第2話
第2話
ざり、という音が止まってからも、俺は眠れなかった。
シュラフの外は、冷えていた。三月下旬の夜気が、テントの幕を通してじわりと染み込んでくる。掌の中の写真は、いつの間にか汗で湿っていた。祖母の皺の上に、俺の指紋がべたりと乗っていた。
七瀬は、隣に横になったまま、浅い呼吸を繰り返していた。眠っているのかどうかは分からない。ただ、俺のシュラフの裾を、人差し指と親指でつまんだままだった。中三の用水路のときと同じ、冷たいくせにやけに強い指先だった。布越しに、彼女の震えが細く伝わってくる。
「湊くん」
七瀬が、薄く唇を動かした。目は天井に向いたままだ。
「朝まで、起きとくね」
「……ああ」
「二人とも寝たら、あかん気がする」
俺は、答えなかった。代わりに、写真を握り直した。祖母の低い声が、耳の奥で繰り返し再生される。——嗤った人を喰う婆が、おるんよ。
テントの幕の向こうで、一条たちの声が、ずっと続いていた。白井、白井、と呼ぶ声は、だんだん小さくなっていく。諦めかけた声の端に、苛立ちが混ざり始めている。誰かが、「どうせまた隠れてんだろ」と吐き捨てるのが聞こえた。声の主は、それだけ言って、テントに戻った。砂を踏むブーツの音が、ひとつ、ふたつ、乾いた音を立てて消えていく。
そのあと、浜は、静かになった。
波の音だけが、規則正しく返ってくる。遠くの鳥居の方角からは、もう、何も聞こえない。けれど、聞こえないということが、かえって恐ろしかった。音がやんだのではなく、こちらが耳を澄ませているあいだだけ、向こうも息を潜めている——そんな気配だった。
シュラフの中で、もう一度、耳を立てた。砂を擦る音は、しない。代わりに、テントの入り口の幕のすぐ向こうに、薄く、生臭い匂いが漂っていた。潮の匂いではない。もっと奥まった、内臓に近い匂いだった。
夜は、まだ明けない。
うとうとしかけた瞬間、テントの天井が、白んでいた。
朝だ、と気づいたのは、七瀬の指が、まだ俺の裾をつまんでいると分かってからだった。彼女は、目を開けていた。一晩、閉じていなかったのだと分かった。まぶたの下が、薄く紫に淀んでいる。
「……白井くん、戻った?」
七瀬の声は、寝起きの掠れではなかった。ずっと起きていた声だった。
俺は首を振った。夜のあいだに一条たちが戻ってくる足音は聞いた。けれど、白井の名前を呼ぶ声は、最後まで、答えを得なかった。
テントの外に出ると、浜は、灰色だった。
雲が低い。水平線は霞み、船が来るはずの桟橋も、輪郭がぼやけて見えた。昨夜の鳥居は、朝の光の中でも、奥だけが濃い影を溜めている。見ないようにして、俺は白井のテントの前に立った。
「……ここ、あいつのテントだよな」
横から、一条の取り巻きの誰かが、俺に聞いた。顔と名前が一致しない。昨日まで俺を笑っていた口のひとつだったはずなのに、朝の光の下では、その口は強張って半分開いたまま、声だけが上擦っている。
幕は、半分めくれていた。中の空気が、さあ、と外に逃げていく。
生臭い。
昨夜、テントの入り口で嗅いだ匂いより、ずっと濃かった。海藻が腐ったような、魚の腸を裂いたような、それでいて、どこか懐かしい血の味を含んだ匂い。俺は、喉の奥で唾を飲んだ。鉄の味が、昨夜から抜けていない舌に、もう一度広がった。
幕をめくる。
白井のシュラフは、空だった。
枕元に、彼のスマホが伏せられている。充電ケーブルは、差したままだった。眼鏡も、枕元に畳まれている。白井は、眼鏡がなければ三メートル先も見えないと、前に笑っていた。俺たちを嗤う口のひとつだった、あの眼鏡が、そこに、きちんと置かれている。
そして、シュラフの足元に、砂があった。
持ち込まれた砂、ではない。テントの床の合皮を、内側から押し上げるようにして、砂が、濡れたまま盛り上がっていた。濃い灰色の、海水を吸い込んで重くなった、あの砂だった。
触れると、指先が、ぬるりと湿った。貝殻を擦り砕いたような、細かい石粒の感触が、爪の下に食い込んでくる。
「七瀬」
背中で、呼んだ。
「……うん」
七瀬は、テントの入り口から中を覗き込んで、それから、口元を手で押さえた。嘔吐くのを堪えた音が、指の隙間から漏れた。
「白井くん、ここで、どうなったん……?」
答えられなかった。
「……白井のスマホ、鳴らしてみるか」
取り巻きの一人が、背後で震える声を出した。自分のスマホを取り出し、指が液晶の上で何度か滑ってから、ようやく発信に辿り着く。コール音が、二つ重なって聞こえた。遠くから、白井のスマホが枕元で震え、テントの中で小さく光る。それだけだった。三度、四度と、コールが繰り返された。その度に、枕元の光だけが、冷たく瞬いた。誰も出ない。出るはずがない。出るものが、ここには、もう、いない。
取り巻きは、スマホを切った。切ったあと、その手が、自分の太ももを、ぱん、と叩いた。自分を落ち着かせるための動作だった。けれど、叩いた音だけが、浜に、やけに大きく響いた。
俺は、シュラフのジッパーを閉めた。見ていられなかった、というのが正確だ。白井の汗の匂いが、まだそのシュラフに残っていて、それが、生臭い砂の匂いと混ざって、ひとつの空気になっていた。生きていた人間と、生きていない何かが、同じ寝床を使ったあとの匂いだった。
浜の中央に、一条が立っていた。
スウェットの裾に、砂がこびりついている。髪は寝癖で跳ね、昨夜までの整った前髪ではなかった。俺と目が合うと、一条は一度、唇の端を吊り上げようとした。けれど、吊り上がりきらないで、頬の肉がぴくりと痙攣した。
「……悪ふざけだろ」
一条が言った。
「白井の野郎、どっかで隠れてんだよ。俺らを驚かそうとしてんだろ、あいつ、昔からああいう悪ノリだけは早ぇから」
語尾が、上ずっていた。
昨夜、鳥居の方から音がしたときに一瞬だけ上ずったのと、同じ上ずりかただった。けれど、今朝は、それを隠そうともしていない。一条の指は、スウェットの裾を、ぎゅう、と握りしめていた。爪が生地に食い込んで、布地が白く突っ張っている。
「なあ、橘。お前、夜中に音聞いたろ。あれ、白井だよな。な?」
一条は、俺に同意を求めていた。
殴った相手に、同意を求めていた。三日前、桟橋に降り立った瞬間に、俺のリュックを蹴り飛ばしたその足で、今朝は、こちらに半歩、近づいてきている。
「……砂が、濡れてた」
俺は、言った。
「白井のテントの中。内側から、濡れた砂が盛り上がってた」
「は?」
一条の顔から、残っていた笑みの欠片が、音もなく剥がれ落ちた。
「なんだよそれ。お前が入れたんじゃねえの」
「俺が何のために」
「知らねえよ。お前の発想がキモいって言ってんだよ」
怒鳴り声だった。けれど、怒鳴り声の芯が、湿っていた。一条は、自分が怖がっていることを、怒鳴ることで隠そうとしている。それが、俺にははっきり見えた。ずっと、見られる側だった俺は、こういう種類の嘘は、見分けられるようになっていた。
「先生は」
俺は、聞いた。
「まだ、テントの中だ」
一条は、吐き捨てるように答えた。「助けは来る、って繰り返してる。あのおっさん、何も分かってねえ」
丘の上の引率テントは、朝の光の中でも、入り口の幕がたるんだままだった。昨夜、白井たちが叫んでいたあの夜も、そのたるみは、一度も動かなかった。俺は、そのことを、胸の奥に刻んでおいた。
七瀬が、俺の袖を、また、つまんだ。
「湊くん」
囁き声だった。
「白井くんの眼鏡、枕元にあったよ」
「うん」
「眼鏡外して、出て行く人、おらんよね」
俺は、頷いた。
一条が、その会話を、聞いていた。聞いたうえで、黙っていた。普段なら「お前ら何コソコソ喋ってんだよ」と割り込むはずの一条が、握りしめたスウェットの裾を、もう一段、強く絞っていた。
その頬に、小さな笑いが、ひきつるように戻った。
「……隠れてんだって。白井だよ。朝メシになっても出てこなかったら、そんときは、まあ、探しゃいい」
一条は、そう言って、桟橋の方へ歩いていった。歩きかたが、いつもよりずっと速かった。スニーカーの白が、朝の砂を、早足で蹴り上げていく。
七瀬の指先は、まだ俺の袖をつまんでいた。爪の先が、ほんのわずかに、俺の腕の肌に触れている。冷たかった。
「湊くん、あのね」
七瀬が、ゆっくり言った。
「昨日の夜、一条くんが笑っとったとき、白井くんは、一番大きい声で笑っとった」
俺は、黙って、頷いた。覚えている。俺のスマホを踏んだのは白井で、俺のリュックを蹴ったのは一条で、二人の笑い声は、取り巻きの誰よりも、甲高く夜に広がっていた。
「消えた順番、偶然じゃない気がする」
七瀬の声は、震えていなかった。もう、震えを通り越して、別の場所にあるような、妙に静かな声だった。
波が、寄せて返した。
引いた波の跡に、砂の筋が残る。その筋の上に、朝日がわずかに差し込み、濡れた粒のひとつひとつが、きらりと光った。
そして、俺は、見た。
波打ち際から、鳥居の方角へ、一筋の引きずり跡が伸びていた。
人の足跡ではない。両足で歩いた跡ではなく、何かが——重いものが、砂の上を滑るように引きずられていった跡だった。跡の端は、鳥居の影の中に消えていた。そして、その跡の脇に、点々と、濡れた足跡が並んでいた。
裸足だった。
指が、五本きれいに残っている。けれど、指の先が、人の足よりも、長かった。
「……一条」
俺は、呼んだ。
けれど、一条は、もう振り返らなかった。
風が、止まっていた。潮の匂いに混じって、あの生臭さが、鳥居の奥から、薄く、漂ってくる。
今夜、もう一度、夜が来る。