第2話
第2話
ちりん、と二度目の鈴が鳴った瞬間、悠真の喉が、ひゅ、と引きつる音を立てた。
俺は振り返らなかった。背後で鳴る音は、振り返るたびに別の背後へ移る。十年、怪異を採集してきた身体が、頭よりも先にそう判断していた。追えば追うほど、自分の周囲を回り続けるだけだ。
「動くな」と俺は短く言った。声が、自分の耳にも掠れて聞こえた。
四人は俺の指示を待っていた。蒼の握ったキーが、キーホルダーを揺らしている。揺れているのに、金具同士の音が立たない。ボンネットの内側からは、ガソリンの匂いも、エンジンの熱も、消えていた。車という道具が、ただの鉄の塊に戻っていた。
「逢見さん」凛子が低く呼んだ。「車は、もう諦めたほうがいいです」
その声に、迷いがなかった。怖がってもいなかった。彼女は、状況を一段先で読んでいる。俺はノートを胸ポケットに押し込みながら、彼女の横顔を盗み見た。耳にかけた黒髪の生え際で、産毛が一本だけ立っている。寒さでは、ない。肌の下で、何かが先に反応している。風もないのに、彼女の襟元の糸くずだけが、一本、わずかに持ち上がって、元の位置に戻った。
「社まで行く」俺は告げた。「依頼は、社の録音だ。録音を取れば、引き上げる」
引き上げる、と言いながら、引き上げる方法は俺にもわからなかった。けれど、口にしないと足が動かない人間が、ここに四人いる。動かないと、この灰色の膜のような空が、もっと低く落ちてくる気がした。
参道に戻ると、苔の青さが、夕方より濃くなっていた。日が落ちたのに、足元はかえって明るく見える。光源が、空にも地にも、ない。光が、苔そのものから滲んでいた。靴底を置くたびに、苔は沈みも跳ねもせず、ただ足型の形に、わずかに色を変えた。踏まれた部分だけが、青を吸い戻すように、緑を退かせていった。
集落の中ほどに、瓦が比較的残った家屋が三軒、肩を寄せていた。その真ん中の一軒から、低い読経が、また漏れ始めていた。鈴が鳴る前は止まっていた声が、何事もなかったように再開していた。
「ここ、入ってみていいすか」蒼が言いかけた。
「やめろ」と俺は遮った。「敷居を跨ぐな。境を踏んだら、出てこられなくなる家がある」
蒼は怪訝な顔をしたが、足を止めた。俺は障子の隙間に顔を寄せた。中は暗い。けれど、奥の間に、小さく赤い光が、ひとつ。線香の先だ。誰かが、今、灯したばかりの一本。煙が、上にではなく、横に流れていた。閉め切られた家屋の内側で、誰かが歩いて、空気を動かしている。
俺は息を止めた。読経の主の輪郭は、見えなかった。ただ、声だけが、確実に空間を満たしていた。男の喉でも女の喉でもない、その家の壁そのものが唸っているような響き。障子紙の繊維が、声の振動に合わせて、細かく震えているのが、俺の頬のすぐ前で見えた。
「逢見さん、これ……」美海が、隣の家屋の縁の下を指差した。
縁の下に、新しい草履が一足、揃えて置かれていた。藁の編み目は黄ばんでいない。今朝、誰かが編んだようだった。けれど、その草履は、左右の鼻緒の長さが、わずかに違っていた。右が、長い。
「人の足に合わせて編んだものじゃない」と俺は呟いた。
「じゃあ、何の足に」と悠真。
答えなかった。答えれば、想像の輪郭が立ってしまう。輪郭が立てば、それは、こちらを見返してくる。十年で学んだ、たった一つの護身術だった。
凛子が、無言で俺の肩を叩いた。指先の力が、不思議と冷静だった。彼女は俺を、一軒奥の家屋へと促した。先ほどよりも崩れた、屋根の半分が抜けた家。屋根の隙間から、灰色の空が、家の中まで下りてきていた。
土間に、紙束が散らばっていた。湿気で膨らんで、文字は半分ほど滲んでいたが、俺の目は、その中の一頁に吸い寄せられた。手書きの巡礼帳のようなもの。日付の欄に、「昭和六十二年八月七日」とあり、その下に五人分の名前が記されていた。最後の一人の欄だけ、墨が薄く、震えた筆で「霧子」と書かれていた。
俺の指が、勝手にその頁を持ち上げた。紙の重さが、今までに触れたどの紙とも違って、骨のように軽かった。指先に、紙の湿りではなく、乾いた粉のような感触が残った。誰かの皮膚の、ごく薄い一層を、指でなぞってしまったような。
「お姉さん、ですか」凛子が、俺の手元を見ずに、空を見たまま訊いた。
俺は答えられなかった。答えるべきでもなかった。観察者は、自分の事情を場に持ち込まない。それが俺の十年だった。けれど、凛子の声は、答えを引き出すための声ではなかった。答えなくてもいい、と告げる声だった。だからこそ、俺は思わず頷いてしまった。
「十年、前に」俺は紙束に視線を落としたまま言った。「姉が、ここで消えた。遺品の中に、このノートが、あった」
胸ポケットから、姉のノートを取り出した。表紙の「霧子」の三字を、四人の前に晒すのは、十年で初めてだった。指先が、ノートの角の手垢を撫でた。手垢は、俺一人の指の油で黒くなっていた。誰にも見せず、ひとりで開き続けた紙の重みが、急に、自分の腕の中で増した。背中のあたりから、十年の間ずっと張り詰めていた細い糸が、一本、静かに切れる音がした。誰にも聞こえない、俺の内側だけの音だ。
蒼と悠真が、息を呑む音を漏らした。美海は、ぎゅっと自分のリュックの肩紐を握り直した。凛子だけが、平静のまま、ノートを覗き込んだ。
「『鈴は背後』──そして、『鳴った分だけ、一人ずつ欠ける』」凛子は声に出して読んだ。「逢見さん、依頼は、何でしたか」
「何が起きたかを、確かめろ、と」
「お姉さんを、捜せ、ではなくて」
「依頼主は、そうは書かなかった」
凛子は、ゆっくりと目を上げた。
「でも、あなたは、捜しに来た」
声に、責める色はなかった。ただ、見抜いた者の冷たさがあった。俺は唇を、内側から噛んだ。鉄の味が、舌の奥に滲んだ。十年間、誰の前でも緩めなかった顔の筋が、この瞬間、ほんのわずかに、勝手にほどけていくのを感じた。
「俺は」俺は、言葉を選んだ。選ぼうとして、選べなかった。「俺は、確かめに来た。姉が、何に呑まれたのかを」
「同じことです」凛子は短く返した。「呑んだ何かを名指せれば、お姉さんは、半分、戻ってくる」
その言葉は、十年俺が誰にも口にしなかった願いの形を、正確に言い当てていた。俺は唇を緩めた。そうしなければ、奥歯が砕ける気がした。目の奥が、一瞬だけ、熱を持った。泣く前の熱ではない。もっと古い、凍えていたものが溶け始める熱だった。
参道の奥で、障子の向こうの読経が、また止んだ。
止まった、と思った瞬間、別の音が聞こえた。家屋の奥のどこかで、引き戸が、ゆっくりと、誰の手にも触れられずに、滑っていた。
「逢見さん」蒼が、声を低くした。「あの社、まだ先っすか」
「五分、歩く」
「もう、行きましょう」
俺は頷いた。けれど、足を出す前に、もう一つ、確かめなければならないことがあった。
紙束の下の、湿った土の上に、藁屑が散っていた。新しい藁屑だ。誰かが、ごく最近、ここで藁を編んだ痕跡。指でつまみ上げると、繊維の折れ口が、まだ青い汁を滲ませていた。今日の、それも、ほんの数時間前。
俺はノートをめくった。「鈴は背後」の頁の、さらに後ろ。十年、俺が見落としていた頁のひとつ。そこには、姉の几帳面な字で、こう書かれていた。
──十三体、円環、社の床。
「凛子」と、俺は初めて、彼女の名を呼んだ。「社に、藁人形が、十三体あるはずだ」
「いくつ、欠けていますか」
「わからない。けれど、欠けていれば、それが」
それが、姉だ、と言いそうになって、口を閉じた。
凛子は、俺を見ずに、参道の奥を見ていた。彼女の横顔は、十六で姉を失った日の、自分の母の横顔に、少しだけ似ていた。何かを、見たくない、と願いながら、見届けることだけはやめない、あの顔。
俺たちは、無人の集落の中央へ、ゆっくりと歩き出した。苔の参道は、相変わらず音を立てなかった。けれど、五人の足が踏み込むたびに、どこか遠くで、木の枝が一本ずつ折れるような乾いた音がした。誰の頭上の枝でもない音。
ちりん。
三度目の鈴が、また背後で鳴った。
俺は、振り返らなかった。振り返ろうとした美海の肩を、無言で押さえた。彼女の指が、俺の袖を、また掴んだ。爪の先が、布越しに食い込む。指先は、氷のように冷たくはなかった。むしろ、熱かった。熱の逃げ場を失った人間の、内側の発熱だった。
社の屋根が、参道の奥に、低く沈んで見えた。瓦が一枚、傾いた角度のまま、落ちずに止まっていた。
その軒下に、白い布で覆われた何かが、円を描いて並んでいる輪郭が、灰色の空の下で、ぼんやりと浮かんでいた。
悠真の足が、止まった。彼の喉が、ひゅ、と鳴った。今夜、二度目の音だった。
俺はノートの最後の頁を、無意識に親指で押さえていた。「鳴った分だけ、一人ずつ欠ける」──その下の、まだ読んでいない頁の隙間に、姉の指が挟まっているような気がした。十年、俺が開かなかった頁ではなく、十年、俺に開かせなかった頁。そう考えた瞬間、親指の腹が、ほんの一度、紙の内側から押し返された。
ちりん。
四度目の鈴が、また、背後で鳴った。
俺は、初めて、振り返ろうとして、振り返れなかった。