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廃病院供養録 怨念喰らいのドライバー

第2話 第2話

第2話

第2話

俺の掌は、じんと、骨まで、熱を持っていた。

子供の白い影は、光の輪の一歩手前で、動きを、止めた。まるで、見えない線が、床に一本、引かれているかのようだった。

「……ありがとう」

もう一度、同じ声が、した。 声の中身に、温度は、なかった。嬉しいのでも、寂しいのでもない。留守番電話の自動音声のような、定型句を読み上げるだけの声。

俺は、答えなかった。 答えるべき言葉を、舌が、知らなかった。

数秒が、引き伸ばされた飴のように、長く、長く、続いた。 それから、白い影は、そっと、背を向けた。

ぱた、ぱた、ぱた。

裸足の足音が、闇の奥へ、遠ざかっていく。時折、振り返るように速度を緩めるのを、マグライトの光の外で、俺は、感じていた。追って来い、と誘っているのか。ついて来たら困る、と躊躇っているのか。どちらにも取れる、間合いだった。

掌の熱は、少しずつ、引いていった。代わりに、痺れていた指先に、痛いほどの感覚が、戻ってきた。爪の根元が、ちりちりと、疼いている。

祖母の声が、耳の奥で、もう一度、小さく響いた。

『相手は、恐うても、人じゃ』

なら、今の子供は、人なのか。人だったものの、燃え残り、なのか。 考えても、答えは、出なかった。 出ないまま、俺は、一歩、足を、前に出した。

靴底が、リノリウムを、鳴らす。ぎゅ、というゴムと樹脂の擦れる音が、この建物に、初めて、俺という存在の輪郭を、刻んだ気がした。

点滴スタンドの雫は、まだ、鳴っていた。 ぽたり。ぽたり。 一階の廊下を、奥へと、誘うように。

踵を返せ、と本能が、叫んでいた。車は動かない、正門は閉まっている。それでも、この建物の奥よりは、外の闇の方が、まだマシだ、と。

けれど、足は、奥を、向いていた。 さっきの子供は、奥に、戻っていった。 鎮める、というのが、祖母の言った通りの意味なら、俺は、奥へ、進まなければならない。

廊下を、一歩、また一歩。 マグライトの光の輪が、埃の上を、刷毛でなぞるように、移動する。

そのたびに、俺は、気付いた。

足跡が、増えている。

ロビーで見た、大人のスニーカーの跡。サイズの違う、二人、三人、四人。それが、奥へ向かうにつれ、左右に散らばり、時折、立ち止まり、また動き出していた。誰かが、誰かを待ちながら、進んだような、ばらつきのある足跡。

そこに、俺の靴底が、五つ目の跡を、重ねていく。

五人目。 俺は、この廊下を歩いた、五人目の、人間だった。

──先客が、いる。

心臓が、一瞬、跳ねた。跳ねた、その後に、奇妙なことに、ほんの少し、安堵が、こぼれた。怪異ばかりが、この建物に、いるわけではない。俺と同じ、生きている人間が、少なくとも、四人、どこかに、いる。

だが、安堵は、長く、続かなかった。

廊下の左手、壁際に、小さな、丸い染みが、点々と、続いていた。最初は、点滴の雫かと、思った。だが、染みは、じっとりと、床に吸い込まれるように、残っていた。消えない。乾かない。

膝を、折る。 鉄の匂いが、した。

──血だ。

ごく新しいものでは、ない。けれど、古くもない。今夜のうちに、確かに、落ちたもの。量は多くない。鼻血か、軽い切り傷か。それでも、誰かが、ここで、怪我を、した。

唾を、飲み込む。口の中は、渋い金属の味がした。噛みしめた奥歯が、軋む。

俺は、再び、立ち上がった。

血の染みは、廊下を、右手の区画へと、折れていた。薄れた案内板に、「外来 / 内科 / 受付」と書かれ、矢印は、右を、指していた。点滴の雫の音も、同じ方向から、聞こえてきた。

──先客と、音の主は、同じ方向に、いる。

右の廊下に、足を、踏み入れる。 表のロビーより、空気が、重く、濃かった。息を吸うたびに、肺の奥に、湿った綿が、一枚ずつ、増えていく感触。匂いも、変わっていた。消毒液と腐敗のほかに、甘く、饐えた、何か。夏のゴミ袋の底に、潰れた果物を、一週間、放置したときの、あの、鼻の奥を刺す匂い。

マグライトの光が、ふと、壁に、何かを、映し出した。

落書き、ではなかった。 壁紙の剥がれた下に、黒ずんだ、文字。

「かえして」

三文字だけ、縦に、並んでいた。

震えの来る間も、なかった。俺は、視線を、逸らした。読んではいけない、と、首筋の毛が、告げていた。読んだ瞬間に、向こうが、こちらを、読み返す。そんな気が、した。

廊下の突き当たりで、光が、見えた。

マグライトの黄色い光では、なかった。もっと、白く、丸い、人工的な光。

──懐中電灯の、光だ。

曲がり角の向こう、ガラス窓付きのカウンターの内側から、光が、揺れながら、漏れていた。天井の残骸に、剥がれかけた札が、下がっている。「ナースステーション」。

光は、止まっていなかった。 誰かが、持って、動いている。棚を探しているような、机の上を照らしているような、小刻みな動き方。

俺は、足音を殺して、壁に、背をつけた。 息を、できるだけ、浅く。

声が、聞こえた。

「……ないよ、こっちには」

女の声。若い。かすれている。耳をそばだてて、もう少し、近づく。もう一つの声が、被さった。

「なら、奥のロッカー、開けよう。鍵、壊してもいい」

こちらは、男の声。中年の、落ち着いた、低い声。だが、その落ち着きの奥に、限界まで張り詰めた、糸のような緊張が、滲んでいた。

もう一人、別の若い女の、短い相槌。 ──三人。 少なくとも、三人、生きた人間が、あのカウンターの内側に、いる。

俺は、壁にもたれたまま、動けなかった。

声を、かけるべきか。 このまま、やり過ごすべきか。

頭の中で、相反する二つの声が、同時に、鳴った。助かった、仲間がいた、という安堵。いや、この建物で、普通に助け合える仲間など、存在するはずがない、という直感。

掌の熱が、再び、少しだけ、戻っていた。熱は、助けではなく、警戒の合図だった。祖母の手の、乾いた感触が、掌の芯で、小さく、ずれている。

──こいつらは、人なのか。 ──それとも、人の形をしているだけの、何か、なのか。

足跡は、確かに、生きた人間のものだった。血の染みも、間違いなく、温度を、持っていた。だが、今夜この病院で、「生きている」と「人である」は、もう、別の意味かもしれなかった。

深く、息を、吸う。吸いすぎて、喉の奥で、甘い腐臭が、跳ねた。

俺は、マグライトを、一度、消した。

闇の中で、ナースステーションの白い光だけが、ゆらりと、揺れている。その光の輪郭を、俺は、じっと、見つめた。光の動きに、影が、映る。三つ。人の形をした、三つの影。指の数、肩の傾き、手首の返し。観察できる限りのもの、全てを、目に、焼き付けた。

どの影も、関節の数は、まとも、だった。

それでも、声をかける前に、もう一つだけ、確かめることがあった。 祖母は、言っていた。視えないモノは、呼ぶと、答える。生きた人間も、呼ばれたら、答える。違いは、声の温度だ、と。

俺は、壁から、背を、離した。 カウンターに、ほんの半歩、近付く。

そして、できるだけ、普通の声で。 配達員として、客の家のインターホンを押すときと、同じ声色で。

「……すみません」

と、声を、出した。

ステーション内の光が、止まった。 三人分の、息を、呑む音が、重なった。

一拍置いて、カウンター越しに、懐中電灯の光が、こちらへ、真っ直ぐ、向けられた。強い光に、俺は、目を、細めた。

「──誰?」

女の、鋭い声。けれど、その声の底には、震えが、あった。人を、怖がる、震え。怪異を、怖がる、震えとは、別の、種類の。

それだけで、俺は、確信した。

この三人は、少なくとも、今はまだ、人だ。

「配達員です。……俺も、閉じ込められました」

短く、答えた。

三つの影が、光の向こうで、ゆっくりと、顔を、見合わせた。 沈黙。長い、長い、沈黙。

その沈黙の底に、もう一つだけ、俺は、聞いてしまった。

カウンターの、ほんの数メートル先。誰もいないはずの、奥の廊下の、さらに、奥で、

ぽたり、

と、点滴の雫が、もう一度、鳴った。

今度は、さっきよりも、ずっと、近い場所で。

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