きながら時計を二度見する。その癖一つで、二百三十七人分の人生が、この男の骨の髄まで沁みている。
ナビを叩いて湾岸を外した。大井のジャンクションへ逃げ込む。タイヤが泣き、シートベルトが肩を切る。舌の奥に、鉄の味。奥歯を噛みすぎた。 高架の継ぎ目が連続で来る。車体が跳ねるたびに、後部のアタッシュが浮き上がって、シートを叩く音がする。どん、どん、と、胸の奥の鼓動と、わずかにずれて。
バンの二台目が追いついてきた。並んで、窓が下がる。 銃口。 俺は左へ寄せて、相手のミラーをこすり落とす。火花。窓越しに目が合う。撃つ前に、向こうのドライバーが驚いた顔をした。 素人は、驚く。 その瞬間、俺のサイレンサーが先に鳴る。 運転手の左肩。血が飛んで、バンが斜めにふらつく。後続に追突。
ひとつ、落とした。
残り二台。
無線、またノイズが割れる。今度は、黒瀬の声がはっきり乗った。 「九条。もうやめろ」 息が止まる。止めてから、吐く。 名前を呼ばれた、それだけのことで、七年前のあの事務所の空気が、一瞬で鼻先に戻ってきた。煙草の匂い、インスタントコーヒーの湯気、窓から漏れていた新宿の看板の赤。黒瀬は、あのとき俺の斜め向かいに座って、笑っていた。湯気の向こうで、目尻に皺を寄せて、書きかけの報告書を俺の方にすべらせてきた。「ここ、てにをはが変だ」と、指先で紙をつついた。あの指の、骨の浮いた関節まで、俺はいま、はっきり思い出せる。 「七年ぶりの挨拶がそれか」 「お前の正義は、高くつくんだ」
ミラーの中で、一瞬、自分の目が揺れた。 揺れた、と認めた自分に、腹が立つ。
アクセルを踏み込む。 メーターが二二〇に乗る。
標識。浮島トンネル、二キロ先。
そこに、黒瀬が待っている。 七年。背中を預けた七年。初めて事務所を借りた夜、安物のウイスキーを二本空けたあの男が、いま、合流地点の暗がりで銃口をこちらに向けて立っている。 あの夜、ウイスキーのグラスを合わせながら、黒瀬は言った。お前の背中は、俺が守る、と。笑っていた。歯を見せて、子供みたいに。窓の外で雪が降っていた。
後部のアタッシュ。その中の名簿。 婆さんの署名、震える字で書かれた「どうか、お願いします」の一文。
俺は低く、短く、笑った。自分でも驚くほど冷たい声だった。 「いいぜ、黒瀬」 マイクに向けて言う。 「そっちに戻してやる。利子つきで」
トンネルまで一キロ。 両脇のライトが、弾丸みたいに飛んでくる。バンの一台が真後ろについた。フロントグリルが食いついてくる。俺はブレーキを一瞬だけ触って、相手を鼻先から押し出す。前に出た瞬間、助手席側のガラスを撃ち抜いた。相手の運転席、額。 バンが中央分離帯に刺さる。火柱。
二つ目。
残り一台。 こいつは下がった。距離をとって、追尾に徹する。 賢いほう。 だが、賢いやつは、こういう夜、生きて帰れない。
野川がシートで震えている。 「た、助けてくれ、俺は言われて——」 「黙ってろって言った」
トンネルの入り口が口を開く。 その暗がりの奥、路肩に一台、黒のセダンが停まっているのが見えた。 ヘッドライトは消えている。ハザードも、ない。 運転席のドアに寄りかかって、長身の影が立っている。肩の線に、見覚えがあった。右肩だけ、ほんの少し下がる癖。古い刺創の後遺症で、あいつは眠るときも、あの肩で眠っていた。
ミラー越しではない。 フロントガラスの先、一直線上に、そいつがいる。
指が、ハンドルの革を食い込むほど握っていた。 七年前、初めて事務所の鍵を渡したとき、あいつは笑ってこう言った。 「先に死ぬのは、俺のほうだ。安心しろ」
嘘つきめ。
俺はアクセルを踏む。 緩めない。 トンネルの闇が、ヘッドライトを呑み込んだ。