第1話
第1話
最後の段ボールを台車から降ろした瞬間、背後で何かが、音もなく、閉じた。
振り返ると、さっき通ってきたはずの正門が、もう閉まっている。 車のヘッドライトは、門扉の内側から外を照らしていた。俺は、中に、車ごと閉じ込められていた。
──音が、しなかった。
蝶番の軋みも、鎖の擦れる音も、聞こえなかった。深夜三時の山には、虫の声さえない。耳に届くのは、自分の吐く息と、鼓動。それだけだ。
「……嘘だろ」
スマホの画面には、圏外の二文字。ナビはさっきから、存在しない道を右に曲がれと繰り返している。画面の中で青い矢印が、くるくると自分の尻尾を追いかけていた。
指定住所の廃病院。築何年か分からない、三階建てのコンクリート塊。割れた窓枠に、錆びた点滴スタンドが影のように並んでいた。
伝票を、見る。 受領印欄は、空白。依頼主欄も、空白。ただ、時刻指定だけが、赤字で太く、打ち出されていた。
──午前三時、必着。
この時間に、誰が受け取るというのか。 頭に浮かんだその問いは、もう、遅すぎた。俺は、受け取る側の領域に、踏み込んでしまっていた。
息を吐くと、白く広がる。 四月のはずなのに、吐息が凍った。山の空気じゃない。冷蔵室に似た、粘つく冷たさ。保冷バッグの中身を運ぶとき、俺が毎日吸っている、あの水っぽい冷気だった。
段ボールを、足元に置き直した。中身は書類らしき重みで、封は厳重に糊付けされている。住所ラベルには、この病院の正式名称が、印字されていた。
──紫堂記念病院。
十年前、ある事件で廃業したと噂の場所。夜の運送業界で、配達を断ったドライバーが少なくない。俺が引き受けたのは、単純に、明日の家賃の方が、怖かったからだ。今日の運賃は、普段の三倍。後悔なんて、贅沢品だった。
まず、車だ。 車さえ動けば、正門ごと突き破って出る。
運転席に戻り、キーを回した。エンジン音が夜を裂く、はずだった。回ったのは、キーの空回り音だけ。計器盤は、全て暗い。一時間前までガソリン満タンだった車が、まるで最初からそこに無かったかのように、沈黙していた。
ハンドルに額を当てて、深く、息を吐く。
額に触れた合皮の感触は、いつもと違って、ひやりと湿っていた。掌に汗が浮いているのに、体の芯だけが冷えていく。この矛盾した温度が、身体の内側で小さな震えを作り出していた。
心の中で、妻の顔が、浮かんで、消えた。 妻はもういない。二年前、俺が別件の配送で家を空けていた夜に、病院で、一人で、逝った。間に合わなかった病院のにおいを、俺は今も、覚えている。
消毒液と、腐敗の、混ざった匂い。
顔を、上げる。 目の前に、同じ匂いが、あった。
フロントガラス越しに、廃病院の正面が、ヘッドライトに照らされて、黒々と浮かび上がっている。鼻の奥で、二年前のあの匂いが、音もなく再生された。真っ白な廊下、リノリウムの光沢、ナースステーションの蛍光灯。そして、妻の名前を呼んだときの、自分の声の、掠れ。
病院の正面玄関は、ガラス戸が内側からひしゃげ、自動ドアのセンサーに蜘蛛の巣が張っていた。その隙間から、夜気の数倍濃い、あの匂いが、流れ出ていた。
マグライトを掴む。会社支給の安物だ。光の円は、弱々しい黄色で、一畳分も届かない。
ドアに手をかけた。 鍵は、かかっていなかった。 ──いや、違う。
「……内側から、開けられたのか」
ドアノブに、指の油の跡があった。最近ついた、湿った跡。俺のじゃない。
指の跡は、小指の付け根の形まで、はっきりと残っていた。体温が、まだそこに残っているように、わずかに曇っている。誰かが、ほんの少し前まで、このドアノブを握っていた。俺が台車を押していた、ちょうどあの時刻に。
押し開ける。ロビーには、受付カウンターの残骸と、三十脚ほどの長椅子が、まだ規則正しく並んでいた。 誰もいない病院の、誰かが座っていた跡。
長椅子の一番手前、左から三番目の座面に、埃だけが、人の形に凹んでいた。その隣の席にも、同じ形の凹み。まるで、たった今まで、順番を待っている人たちが、並んで座っていたかのように。
床の埃に、足跡が残っていた。大人のもの。スニーカー。サイズはバラバラだ。二人、三人、四人。少なくとも四人分の足跡が、奥へ、奥へと、続いている。 そして、その足跡の上に、もう一つ。 小さな足跡。素足の、子供のもの。埃を踏む深さで、分かる。 今夜、さっき、ついたばかりの跡だった。
足跡は、大人のものを、後から踏み越えるように、残されていた。子供が、大人たちの後を追って、奥へ進んだのではない。大人たちが先にいて、そのあとから、子供が、歩いてきたのだ。この順序が、喉の奥に、小さな棘のように、引っかかった。
受付カウンターの上に、点滴スタンドが一本、立てかけてあった。 点滴バッグは、とっくに破れて、乾いていた。空の、ひび割れた、ビニール。 なのに、その先端から、 ぽたり、 と、透明な雫が、落ちた。
床に広がるはずの液体は、広がらない。落ちた瞬間、跡形もなく、消える。
雫は、二つ目、三つ目と、連続で落ち始めた。廊下の奥、暗がりの深部でも、同じ音が、呼応するように鳴っている。ぽたり、ぽたり、と、少しずつ、近い位置で。
まるで、見えない誰かが、点滴スタンドを引きずりながら、歩いているように。
耳鳴りに似た高音が、頭の内側で、鳴り始めた。
こめかみの奥で、細い針金を擦り合わせたような音が、少しずつ、音量を上げていく。マグライトを握る指先が、自分のものではないように、痺れ始めていた。
祖母の声を、唐突に、思い出した。
『悟はのぉ、視えるんじゃなくて、鎮める子じゃ』
田舎の仏壇の前で、祖母が俺の小さな手に、線香を握らせた記憶。誰にも見えない何かに、俺は子供の頃、夜泣きの代わりに、手を合わせていたらしい。祖母はそれを、供養、と呼んだ。
『困ったら、手ェ合わせぇ。相手は、恐うても、人じゃから』
祖母が逝ってから、俺は二十年、一度も、手を合わせていない。 そんな記憶が、何故、今、蘇るのか。
ポケットのスマホを、もう一度、取り出した。 電話は、圏外。LINEも、開かない。ただ、地図アプリだけが、何故か、動いていた。
画面の中で、俺の位置を示す青い点が、今の居場所を映している。 ロビーに、俺は、いない。 三階の、小児科、と書かれた区画に、青い点は、あった。
現実の俺は、一階にいる。なのに、俺の信号だけが、三階で、ちかちかと、点滅していた。 画面をスワイプしても、戻しても、同じだった。
「……馬鹿な」
小さく、呟いた瞬間、 ぱた、 と、乾いた音が、廊下の、一番奥で、した。
裸足で、リノリウムの床を、踏んだ音。 続けて、 ぱた、ぱた、 と、音が、二つ、三つ。 一歩、一歩、確実に、こちらに、近付いていた。
マグライトの光の輪を、震える手で、奥へ向ける。光が届くのは、五メートル先まで。 その先の闇の、ぎりぎりで。
白い、細い、何かが、立っていた。
動かなかった。 光の届く手前で、それは、立ち止まっていた。 こちらからは、見えない。 向こうからは、こちらが、見えている。
喉の奥が、乾いていく。逃げようと、踵を返しかけた、その時だった。
小さな、かすれた、子供の声が、した。
「……おじさん」
声は、高くも低くもなく、ただ、まだ固まっていない粘土のように、輪郭が曖昧だった。男の子か女の子かも、分からない。その声だけが、水に垂らした墨のように、闇の中を、まっすぐ伝わってきた。
マグライトを握る手が、汗で、滑った。
「ここ、あけてくれて、ありがとう」
開けた覚えは、ない。 正門は、俺の背後で、勝手に閉じたのだ。 なのに、その子は、俺が「開けた」のだと、言った。
頭のどこかで、伝票の受領印欄が、空白だったことを、思い出していた。 受け取る側の名前が、書かれていなかった。 ──名前が書かれていなかったのは、誰が受け取ってもよかったからではなく、俺自身が、「開ける側」として、この場所に、呼ばれていたからではないのか。
右の掌が、何故か、じわりと、熱を持ち始めた。祖母の声が、耳の奥で、もう一度、響く。
『相手は、恐うても、人じゃ』
闇の中の白い影が、ゆっくりと、頭を下げる仕草を、した。 そして、光の輪に向かって、もう一歩、 ぱた、 と、踏み出した。