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三時二分の裸足

第3話 第3話

第3話

第3話

録音機は、三度、同じ言葉を繰り返して、止まった。

「……したの、じめんの、ずっと、したの、ところに、いるよ」。

私は、ヘッドホンのコードを、手のひらに一度巻きつけて、それから、ほどいた。指先が、まだ、わずかに痺れている。窓の外は、夜明け前の、青い、時間の底だった。ガムテープで留めたはずの新聞受けの蓋が、一度、かたりと鳴った気がしたが、確かめに行く気にはなれなかった。台所の蛇口の水滴が、ステンレスの流しに、ぽつん、と一滴、落ちた。

机の上の、二本のテープと、録音機と、姉の星形のシール。私はノートの白い頁を破いて、そこに、自分が今から考えるはずのことを、先回りして書き出した。

一、廃集会所の床下に、もう一つの空間がある。 二、そこに、姉の足音と同じ歩幅の「何か」がいる。 三、私はそこに、行かなければ、いけない。

書き終えてから、ペン先が、紙の繊維を、一ミリ、引っ掻いていた。引っ掻いた場所に、インクが、小さな滲みを作っている。その滲みを、親指の腹で押さえた。押さえたところが、黒く、指先に移った。

リュックに、予備のテープ四本、懐中電灯の電池、折りたたみの鋸、園芸用の小さなスコップ、それから、姉の裁縫箱に入っていた、錆びた裁ち鋏を入れた。何に使うのか、自分でもわからなかったが、持たずに出るのは、できなかった。

玄関で、ガムテープを、ゆっくり、剥がした。

剥がれた面に、白い紙片が、一枚、貼りついていた。差出人はない。宛名もない。ただ、鉛筆で、「まっているよ」と、ひらがなだけで書いてある。右下がりの、丸い字だった。十二歳の、私の字に、よく似ていた。私は、その紙を、胸ポケットに入れた。入れる、という動作が、自分の意思だったのか、もう、わかりかけていた。

外に出ると、空気は、濡れた鉄の匂いがした。

雨は、夜のうちに、もう一度、降り直していた。アパートの外階段の手すりの塗料が、ところどころ剥げて、指に当たった塗膜が、薄い皮膚のように、ぺらぺらとめくれた。廃集会所までは、自転車で、十五分。街灯が、二本おきに、切れていた。切れている街灯の下で、私は一度だけ、振り返った。二階の、自分の部屋の窓に、電気はついていなかった。はずだった。けれど、カーテンの隙間の一センチだけ、青白い、液晶のような色が、ふっと揺れて、消えた。録音機の、緑のランプの色だった。

集会所に着いたとき、空は、まだ、灰色にすら膨らんでいなかった。

玄関の引き戸の下の隙間から、新しい空気が、私に、押し込まれた。中の空気が、押し返してきた空気よりも、わずかに、温かかった。誰もいないはずの家が、息をしていた。喉の奥が、からからに、乾いた。

一階のもっとも奥、かつて台所だったと思われる土間。そこの板張りの床の、四畳ほどの範囲だけ、畳が敷かれていた。七回の臨場で、私はその畳を、一度も、持ち上げてみなかった。床下収納の類だろう、民俗学の院生が、床下を掘るのは筋違いだ。そう自分に言い聞かせて、避けていた。

懐中電灯を、口にくわえた。

畳の縁に、両手の指をかけて、持ち上げる。畳は、思ったより、軽かった。軽い、というより、中身が抜けていた。裏の藁床が、まるで長年、何かに食い荒らされたように、空洞になっていた。空洞の奥から、古い、湿った、土と、線香と、腐った果物の、あの匂いが、ふわりと、立ち上がった。

畳の下は、板ではなく、木の、蓋だった。厚さ十センチはある、古い、黒光りする、一枚蓋。蓋の真ん中に、鉄の取っ手が、錆びずに沈んでいた。錆びない、ということが、この蓋が、繰り返し開けられてきた証拠だった。取っ手に、指をかけた。金属は、私の体温より、少しだけ、暖かかった。

引き上げると、下から、階段が、生えていた。

石だった。一段あたり、二十センチに満たない、子どもの足に合わせた、狭い螺旋。下に行くほど、細く、暗くなっていた。懐中電灯の光は、七段目までしか届かなかった。七段目のところで、光は、ふっと、吸われるように、消えた。闇が、ただ黒いのではなく、水のような密度を持っていた。

階段の縁に、子どもの、小さな足跡が、ひとつ、湿ってついていた。裸足だった。

私は、一段ずつ、数えた。

ひとつ、ふたつ、みっつ。

五段を下りたところで、懐中電灯の光が、自分の手元しか照らさなくなった。壁は、土ではなく、白い、薄い漆喰で塗られていた。漆喰には、細い亀裂が、無数に、同じ方向に、走っていた。亀裂の中に、人の爪の先ほどの、黒い染みが、点々と並んでいた。古い、血だと、思った。思った、と口の中で呟いたら、呟きが、漆喰に、吸われた。この空間は、音を吐き出してくれない。

九段目で、階段は、終わった。

そこは、六畳ほどの、丸い部屋だった。

天井は、低い。私の背丈より、十センチほど上。丸い天井の中心に、木の梁が一本、渡してあって、梁から、細い麻の縄が、垂れていた。縄の先に、なにも、ぶら下がっていなかった。なにかがぶら下がっていた跡は、縄の先の、黒い擦れのかたちで、残っていた。

部屋の奥に、祭壇があった。

祭壇は、思ったほど大仰ではなかった。畳一枚分の、板の台。その上に、蝋燭が、八本。すべて、火がついていた。私は、この家に、電気も、ガスも通っていないと、確かめていた。けれど、蝋燭は、八本、同じ高さで、同じ揺らぎ方で燃えていた。垂れたろうの跡は、どれも、新しかった。

蝋燭のあいだに、椀がひとつ。椀には、水が張られていた。水の表面に、私の顔が、映らなかった。映ったのは、私の、うしろだった。

うしろに、だれか、立っていた。

振り返る前に、袖を、掴まれた。

ちいさな、五本の指だった。畳の縁に、三本だけ並んだ、あの指の、ぜんぶ、だった。指の付け根に、小さな、白い、傷の痕が、光っていた。皮膚は、冷たくなかった。むしろ、私の手首より、ほんの少しだけ、あたたかかった。そのあたたかさが、私を、いちばん、怖がらせた。

「やっと、来てくれた」

寝間着は、白く、裾に、泥が、薄くついていた。その泥が、まだ、乾ききっていなかった。

少女は、私の胸の、少し上までしか、背がなかった。髪は、腰まであって、毛先が、少しだけ、縮れていた。瞳は、黒い、というより、深い、茶色。その茶色が、蝋燭の火を、八つ、きれいに、丸く、映していた。

「迎えに、来てくれたんだよね」

私は、口を開いた。ひらいたが、最初に出たのは、言葉ではなく、ただの、息だった。その息のなかに、二十七年分の言い訳が、ぜんぶ、混ざっていた。

「……ねえさん、じゃ、ないよね」

と、私は、やっと、言った。

少女は、首を、かたむけた。かたむけた角度が、妙に、大人びていた。

「わたしは、ねね」

袖を掴んだまま、少女は、もう一方の手で、自分の、胸のあたりを、ぺたり、と触った。触ったあとの、寝間着に、ちいさな、手のかたちが、ほんの少し、しめって、残った。

「ひいらぎ、ねね。きょうは、十一月の、十四日」

私は、今日の、本当の日付を、言わなかった。

少女は、それを、知っていた。

「ずっと、ここ。ずっと、ここで、まってた」

うしろで、木の蓋が、落ちる音がした。

頭上の、階段のいちばん上で、私がさっき開けたままにしてきた、あの蓋が、ゆっくり閉まる音ではなかった。外から、叩き落とされた音だった。金属の、何か重いものが、蓋の上に、続けて、三つ、置かれる音が、それに続いた。鉄の匂いが、階段の上から、水のように、流れ落ちてきた。

私は、反射的に、上を見た。

見上げた、その一瞬で。

祭壇の、八本の蝋燭が、一本ずつ、ではなかった。

一斉に、ふ、と、消えた。

消える瞬間の、ろうの芯の、赤い火の粒が、八つ、同時に、同じ速度で、闇のなかに、吸い込まれていった。

袖を掴む、小さな指に、力が、こもった。

「……だいじょうぶ」

耳のすぐそばで、ねねが、ささやいた。

「このひとは、もう、にげられないから」

録音機の、緑のランプが、闇の底で、ぽつん、と、ひとつ、灯った。

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