第1話
第1話
線香の匂いが、鼻の奥で湿っていた。
アクセルを緩めた瞬間、フロントガラスに細かい雨が散る。東北道を外れて四時間、カーナビが「この先、道路情報なし」と白く黙った頃から、俺はその匂いのことばかり気にしていた。線香と、腐葉土。誰も焚いていないはずの線香が、閉めた車内にまで染みてくる。エアコンの循環を内気に切り替えても、匂いは薄まらなかった。むしろ、自分の呼気に混じっているような気さえして、俺は何度か舌先で唇を舐めた。苦い。
助手席の姉のノートが、車体の揺れで一頁だけめくれた。青インクの字は十年前のままで、「澱ヶ瀬(おりがせ)」と書かれている。その下に小さく、「鈴は背後」。意味はわからない。わからないまま、俺は十年、姉の字を追って旅をしてきた。ノートの角は手垢で黒く丸まり、紙の繊維が毛羽立っている。何度も開いた証拠だ。俺はハンドルに片手を置いたまま、もう片方の指でその角をなぞった。紙の冷たさが、妙に指先に残った。
三叉路で車を止めると、看板の文字はほとんど削れていて、かろうじて「澱」の一字だけが読めた。朽ちた鳥居の奥に、瓦が一枚落ちたような崩れ方の集落が見える。誰もいない。俺は依頼主から預かった封筒を、胸ポケットから出した。「失踪者を捜すのではない。何が起きたのかを確かめてほしい」──筆跡は姉のものではない。依頼主は姉の同級生だと名乗っていた。それ以上は聞いていない。聞いてしまえば、この十年の生活が崩れる気がした。封筒の折り目には、指の脂で薄く光る線がついていた。俺自身が、何度も開いては閉じた跡だった。
俺は他人と深く関わらない。人に名前を覚えられたくないし、人の名前を覚えることもしたくない。怪異を採集するには、観察者でいるのが一番いい。そのつもりで、今日もひとりで、この鳥居の前に立っている──はずだった。
鳥居をくぐる手前で、別のエンジン音が山道を降りてきた。
軽ワゴンが一台、タイヤを滑らせながら砂利を踏んでいる。ステッカーの剥がれ方で大学のサークル車だとすぐにわかった。俺はほとんど反射で、自分の車の陰に身を引いた。マフラーから漏れる排気の白さが、湿った空気の中でやけにゆっくりと広がっていくのが見えた。 「──あ、いた」 声がしたのは、俺の背後からだった。
振り向くと、女が二人、男が二人、鳥居の内側から歩いてきていた。俺の逃げ道を塞ぐような立ち方だ。四人とも、どこで足音を消したのかわからないほど、砂利の音を立てずにそこにいた。先頭の男が掌をあげる。 「すみません、ここの方じゃないですよね。僕ら、『澱ヶ瀬の鈴』って怪談を調べに来たんで」 屈託のない声だった。その声の明るさが、逆に場違いで、俺は一瞬、耳の奥が痛くなった。俺はほんの少しだけ顎を引いて、「同業だ」とだけ答えた。 「同業って、ルポライターさんですか」 「都市伝説調査員。依頼があれば動く」 名刺を出すつもりはなかった。男──自分を蒼と名乗った──は、それを気にする様子もなく、「マジっすか、プロいる」と後ろの三人に振り返る。女の一人が、肩までの黒髪を耳にかけながら静かに近づいてきた。歩き方が、砂利の上なのに、水面を踏んでいるみたいに音を立てない。 「私、凛子。彼が蒼、これが悠真、あと美海です。よろしく、ですか」 疑問形の挨拶に、俺は「逢見」とだけ返した。下の名は言わなかった。美海と呼ばれた小柄な女は、俺と目が合うと、ぎこちなく視線を落とした。指先が、自分のリュックの肩紐を何度も握り直している。怖がっている。なのに、来た。
凛子の視線が、俺の足元のバッグに置かれた姉のノートに落ちる。表紙の「霧子」の三字を、彼女は読んだ。読まれた。けれど何も言わなかった。その沈黙の仕方に、俺は少しだけ警戒した。知らない名前を見た時の沈黙ではなかった。知っている名前を、知らないふりで見送った沈黙だった。
「五時までに村境の社まで行って、録音だけして帰る予定で」蒼がスマホをかざす。「もう圏外ですけどね」 俺の携帯も、さっきから白い雲形のアイコンが一つだけ表示されている。「その五時、あと二十分だ」と俺は言った。「日が落ちる前に動いたほうがいい」 「一緒に行きません?」悠真が無邪気に笑う。「プロいれば心強いっす」 断ろうとした。断るべきだった。俺の仕事は、怪異と人間の間に線を引くことだ。この四人を連れていけば、その線が曖昧になる。けれど俺の視界の端で、村のほうの杉の梢が、風もないのに一斉にたわんだ。線香の匂いが、確かに濃くなった。喉の奥に、甘いような、焦げたような、舌の裏に残る類の匂いが絡みついた。 「……案内は、しない」俺はそう言いながら、鳥居をくぐっていた。「勝手についてくるなら、止めない」
参道の石畳は、苔で青く滑った。足裏に伝わるのは、濡れた布を踏むような柔らかさだ。人の気配はない。なのに、左手の家屋の障子の向こうから、低い読経の残響が、ひとつ、また、ひとつと漏れてくる。男の声にも女の声にも聞こえない、くぐもった、母音だけが残ったような響き。 「あれ、テレビじゃ……ないですよね」美海が小声で訊いた。 「電気は、十年前に止まってる」俺は答えた。依頼主の資料にはそう書かれていた。電柱の上の変圧器は、錆びて中身が抜け落ちていた。障子の向こうの読経は、誰が、何のために、続けているのか。考えまいとした。考えれば、足が止まる。
集落の中心に近づくほど、空気が重くなった。湿った土の匂いに、線香が絡む。線香の匂いは、古寺の境内のそれではなく、もっと個人的で──通夜の部屋に似ていた。姉が消えた日、俺が十六で彼女が十九だった頃、家の仏間で同じ匂いを嗅いだ。まだ誰も死んでいない家の、真新しい線香。母が毎朝一本だけ焚いていた。姉が帰ってくるように、と。線香の灰が、仏壇の縁に落ちていくのを、俺は毎朝見ていた。誰も死んでいないのに、仏壇の前に座り続ける母の背中が、日に日に薄くなっていくのを、見ないふりをしていた。
胸の奥がひしゃげる感覚があった。俺はそれを無視して歩いた。十年、ずっとそうしてきた。無視することだけは、得意になった。
日が、落ちた。
たった一瞬だった。山の向こうで太陽が欠け、次の瞬間には、空の色が青でも紫でもない、灰色の膜のようなものに変わっていた。黄昏が、ない。夕焼けの赤も、夜の藍も、どの色にも属さない、濡れた紙を貼ったような空だった。俺は十年、日の沈む瞬間を数え切れないほど見てきたが、こんな落ち方は知らなかった。 「え」と蒼がスマホを見る。「なにこれ、五時二分で……固まってる」 「僕のも」「私のも、アンテナが」 俺の画面も、時刻が「17:02」のまま止まっていた。白い雲形のアイコンすら、消えていた。指でスワイプしても、画面は応答しない。ガラスの下で、数字だけが凍っている。 「車、戻ろう」俺は短く言った。声が、思ったより低く出た。
軽ワゴンのところまで駆け戻って、蒼がキーを回した。カチ、と乾いた音だけがして、エンジンはかからなかった。もう一度。カチ。もう一度。カチ。俺の車も同じだった。バッテリーの警告灯すら、点かない。完全な静寂が、ボンネットの内側にあった。鍵を回す指先の、金属の冷たさだけが、やけに鮮明だった。
凛子が、ゆっくりと俺の顔を見た。その目は、怯えていなかった。むしろ、確かめている目だった。 「逢見さん、あなた……これが起こるって、知ってましたか」 俺は答えられなかった。知らなかった。ただ、姉のノートの「鈴は背後」という一行が、十年ぶりに意味を持ち始めた予感だけが、喉元にあった。咳払いをしても、その塊は降りていかなかった。 俺は他人と関わらずに生きてきた。観察者として、怪異を記録する側の人間だった。なのに今、俺の右手の甲には、美海の爪が食い込んでいる。いつの間に彼女が俺の袖を掴んだのか、思い出せなかった。振り払うつもりが、振り払えなかった。爪の先が皮膚を通して、俺の脈を読んでいるような気がした。俺の脈は、速くなっていた。
「逢見さん」凛子が、低い声で言った。「今……聞こえませんでしたか」
俺は首を振った。何も聞こえなかった──と、思った次の瞬間。
背後で、鈴が、鳴った。
ちりん、と、子供の手首ほどの距離で、はっきりと。全員が振り返る。誰もいない。杉の梢。苔の石畳。崩れた瓦。参道の奥で、障子の向こうの読経が、ぴたりと止んでいた。静寂が、今までの静寂とは違う質量で、耳の奥に詰まった。 悠真が笑おうとして、失敗した。「今の、風鈴ですよね。どこか、軒先に」 風は、なかった。彼の前髪一本、動いていなかった。
姉のノートを握る俺の指が、無意識に頁をめくった。十年前の青インクの「鈴は背後」の下に、続きがあった。俺が見落としていた一行。インクが少しだけ薄くて、紙の折り目に隠れていた一行。
──鳴った分だけ、一人ずつ欠ける。
ちりん。
また、背後で鳴った。悠真が、声を上げる前に、一歩、後ずさる。俺の肩越しに、彼の視線が、鳥居の向こうの暗がりへと吸い込まれていった。