第2話
第2話
扉のノブに手を伸ばした、その瞬間、笑いが止んだ。
廊下の向こうで、空気が一段、しんと沈むのが分かる。耳の奥で押し寄せていた血の音だけが、急に大きくなった。ペンライトの細い円が、自分の足の甲を照らしている。靴下越しに、床板の冷たさが膝まで這い上がってきた。
僕はノブを回さなかった。回せなかった、と書いた方がいい。ノブの真鍮は、押し入れの奥で触れたあの「動物の内側のような温み」とちょうど同じ温度をしていた。指先がそこに触れた瞬間、手帳を抱えた左腕が、勝手に半歩、後ろへ下がった。
時計の針は、三時の少し前。四つ目の丸が書き足されかけていた、あの欄を、ペンライトでもう一度照らし直す。引っかき傷のような線。誰の字でもない。少なくとも、僕の字ではない。
扉の前にもう一度座り直して、耳を当て続けた。
それ以上、廊下では何も起きなかった。鼻歌も、足音も、軋みすらも、嘘のように消えていた。窓の外の樅の木だけが、風のないまま、相変わらず微かに揺れている。
時刻が三時十七分を指した時、僕はやはり手帳の欄に、自分の手で四つ目の丸を書いた。先に書き足されかけていたあの線の、すぐ横に。
そのまま、いつ眠ったのか、覚えていない。
朝、目が覚めると、廊下の方から悲鳴が聞こえた。
正確には、悲鳴の手前で誰かが息を吸い損ねたような、短い音だった。続いて、複数の足音が階段を駆け上がってくる。僕は手帳を胸に抱いたまま、毛布を蹴って廊下に飛び出した。
美嘉の部屋の扉が、開いていた。
中に、健吾と、真由が立っていた。健吾は何かを言いかけて、口を半開きのまま閉じた。真由はベッドの脇にしゃがみ込んで、シーツに手を置いていた。沙耶さんが二人の後ろから、ゆっくりと部屋に入ってきて、息を一つ吐いた。
「……まだ、温い」
ベッドの真ん中、人ひとり分くらいの大きさのへこみが残っていた。掛け布団は半分めくれ、シーツには、寝返りを打った皺がそのまま残っている。真由が手を置いていたのは、その皺の上だった。指先が、シーツの繊維を撫でて、また戻ってくる。
「さっきまで、誰か、寝てた」
真由の声は、誰にも向けられていないような言い方だった。自分で自分に確かめているような、それとも、聞いてはいけない誰かに尋ねているような、宙に浮いた声。指先は皺の一筋をもう一度なぞって、戻ってきて、また同じ筋の上で止まった。シーツの人肌は、掌の下で確かに一度触れ、けれど指の腹で押し込むとすぐに、布の厚みの奥へ温度が逃げていった。人の輪郭の残滓だけが、そこに浅く、ほとんど刻印のように残されていた。
僕は手帳を開いた。ページが震えて、万年筆のキャップを落としそうになる。
枕の上に、髪の毛が一本だけ落ちていた。長い、ゆるく波打った髪。美嘉の髪だ。間違いなかった。昨日の夕食の席で、左肩を二度さすった、あの後ろから流れていた髪と、同じ色、同じうねり。根元の方がわずかに湿っていて、寝汗なのか、夜露なのか、見分けがつかなかった。指先を近づけたが、触れる前に、なぜか手が止まった。触れてはいけない、と手帳の余白が裏側から叫んでいるような、そういう種類の躊躇だった。
部屋の窓は、内側から鍵がかかっていた。クレセント錠が、横に倒れたままになっている。窓ガラスに、外からの雨の跡もなければ、人の手の痕もない。鍵自体が、長く触られていない錠のような、薄い緑青を帯びていた。
「……玄関、見てくる」
椎名の声だった。いつから後ろにいたのか、廊下に立ったまま、彼女は階段を降りていった。眼鏡のフレームが、廊下の朝の光を一瞬だけ跳ね返した。
階下で、扉の閉まる音。ややあって、
「先輩」
と、椎名が呼んだ。声の角が、いつもより一段、低かった。
僕たちは、誰からともなく階段を降りた。朽木先輩は、まだ来ない。
玄関の三和土の真ん中に、美嘉のスニーカーが、揃えられていた。
左右の踵が、ぴったり一直線に並んでいる。脱いだのではなく、誰かが置いたような、几帳面すぎる揃え方だった。踵と踵の間に、測ったような一センチの隙間が開いている。美嘉は、こんな風に靴を脱ぐ子ではなかった。昨夜、玄関で先輩に促されて靴を脱いだ時、左右の踵は斜めにずれていて、彼女はそれを直さなかった。直そうとも思っていない顔をしていた。その同じ靴が、今は、誰かの手の几帳面さで、三和土の中央に据え置かれている。靴の中に、足の温もりが残っていそうな白さで、紐の結び目だけが、昨日玄関で見た時と同じように、二重蝶々の形に結ばれていた。
「……美嘉、どこ」
健吾が、誰に訊くでもなくつぶやいた。
返事はなかった。樟脳と黴の匂いの中に、ひと筋だけ、甘い柑橘の匂いが混じっていた。美嘉のハンドクリームの匂いだった。匂いはまだ、確かにそこに残っているのに、靴の主だけが、いない。
朽木先輩が現れたのは、それからしばらく経ってからだった。
寝起きの顔で階段を降りてきた先輩は、玄関に並んだスニーカーを見て、一瞬、足を止めた。それから、何でもないことのように軽く笑った。
「美嘉、散歩か? あいつ、寝起きすぐ動くタイプだしな」
「裸足で、ですか」
椎名が静かに言った。
先輩は答えなかった。代わりに、自分の上着のポケットから車のキーを探した。指が、ポケットの内側を二度、三度と探る。それから、別のポケット。それから、上着自体を脱いで、内ポケット。
「……鍵、知らないか」
「車の?」
沙耶さんが訊き返した。先輩は頷かなかった。頷く代わりに、玄関脇の靴箱の上を見て、テーブルの引き出しを開けて、それから、自分が昨日上着を掛けたコート掛けを、もう一度、確かめに戻った。
無い。
鍵束ごと、無くなっている、と先輩がやっと口に出した時、健吾が玄関の扉に手をかけていた。
「先輩、外、見てきます。美嘉、本当に裸足で出てるなら、近くに——」
押した扉は、開かなかった。
押しても、引いても、横に揺すっても、扉は鍵がかかっているように動かなかった。掌に当てた扉の木目は、いつもの冷たさを持っていなかった。ひんやりともせず、暖かくもない、温度そのものが抜け落ちたような、手応えのない平らさだった。健吾が体ごと扉に肩をぶつけたが、返ってきた振動は、扉の向こう側ではなく、扉そのものの厚みの中で吸い込まれるようにして消えた。鍵穴を覗き込んで、健吾は顔を上げた。
「内鍵、開いてます。なのに、開かない」
外側で、何かが押さえているような重さだった、と後で健吾は言った。けれどその瞬間、僕にはそう思えなかった。扉の向こう側に、人がいる気配は、なかった。ただ、空気そのものが扉に貼りついて、こちら側を出さないようにしている、そういう種類の重さだった。
裏口へ回った。同じだった。一階の窓を順に試した。クレセント錠を外しても、サッシが、敷居に張りついて動かない。木製の窓枠の縁から、ほんのわずかに、白い結晶のようなものが滲んでいる。塩のような、霜のような。
「電波」
真由が、震える声で自分のスマホをかかげた。
画面の右上、アンテナの三本線は、灰色のまま動かなかった。圏外、と小さな文字が、ずっと出たままになっている。沙耶さんも、健吾も、椎名も、各自の端末を引き出して、同じことを確認した。先輩のスマホが、確認の途中で勝手に再起動して、もう一度立ち上がってから、また圏外になった。
門扉までの石畳を、僕たちは並んで歩いた。
朝の光は十分に明るかった。樅の木の葉先で、露が朝日を受けて光っている。けれど、門の鉄柵に手をかけた瞬間、誰も、それ以上前に進めなかった。
門の鎖は、内側から、太い南京錠で結ばれていた。
その南京錠を、誰がかけたのかを、僕たちは、誰も思い出せなかった。
戻ってきた玄関で、僕は手帳を開き直した。
ページの一番上に、震える指で日付を書く。二日目、午前七時四十分。それから少し下げて、行頭を一字下げて、こう記す。
——美嘉、不在。靴のみ、玄関に残置。
書いて、ペンを止めた。
「不在」と書いた自分の字が、自分の字に見えなかった。万年筆のインクは確かに僕のそれなのに、線の運びだけが、夜中に書き足されかけていたあの引っかき傷と、同じ角度で曲がっていた。
健吾が、扉をもう一度、思い切り蹴った。鈍い音だけがして、扉は微動だにしなかった。沙耶さんが先輩の腕を掴んでいる。先輩は、片方の手で目を覆っていた。
僕は、まだ自分の字を見ていた。
廊下の二階で、こくん、と床が鳴った。
朝の光の中で、僕以外の誰も、その音に、振り向かなかった。