第1話
第1話
午前三時十七分、二階の廊下が、三度目の軋みを上げた。
僕は枕元のペンライトを点け、手帳の角に時刻を走り書きする。指先が冷え切っていて、万年筆のキャップがうまく回らない。天井板の向こうで、木目に沿って、確かに何かが歩いている。一歩、二歩、三歩。人ひとり分の体重を、ゆっくりと規則正しく踏み分ける音。けれど声も、衣擦れも、呼吸も、一切聞こえない。ただ板が、誰もいないはずの場所で鳴るだけだ。
樟脳と黴の匂いが、鼻の奥に貼りついている。黒縄邸に入った瞬間、玄関の式台でそれを嗅いだ時、喉の奥が痺れた。百年分の古さ、というより、百年誰かに嗅がれ続けた空気。そういう種類の濃度だった。
軋みが止む。
息を止めて、時計の針が十八分の位置に跳ねるのを見届けた。ここまでおよそ三分半。音は廊下の端から奥へ鳴り、突き当たりで途切れた。初日の深夜も、二日目の未明も、まったく同じ尺だった。手帳の「三時十七分」の欄に、三つ目の丸が並ぶ。
「……気のせい、じゃないな」
声に出すと、唇が乾いていた。
毛布を肩にかけてベッドを降りる。床板はこちらの部屋でも鳴ったけれど、僕の体重は五十二キロしかない。たぶんさっき廊下を歩いていたものは、もっと重い。もっと迷いがない。廊下に出る勇気はまだ湧かず、代わりに僕は扉の内側に耳を押しつけた。古い木は、朝の井戸水と同じ温度をしていた。耳の軟骨が痺れる。無音の中で、自分の脈拍だけが、やけに大きく返ってくる。とくん、とくん、とくん。やがてそれも、聞こえなくなった。
枕の下に手を入れ、手帳をもう一度確かめる。表紙に「黒縄邸 合宿記録 藤代悠」。大学のオカルト研究会、三度目の遠征。参加者は七人。主催の朽木先輩、副代表の沙耶さん、ムードメーカーの美嘉、口数の少ない健吾、真由、一年の椎名、そして僕。記録係は今回も僕の役目で、他にできることも、特になかった。
扉の外側は静かだ。静かすぎる。窓の方を見ると、月はなく、館の裏手の樅の木が、風のないまま微かに揺れていた。
朝食の食堂では、皆の笑い声が遠く聞こえた。
合宿と称して季節ごとにどこかへ遊びに行くだけの集まり。築百年、元は士族の別邸で、戦後に一度洋館へ改装されて以来、ほとんど人が住んでいないという家を、朽木先輩は管理会社を通じて二週間借り切った、と自慢げに言っていた。
「で? 悠は何を書いてるんだ、朝からずっと」
パンにマーガリンを塗りながら、朽木先輩が顎をしゃくった。
「廊下の、軋み」
「はあ?」
「昨日の夜中、二階の廊下が鳴りました。三時十七分。一昨日も、その前の晩も、同じ時刻に」
先輩は笑った。砂糖を入れすぎた紅茶をスプーンで回しながら、歯の見える笑い方で。
「気のせいだろ。古い家なんだよ、ここは。湿度で木が痩せて、夜中に勝手に鳴る。そういうのをいちいち記録してたら、お前の手帳、一晩で足りなくなるぞ」
「でも、時刻が三度とも」
「三分ズレてるかもしれないぞ。お前の時計、本当に合ってるのか」
黙って、コップの水を飲んだ。水道水にわずかな鉄の味。洋館の井戸水なのか、配管が古いだけなのか、僕には判断がつかない。知識がないぶん、僕は疑うことしかできない。それが記録係としての唯一の仕事だと思っている。
向かいの席で、美嘉が卵をほぐしていた。
「悠くん、また手帳書いてんの? 律儀〜」
明るい声。この会で一番の明るい声だ。去年の合宿でも、廃病院の門前で膝が震えていた僕の手帳を覗き込んで、「ぞっとしないほど几帳面」と笑ってくれた。彼女の声は、古い館の重たい空気を、一瞬だけ薄めてくれる。
「……昨日の夜、何か聞かなかった?」
「んー? 私ぐっすり。布団ふかふかだったし」
「そう」
それ以上訊けなかった。朽木先輩の視線が、ずっとこちらに向いていたからだ。
七人。今、食堂に七人いる。数え直してもやはり七人。なのにどうしてか、昨夜到着してすぐ沙耶さんのカメラで撮った集合写真のことを思い出すたびに、胃の底がほんの少しだけ冷える。フィルム式の古いカメラで、現像はまだだ。明日、街のラボで上がってくる予定だった。
午前中は各自自由行動、と先輩が宣言した。皆それぞれ館を散策しに出ていく。僕は手帳を抱えて、二階の廊下へ上がった。
午前の廊下は、驚くほど明るかった。両側の窓から差し込む光が、埃の粒を銀の糸のように浮かび上がらせている。樹脂の焼けた匂い。古い絨毯の足裏の感触は、毛が詰まって硬い。突き当たりまで歩いてみる。壁紙には、花の蔦模様が薄く残っていた。
昨夜、軋みが止まったのは、この突き当たりだ。
床を踏んでみる。僕の体重程度では、ほとんど鳴らない。押し入れのような戸が一つあって、開けてみたけれど、中は空だった。空のはずなのに、奥の壁板が、ほんのわずかに湿っている。指の腹で触れると、水というより、動物の内側のような、鈍い温みがあった。
反射的に、手を引いた。廊下の空気が、一瞬だけ、冷えた。
後ろで、誰かが階段を上がってくる足音がした。振り返ると、眼鏡の椎名が立っていた。
「藤代先輩、何してるんですか」
「……廊下の、下見」
「真面目ですね」
彼女は少しだけ笑って、自分の部屋へ入っていった。扉が閉まる。それきり、館が静かになった。
昼を過ぎて、先輩が僕を書斎に呼んだ。
書斎、と言っても、本棚は空で、革張りの椅子が一脚あるだけの部屋だ。壁に、家相図のような紙が色あせた額に入れられて掛かっていた。七つの部屋、一つの中庭、そして地下へ向かう階段らしき線。先輩はその額の前に立って、僕を待っていた。
「悠。お前、昨夜の話、他の奴らにした?」
「……いえ」
「しないでくれよ。特に美嘉には。あいつ、すぐ怖がるから」
先輩の声は、朝食の時のような軽さがなかった。
「でも、先輩は、気のせいだって」
「気のせいだ。俺はそう思ってる。でも、お前みたいな奴がそういう記録を残すと、雰囲気ってやつが変わる。俺たちは楽しみに来たんだよ、ここへ」
楽しみに、という言葉が、一度口の中で転がされてから出てきたように聞こえた。
「手帳、貸してみろ」
先輩は手を出した。僕は渡さなかった。渡せなかった、というほうが近い。手の甲が汗ばんでいて、手帳の革表紙は、さっき押し入れの奥で触れた、あの鈍い温みと同じ温度をしていた。
「藤代」
名前で呼ばれた瞬間、喉が閉じた。
「記録は、ちゃんと取ります」
やっとそれだけ返すと、先輩は鼻で笑って、手を引いた。
「なら、いい。好きにしろ」
書斎を出る寸前、もう一度だけ家相図に目を走らせた。地下へ向かう階段らしき線は、ほんのわずか、鉛筆で後から書き足されたような、不自然な細さだった。
夕食の席で、美嘉がふと呟いた。
「ねえ、私たちって、何人だっけ」
誰も、すぐには答えなかった。健吾がパンを切る手を止め、真由がスプーンを止めた。沙耶さんは写真を数えるように、机の上へ視線を七回、ゆっくり動かしてから、
「七人でしょ」
と、静かに言った。
「そうだよね。七人。うん、そうだった」
美嘉は笑って、自分の左肩を二度、軽くさすった。誰もそこには触れていないはずだった。
部屋に戻ると、枕元に置いたはずの手帳が、ベッドの真ん中に移動していた。開いたページには、僕の字ではない線で、横に一本、薄い線が引かれていた。「三時十七分」の欄の下。四つ目の丸を、誰かが先に書き足そうとしていた——ような、そうでないような、判断のつかない引っかき傷が、一本。
その位置を、僕は長い間、見つめた。
時計を見る。二時五十八分。窓の外で、樅の木がまた揺れていた。風はない。
廊下の突き当たりが、こくん、と鳴った。
いつもの三時十七分より、十九分も早い。
毛布を肩にかけ、ペンライトを握った。呼吸が浅い。手帳を胸に抱いて、扉の前に座り直す。耳を板に押しつける。冷たさの奥で、今度は、足音ではなく——
誰かの鼻歌が、聞こえた。
知っている旋律だった。昼間、食堂の皿洗いで、美嘉が口ずさんでいた、あの明るい歌。扉の向こうの廊下で。まだ誰も消えていないはずの館の、二階の廊下で。
ペン先を親指に押し当てて、痛みで意識を固定した。手帳の新しいページに、震える字で書く。
——三時の前に、もう、始まっている。
扉の向こうで、鼻歌が、静かに笑いに変わった。
僕は立ち上がった。