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嗤った奴から喰われていく

第3話 第3話

第3話

第3話

風が、止まったままだった。

俺は、波打ち際に残った引きずり跡の前から、動けずにいた。七瀬の指は、俺の袖をつまんだまま、ゆっくりと力を強めたり弱めたりを繰り返していた。冷たい指先の体温だけが、彼女がまだ此岸にいることの証だった。

朝の光は、雲の底を灰色に照らしていた。水平線は、霞んだまま、動かない。桟橋は見えている。けれど、そこに今日、船が来る予定は、ない。三日後の朝まで、俺たちは、この浜にいなければならない。そう、出発前に山辺先生が事務的に説明した。その先生のテントは、丘の上で、いまも、入り口の幕をたるませていた。

俺は、引きずり跡の脇にしゃがみ込んだ。

濡れた砂に、五本の指の跡が、点々と並んでいる。爪先が、人より、一関節ぶん長かった。砂の粒が、指の形のくぼみの縁に、不自然に盛り上がっている。内側から、何かを押し出しながら歩いたような盛り方だった。触れようとして、手を止めた。触ったら、こちらに何かが記憶される気がした。

「湊くん、あっち」

七瀬が、短く言った。

彼女の視線の先は、鳥居の方ではなかった。浜の南側、雑木林が途切れて、岩場に続く斜面だった。

引きずり跡は、鳥居の影に吸い込まれて終わっていた。けれど、そこから数メートル離れた岩場の縁に、もう一本、別の跡が伸びている。波の届かない、乾いた岩の上に、うっすらと濡れた筋が残っていた。

俺と七瀬は、顔を見合わせ、無言で、斜面を登った。

岩場は、黒ずんだ玄武岩が、海に向かって段々になっていた。潮だまりが点々と光り、フジツボが陽に白く浮いている。生臭さは、ここまでは来ていない。代わりに、磯の、いつも通りの匂いがあった。それが、かえって、喉の奥で、ちりちりした。

岩の、人が座れるほどの段の上に、片方だけ、運動靴が置かれていた。

白井の靴だった。

ナイキの、ちょっと値が張るやつ。昨夜、俺のスマホを踏んで削ったのと、同じ靴だった。右足のほうだけが、そこに、きちんと、踵を揃えて置かれていた。

誰かが、脱がせて並べた、のではない。脱げて落ちた、のでもない。

靴ひもは、結ばれたままだった。

俺は、息を飲んだ。結ばれた靴ひもの真ん中から、切れた紐のほつれが、白く弾け出ているのが見えた。結び目ごと引きちぎられたのだ。結び目より先——足が入っていたはずの筒の中は、細かい砂で、ぎっしり詰まっていた。

「……なんで、ここに」

後ろから、声がした。

一条だった。

桟橋の方へ行ったはずの一条が、いつの間にか、俺たちの背後に立っていた。スウェットの裾に、さっきよりも、もっと多くの砂が付いている。ずっと、この岩場に近い方を、歩き回っていたらしかった。

取り巻きが二人、一条の背中の後ろで、肩を寄せていた。朝の光の下で、三人とも、肌の色が昨日と違っていた。頬に血が通っていない。呼吸が浅いと、人の顔は、こんなに簡単に青くなるのだと、俺は初めて知った。

「白井の、だよな」

一条が、言った。質問ではなかった。

「……結び目、引きちぎられてる」

俺は、低く答えた。

一条の指が、反射的に、自分のスウェットの裾を握った。昨夜、鳥居の音を聞いたときと、同じ手の形だった。

「……悪ふざけ、だよな」

取り巻きの一人が、絞り出すように言った。白井、と書かれていない、別の誰かだった。昨日まで俺を嗤っていた口のうちの、どれか一つが、今、確かに震えていた。

「悪ふざけで、靴だけ置いていくかよ」

もう一人が、吐き捨てた。

岩場の下に、引きずり跡は続いていた。

潮だまりを横切り、黒ずんだ岩の上を、濡れた筋が、うねりながら伸びている。その筋は、岩場の北端まで続き、そこで、切り立った崖の下——波に洗われる岩礁の、さらに奥へと、消えていた。人が降りて追える場所ではなかった。

風は、まだ止まっていた。

凪の海が、鉛の板みたいに動かない。いつも聞こえるはずの、カモメの声もしない。岩場の潮だまりから、一匹のヤドカリが、殻の奥に身を引いて、微動だにしない。生き物が全部、息を潜めている、と感じた。

七瀬が、俺の肘を、指先で軽く押した。

「湊くん」

声は、ささやきだった。

「私、思い出した。湊くんのおばあさんの話」

俺は、首だけで彼女を見た。七瀬の唇は、いつもより血の気がなかった。けれど、瞳だけは、妙に澄んでいた。怯えを通り越した人間の、あの静けさだった。

「中三のとき、湊くん、一回だけ教えてくれたよね。おばあさんから聞いたって。嗤った人を喰う、婆の話」

俺は、頷いた。

覚えている。用水路に落ちた俺を、七瀬が引き上げてくれた、あの夕方。家まで送ってもらう道すがら、俺は、歩きながら、祖母の話を一度だけ、彼女にしたことがあった。誰にも言ったことがない話を、なぜか、七瀬には話した。話し終えたあと、彼女は、何も言わなかった。ただ、歩くテンポを、俺に合わせてくれた。

その話を、七瀬は、三年間、覚えていた。

一条が、俺たちの会話に、耳を尖らせていた。岩場の朝は、音を吸う。小声のささやきも、凪いだ海に直接届く。一条の喉が、ごくりと、上下した。

「……何の、話してんだよ」

一条が、俺に向かって、低く聞いた。

笑ってはいなかった。嗤えなかった、と言う方が正確だった。

「昔話だよ」

俺は、答えた。

「この島の、昔話」

掌の中で、昨夜から握り続けていた写真の感触が、じわりと湿った。祖母の指。夏の縁側。扇子の骨が軋む音。低い、けれど優しい声。

——湊。あの島にはな、嗤った人を喰う婆がおるんよ。

子どものころ、祖母の膝の上で、俺は、その話を、何度も聞いた。聞くたびに、婆の姿は、頭の中で、少しずつ具体的になっていった。痩せた背中。白髪のほつれ。濡れた裾。裸足。指の先が、人より長い。砂を擦って歩く、湿った足音。

——口減らしで捨てられた子をな、不憫がって育てたんが、その婆さんなんやと。

——ほやから、その子を嗤った大人らを、片っ端から食べてしもうたんやと。

——今でもおるけえ、あんた、人を嗤うたらいけんよ。

祖母は、最後の一文を言うとき、俺の耳元まで顔を寄せた。耳たぶに、祖母の息が、ひやりとかかった。その冷たさは、あの夏の湿気の中で、明らかに、浮いていた。

あれは、警告ではなかった。約束だった。

俺は、そう確信した。三年越しに、祖母の声の底に沈んでいた、氷の意味が、ようやく、溶けて形になった。

「何、ぼーっとしてんだよ」

一条が、苛立ちを乗せて、俺の肩を小突いた。指の関節が、肩の骨に、鈍く当たる。昨日までなら、俺の膝が勝手に折れそうになる衝撃だった。今朝は、何も感じなかった。そういう次元の痛みが、もう、俺の中で、意味を失っていた。

「白井、探さなきゃだろ。お前、こんなとこで女と昔話してる場合かよ」

一条は言ったけれど、声の芯は、もう、乾いていなかった。

俺は、一条の目を見た。

昨夜、俺のスマホを踏むように指示した、あの目だった。けれど、その目の中に、今朝は、細い亀裂が入っていた。白目の下の方が、赤く充血していて、瞳孔の奥が、小刻みに揺れていた。

「……一条」

俺は、言った。口の中が、乾いていた。

「お前、昨日、一番大きい声で、笑ってたよな」

一条の頬が、一瞬、ぴくりと痙攣した。

「は?」

「白井は、俺のスマホを踏んだ。一条は、俺のリュックを蹴った。そして、二人で、一番大きく、笑ってた」

俺は、自分の声が、思ったより静かなのに驚いた。怯えでも、怒りでもない、ただ、事実を並べる声だった。

一条は、何か言いかけて、口を閉じた。唇の端が、吊り上がろうとして、できなかった。その代わりに、頬の肉が、また、一度、痙攣した。

そして——嗤おうとしたのだ。

あの、昨夜と同じ種類の、口の端の吊り上げを、一条は、試みた。試みて、失敗した。筋肉が、命令を拒んだ。

その瞬間、凪いでいた海の向こうから、ざり、と、砂を擦る音がした。

朝の、それは、ずっと遠かった。

けれど、確かに、鳥居の方角だった。一条の肩が、一段、跳ね上がった。取り巻きの二人が、反射的に、一条の後ろに半歩下がった。七瀬の指が、俺の袖の中で、また、きつく結ばれた。

風は、まだ、止まっていた。

潮だまりのヤドカリは、殻の奥から、出てこない。白井の結ばれたままの靴ひもが、凪の海風に、そよりとも動かずに、岩の上で、白く弾けていた。

朝の光は、雲の底で濁り、空のどこにも、太陽の輪郭を見つけられなかった。

今夜、もう一度、夜が来る。

俺は、掌の中の写真を、握り直した。祖母の指の皺が、そこにだけ、温度を持っていた。

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