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嗤った奴から喰われていく

第1話 第1話

第1話

第1話

スマホの画面が砕ける音は、思っていたより乾いていた。

俺の三年分の写真と連絡先と、母さんの最後のメッセージが詰まったその板を、一条の白いスニーカーが二度、三度と踏み砕く。砂の上だから、ガラスは割れずに削れていく。サクサクという音が、足の裏から夜風に乗って届いた。

「あーあ、橘ぁ。もうちょっと頑丈なやつ買えよなー」

一条が笑った。砂浜に十人並んだ取り巻きが、合図を待っていたかのように一斉に笑った。波の音が一拍遅れて返ってくる。湿った潮の匂いが鼻の奥にこびりつく。

俺、橘湊は、自分のリュックが夜の海に放られていく弧を見ていた。中身は替えの下着と、母さんが持たせてくれた塩むすびと、小さな懐中電灯。波打ち際で一度だけ白い光を漏らして、リュックは沈んだ。塩むすびは、まだあたたかかったかもしれない。

「卒業記念って、こういうもんじゃね?」

誰かが言った。誰だか分からない。三年A組三十二人の顔は、もうずっと前から俺の中で輪郭を失っている。一条と、その周りの嗤う口だけが、夜目にもくっきり見えた。

頭を上げれば、月のない海。振り返れば、三日前に船で上陸した古い桟橋。引率の山辺先生のテントは、丘の上の常夜灯の下で、しんと黙り込んでいる。三十二人の悲鳴が聞こえないわけがないのに、テントの入り口の幕は、たるんだまま動かなかった。

俺は、唇の内側を噛んだ。鉄の味が薄く広がる。

そのとき、俯いて立つ一人の影が、視界の隅で震えていた。七瀬詩穂。中三のとき、家の近くの用水路に落ちた俺に、泣きながら飛び込んできた女の子。彼女の握ったあのときの手は、冷たいくせにやけに強くて、俺の手首に細い指の跡を残した。

その七瀬の唇が、今、噛まれて白くなっている。爪が掌に食い込んで、指先が震えていた。

「七瀬さーん、お前も笑えよ。せっかくの卒業記念だぞ?」

一条が振り返る。七瀬は、俯いたまま動かない。俺は、いいから、と口の中で呟いた。彼女の声まで、ここに巻き込みたくなかった。

そのときだった。

朽ちた鳥居の方から、ざり、と音がした。

砂を擦るような、湿った音だった。乾いた砂ではなかった。波打ち際に近い、海水を吸って重くなった砂を、無理やり押しのけるような、ねっとりとした擦過音だった。

俺は、首だけで音の方を見た。浜の北端、雑木林の縁に、石でできた古い鳥居が立っている。三日前に船から見たときは、ただの観光目印だと思っていた。今は、その奥が、月のない夜の中で、ぽっかりと黒い穴のように見える。

ざり、ざり。

砂を擦る音は、ゆっくり近づいてくる。誰かが裸足で歩いているような、それでいて、足の裏が砂にめり込んだまま引きずられているような。

「……なあ、誰か今、向こう行った?」

取り巻きの一人——白井というやつが、笑い声を急に止めて言った。

「は? 行ってねえだろ」

一条が答える。けれど、その語尾が、ほんの一瞬だけ上ずった。

ざり、ざり、ざり。

音は、止まらない。

俺は、鳥居の奥に目を凝らした。誰もいない。常夜灯の届かないその先は、墨を流したような闇だった。けれど、何かが、いる。砂を擦る重さがある。微かに、ひゅう、と長く息を吐くような音も混じっていた。それは人の呼吸よりも、ずっと遅く、ずっと深かった。肺ではなく、もっと別の器官で空気を押し出しているような、そんな音だった。

呻きだ、と気づいた。

低い、男とも女ともつかない、喉の奥でくぐもった呻き。

「みなとぉ……」

そう聞こえた、気がした。

俺の名前を、知っているはずのない方角から、低い声が呼んだ気がした。背筋の真ん中を、冷たい指が一本、撫で上げていく。塩でべたついた首筋に、鳥肌が立つ。耳の奥で、自分の心臓の音が、やけに大きく聞こえた。

「……気のせいだろ」

一条が言った。誰に向かって言ったのか分からない呟きだった。さっきまでの薄ら笑いは消えていて、口の端だけがひくついていた。

「行こうぜ、テント戻ろう。先生が叱る前に」

白井が、誰よりも先にきびすを返した。

俺は動けなかった。鳥居の奥の闇が、こちらを見ている気がした。月のない夜の海。砕けたスマホの破片。沈んだリュック。それら全部が、いま、無関係に思えるほど、その闇は重かった。

七瀬が、俺の背中に近づいてきた。

「湊くん」

囁き声だった。耳のすぐ後ろで、震えていた。

「いま……音、聞こえた?」

「……聞こえた」

俺は、答えた。声が、思ったより掠れた。

「でも、聞こえなかったことにする」

七瀬は、何も言わなかった。けれど、俺の上着の裾を、人差し指と親指でつまんだのが、布越しに伝わった。中三の用水路のときと、同じ強さだった。

ざり、と、最後にもう一度、音がした。

それきり、闇は黙った。

テントに戻ったあとも、潮の匂いは服から抜けなかった。

支給されたシュラフの中で、俺は仰向けに目を開けていた。テントの天井のシワに、丘の上の常夜灯の光がうっすら滲んでいる。それを見ているふりをしながら、耳だけは外に開きっぱなしだった。

ざり、という音は、もう聞こえない。けれど、聞こえないということが、かえって怖かった。無音は、沈黙ではない。何かが息を潜めて、こちらの反応を待っている、その気配だった。

両側のシュラフから、取り巻き連中の寝息が聞こえる。早すぎる寝息だった。誰もが、寝てしまえば朝になると思っているのが伝わってくる。一条のシュラフだけは、ときどきもぞ、と動いた。

俺は、左の掌の中に、一枚の写真の感触を握り込んでいた。

財布に入れていたから、リュックと一緒には沈まなかった一枚。母さんと、まだ生きていた頃の祖母と、小学生の俺の三人で撮ったものだ。祖母の指は、皺の刻みまで思い出せる。あの指が、夏の縁側で扇子を煽ぎながら、低い声で語った話を、俺は今夜、ずっと反芻していた。

——湊。あの島にはな、嗤った人を喰う婆がおるんよ。

——口減らしで捨てられた子をな、不憫がって育てたんが、その婆さんなんやと。

——ほやから、その子を嗤った大人らを、片っ端から食べてしもうたんやと。今でもおるけえ、あんた、人を嗤うたらいけんよ。

子どものときは、ただの怖い昔話だった。卒業研修の島がよりにもよってその島だと知ったときも、まさか、と笑った。笑った、自分が、嫌になる。祖母の声は、いつも優しかった。けれど、あの話をするときだけは、声の底に、氷のように冷たいものが沈んでいた。いま思えば、あれは、警告ではなく、約束だったのかもしれない。

ざり。

シュラフの外、テントの幕の向こうで、また、音がした。

俺は息を止めた。

ざり。ざり。

砂を擦る音が、テントの周りを、ゆっくりと回っている。

「みなとぉ……」

呻きが、テントのすぐ横を通った。

息ができない。心臓が、シュラフの中で勝手に跳ねる。

何人だ。何人いる。意識を耳に集中させる。一つじゃない。少なくとも、三つ。いや、もっと。テントの外側の砂を、擦る重さの違う、複数の足が、今夜、この浜を歩いている。

俺を、嗤った人数ぶん、いるのではないか。

そう思った瞬間、隣のテントから、誰かが「うわっ」と短く叫んだ。布の擦れる音、続いてジッパーを開ける音。誰かが外に飛び出した。

「白井!? どこ行った!」

一条の声が、明らかに上ずっていた。

俺はシュラフから半身を起こした。テントの幕越しに、外で慌てる足音が交差している。一条たちが、白井の名前を呼んでいる。声が、夜の浜に、虚しく散っていく。

そのなかで、俺はひとつだけ、別の音を聞き分けていた。

ざり、ざり、ざり。

足音が、桟橋の方ではなく、鳥居の方角へ、ゆっくり遠ざかっていく音を。

人の足音ではない、湿った重さで。

俺のテントの幕が、ふいに、内側からめくれた。

七瀬だった。シュラフに入ったままの格好で、ずるずると這うようにして、俺の隣まで来ていた。彼女の頬は、月のない夜なのに、はっきり青ざめて見えた。

「……湊くん」

七瀬の唇が、薄く動いた。

「白井くんのテント、見た。中、誰もおらんかった。砂が、濡れとった」

俺は、答えなかった。

代わりに、握っていた写真を、左手から右手に持ち替えた。祖母の指の感触が、掌の中で、じわりと熱を帯びる。

外で、一条の悲鳴に近い怒鳴り声が響く。

ざり、と、遠くで、一度。

それきり、夜は、嗤うのをやめた。

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