第3話
第3話
四度目の鈴が、まだ耳の裏に張り付いていた。
振り返れなかった首を、前に戻す。社の軒下の白布の輪郭が、さっきよりもひとまわり近づいて見えた。歩いたのは俺たちではなく、社のほうだったのではないか──そう錯覚するほどの距離の縮まり方だった。空は、灰色の膜のままだった。時刻は、どの時計も五時二分で止まっている。けれど、俺の身体は、もう深夜に近い疲労を感じていた。足の裏が、苔の上で、自分の体重を忘れたように浮いていた。
「逢見さん」蒼が低く言った。「鈴、何回鳴ったか、数えました?」
「数えるな」俺は短く返した。「数えた分だけ、それは意味を持つ」
美海が、俺の袖を掴んだまま、もう片方の手で自分の口を覆っていた。悠真だけが、一歩、前に出ていた。社の石段の下で、彼の頭が、わずかに傾いでいる。子供が、砂の中に落ちた百円玉を見つけた時の、ああいう傾き方だった。
「……なんか、見える」
悠真の声は、怯えていなかった。魅入られていた。俺は「近づくな」と言おうとして、喉の奥で、その言葉が布に吸われるように消えた。
【展開】
石段は、七段あった。
一段目の石の角が、長年の雨で、柔らかく丸まっていた。踏みしめるたびに、苔の下から、湿った土の匂いが立ち昇った。古い本の頁の匂いと、誰かの家の仏間の匂いが、混ざっていた。二段目に、悠真の運動靴が乗った。三段目、四段目。彼の背中は、一度も振り返らなかった。俺たちは、釣られて後を追った。止める力が、俺の膝の裏から抜けていた。本来なら、俺が先頭に立つべきだった。十年、そうしてきた。けれど、今夜は、悠真の背中の吸い寄せられ方のほうが、鈴の鳴る方角よりも、正確だった。
社の軒下に、白い布で覆われた小さな塊が、円を描いて並んでいた。
数えるまでもなく、俺の目は、十三、と読んだ。布の一枚一枚の大きさは、子供の握り拳ほど。きつく縛られた首のあたりから、藁の先が一本、きちんと切り揃えられて覗いていた。藁の断面が、どれも同じ角度で斜めに切られている。鎌の刃の癖が、十三体ぶん、揃っていた。一人の手だ。一人の手が、十三体を、同じ夕方に編んだ。布の白さも、新しかった。糊の匂いが、まだ、かすかに残っていた。洗って、干して、畳んで、今日、ここに並べた。その手順の一つ一つに、休みがなかった。
円の中央に、黒塗りの膳が置かれていた。
膳の縁の漆が、ところどころ剥げて、下の朱が覗いていた。古い。けれど、手入れはされていた。埃の一粒も、膳の上には載っていなかった。膳の上に、白い飯が、山形に盛られていた。赤黒い汁物の椀が一つ。箸が、二本、揃えて置かれていた。俺は息を吸おうとして、吸えなかった。飯から、湯気が立っていた。赤黒い汁物の表面が、ほんの微かに、揺れていた。味噌の焦げたような匂いと、鉄錆に似た匂いが、同じ椀から、二重に立ち昇っていた。
「……今、作った?」美海が囁いた。
俺は、答えなかった。答える前に、視線が、社の奥の柱時計に吸い寄せられたからだ。
古い柱時計が、壁に掛かっていた。振り子は、止まっていた。文字盤の針は、長針も短針も、五時二分で重なっていた。俺のスマホと、同じ時刻だった。ガラスの内側に、埃が一枚も積もっていなかった。止まった時計の中だけ、今日、誰かが拭いたばかりだった。ガラスの表面に、指の拭き跡が、一筋、斜めに残っていた。右利きの、大人の指だった。
凛子が、俺の横に並んだ。呼吸の間隔が、彼女だけ、やけに長かった。吸って、吐いて、の間に、何かを考えて、もう一度飲み込んでから、次の呼吸に移る。そういう間隔だった。
「逢見さん」彼女は膳を見ずに言った。「これ、五人分じゃない。一人分です」
「……ああ」
「誰の、一人分ですか」
俺は答えられなかった。姉のノートの頁を、親指で押さえた。内側から押し返される感触は、もう、なかった。押し返す何かは、もう、この軒下に来ていた。
悠真が、円の内側に、足を踏み入れた。
白布と白布の、わずか一センチの隙間を、運動靴の爪先が、器用に踏んだ。踏まれた地面から、音は鳴らなかった。土が沈む音も、苔が潰れる音もなかった。踏んだ場所だけ、空気が、一枚、薄くなったようだった。俺は、「出ろ」と叫ぼうとした。けれど、声を出すより先に、悠真は膳の前で、しゃがみこんでいた。箸を取ろうとした、のではない。彼の指は、箸の横に落ちていた、白い紙の札を、つまみ上げていた。
「逢見さん」悠真が振り返った。笑っていた。「これ、僕の名前」
紙の札には、墨で、二文字。「悠真」とだけ書かれていた。墨は、まだ、乾ききっていなかった。札の端に、指で触れた跡が、薄く滲んでいた。俺の位置からも、はっきりと読めた。
【転機】
「動くな」俺は、ようやく声を出した。「そのまま、ゆっくり、下がれ」
悠真は頷いた。頷いたのに、足が動かなかった。彼は、自分の足を見下ろして、「あれ」と、笑った。笑おうとして、失敗した、のではない。ちゃんと、笑えていた。その笑いのほうが、俺には、怖かった。彼は、もう、怖がっていなかった。怖がれなくなっていた、と言うほうが、近いかもしれなかった。何か大事な感情の栓が、すっと抜けて、代わりに、温い何かが、足の裏から注がれている──そんな顔だった。
「足、しびれた、みたいです」
蒼が円の外から手を伸ばした。指先が、円の輪郭に触れた瞬間、白布の十三体が、一斉に、ほんの数ミリ、俺たちの方へ向きを変えた。誰の手も触れていない。藁の首が、ぎ、と、乾いた音を立てた。十三の乾いた音が、ほぼ同時に鳴って、最後の一体だけ、半拍、遅れた。その半拍のずれが、俺の背筋を、爪で引っ掻いた。
蒼が、手を引っ込めた。引っ込めた手の甲に、鳥肌が、粒だって浮いていた。
「悠真」俺は呼んだ。「こっちを見ろ」
悠真は、こちらを見た。ちゃんと、見た。目の焦点は、合っていた。口元に、甘いような笑いがあった。子供の頃、熱を出して寝ている時に、夢の中の誰かに話しかけるような、そういう顔だった。
「逢見さん、あの、僕、──」
言いかけた。その先の音を、彼の舌は、半分まで形作っていた。唇が、次の母音のために、わずかに開いた。
ちりん。
五度目の鈴が、俺のすぐ背中で鳴った。今度は、方角が、ずれなかった。真後ろで、一度だけ、はっきりと。耳の穴の奥で、小さな金属の粒が、骨に直接、触れたようだった。
俺は、振り返らなかった。悠真から、目を離さなかった。離せなかった、のほうが、正しかった。
離せなかったのに、見逃した。
瞬き、ひとつ分。
俺の瞼が落ちて、持ち上がった、その、一瞬。
悠真の輪郭が、膳の前から、抜けていた。
しゃがんでいた膝の折れ目の空気だけが、そのままの形で、宙に残っているような気がした。次の瞬間には、その空気も、ゆっくりと、水に溶けるように崩れた。彼の体温の気配も、息の湿り気も、運動靴の裏の泥の匂いも、同じ速さで、一緒に薄れていった。社の軒下には、十三体の藁人形と、膳と、俺たち四人だけが残った。
美海の息が、ひゅ、と止まった。蒼の喉から、意味のない母音が漏れた。
膳の上の、白い飯から、湯気が立っていた。
さっきよりも、強く、立っていた。赤黒い汁物が、椀の縁から、ほんの少しだけ、盛り上がっていた。箸の位置は、動いていなかった。誰も、食べていない。食べていないのに、料理は、今、作られたばかりの温度を、取り戻していた。
俺の足の下で、参道の苔が、一斉に、色を退いた。足型ではなく、社の軒下ごと、青を失った。
凛子が、膳の横に落ちた紙の札を、拾い上げた。悠真の名が書かれた札だった。彼女は、それを、俺に渡さなかった。自分の掌に載せたまま、じっと、文字を見つめていた。掌の上で、札の紙が、ほんの少しだけ、丸まっていった。湿気を吸った紙が、内側から、命を引き取るような丸まり方だった。
「逢見さん」凛子が、初めて、震えた声で言った。「鈴、五回、鳴りました」
【引き】
五回。数えた。数えた分だけ、それは意味を持つ。
俺は、ノートの頁を、勝手にめくる親指を止められなかった。「鳴った分だけ、一人ずつ欠ける」の下に、十年前の姉の字が、もう一行、続いていた。インクが、さっきよりも濃く見えた。頁が、俺のために、今、文字を滲ませ直したようだった。
──欠けた者の皿だけが、温くなる。
膳の上で、湯気が、ゆっくりと、天井の梁に吸われていった。梁の木目の一点に、湯気が、染み込んで、消えた。
柱時計の、止まった針が、かちり、と、一度だけ、進んだ。
五時三分になった。
美海の爪が、俺の袖の布を、内側から突き破った。