第2話
第2話
指は、三本になった。
畳の縁に、一本、二本、三本。音もなく並んで、四本目だけが来なかった。
「──呼んでない」
喉のどこから出たのかわからない声だった。言い訳のような、弁明のような、意味をなさない音の塊が、畳の上にぱたりと落ちた。指の関節が一瞬だけ、つん、と立ち上がる。何かを掴もうとする仕草だった。けれど、掴まれなかった。三本の指は、畳の目を撫でるようにして、ゆっくりと、闇のほうへ引かれていった。
息を吐いた瞬間、鼻の奥で、甘い香りが濃くなった。腐った果物と、仏壇の線香と、そのあいだに、ほんの一滴だけ、子どもの汗のような匂いが混じった。私はその匂いを、嗅いではいけない種類の匂いだと、本能で知った。
階段の降り方は、覚えていない。気づいたとき、私はリュックを胸に抱え込んでいて、録音機だけが外に出ていた。赤いインジケータは、三倍の速度で点滅を続けていた。玄関で靴紐を結ぶあいだ、三回、振り返った。振り返るたびに、二階の障子の向こうで、誰かが息を呑んだ気がした。呑んだのは、たぶん、私のほうだった。
アパートに戻ったのは、夜明け前の、空がまだ灰色にすら膨らんでいない時刻だった。玄関の鍵を二度まわし、チェーンをかけ、それから、新聞受けの蓋を、内側からガムテープで留めた。留めながら、こんなことをしている場面を学部の連中に見られたら何を言われるだろう、と考えた。考えることで、手の震えを隠していた。
洗面所で蛇口をひねると、水道管が一度、悲鳴のような軋みを上げてから、冷たい水が出てきた。両手で受けて、顔をうずめる。水が、耳の付け根で、短く、冷たい音を立てた。タオルで拭いたあと、私は鏡を、見なかった。鏡のなかで、自分の後ろに誰かが立っていたら、それを確かめる勇気が、もう残っていなかった。
机の上には、二十七年前の、姉のテープが置きっぱなしになっていた。
白いインデックスラベルに、鉛筆で「最後、三時二分」とだけ書いてある。字は、十二歳の私の字だ。右下がりで、丸い。私はそれを指先で一度、撫でてから、横に、今夜のテープを並べた。同じメーカーの、同じ六十分、同じ肌色のケース。ただし片方は、磁気が半分、擦り切れて、リールの縁に、うっすらと粉が吹いている。もう片方は、まだ、頬に押し当てると、プラスチックの冷たさが唇のわきに残った。
解析ソフトを立ち上げた。古いノートパソコンは、ファンが鳴きはじめるのに三十秒かかる。その三十秒のあいだ、私は、机の右端の、折れたシャープペンの芯を、指で払った。払ったあとの木目に、芯の粉が、細い線になって、三本、残った。さっきの、指と同じ本数だった。私はそれを、布巾で、ゆっくり、消した。消したのに、三本の線の残像は、瞼の裏に、しばらく、白く、焼きついていた。
姉のテープの、二分十七秒。
「もう切るね」のすぐあと、留守番電話が勝手に拾った十七秒間の、真ん中あたり。廃集会所のテープの、二分十二秒。笑い声のすぐ後ろ。
波形そのものの形は、重ならない。当然だ。録音機材も、距離も、年月も違う。けれど、スペクトルを切り出して、縦軸に周波数、横軸に時間を取り直すと、二本の録音の、ある一点だけが、ほとんど同じ場所で、緑色の小さな点を打った。画面のなかで、その緑は、他のどの雑音とも違う、妙に鮮やかな緑だった。蛍光灯の光の下で、一度だけ、瞬きをしたように見えた。
二・七キロヘルツの近辺。人の耳が「声の芯」として捉える帯域で、笑いや、含み泣きの倍音が集まる場所だ。そこに、姉のテープにも、今夜のテープにも、同じ形の、短い、三度の揺らぎが入っていた。
私は、二本を同時に再生した。
ヘッドホンの左耳から、二十七年前の、十二歳の私が百回聞き返した足音が流れた。湿った、裸足の、踵を落とさない歩き方。右耳からは、数時間前の、廃集会所での私の録音。笑い声のうしろに、同じ歩き方が、確かに紛れていた。
歩幅が、同じだった。
左耳の足音の間隔、〇・七秒。右耳も、〇・七秒。人間の歩幅は、成長すれば変わる。十二歳で姿を消した姉と、今夜、廃集会所の廊下を歩いていた「何か」は、同じ長さの足を持っている、ということになる。それを、私は、証拠と呼ぶつもりはなかった。私は民俗学の院生で、音声工学の専門家ではない。けれど、確率の話ならできる。二十七年隔てた二本の録音で、ピッチも、歩幅も、息の吸い方も、偶然でここまで重なる確率は、ほぼ、ゼロだ。指先が、マウスの上で、小さく、痺れた。数字は、私を、慰めてはくれなかった。
「雑音です」と、警察の人は言った。「電話線の不具合でしょう」と。
私は姉のテープを、もう一度、最後の三秒だけ、再生した。
「もう切るね」。
そのあと、姉が、息を、ちいさく、吸った。吸い終わる前に、遠くで、子どもが、「ふっ、ふっ、ふ」と、笑った。
笑ったのは、姉ではなかった。
キッチンで、湯を沸かそうと思った。やかんに手を伸ばしたとき、机のほうで、かちり、と、硬い、一粒のような音がした。
振り返ると、あの、三十年選手の録音機が、勝手に、巻き戻されていた。
リールが、逆向きに、回っている。私は、電源ボタンに触れていない。何も押していない。マイクは、机の端を向いたまま、動いていない。それでも、テープは、確かに、逆流していた。赤いインジケータはいつのまにか消えていて、代わりに、緑の、録音を示すランプが、ぽつん、と、静かに点灯していた。
録音。
録音が、新しく、始まっていた。
巻き戻しながら、同時に、録っている。既に録れてきた音の上に、今、別の音が、上書きされていく。そんな機能が、この機種にあったか。この録音機は、私が中学生のとき、姉の部屋から、親に黙って持ち出した。姉の遺品を箱から出したわけではない。姉がいた頃から、ずっと、姉の机の下にあった録音機だった。新しい機能が、ひとりでに、生えたとは思えなかった。筐体の側面には、当時、姉が貼った星形のシールが、まだ、半分だけ、色を残して貼りついていた。そのシールの縁が、緑のランプの光を、ほんの少しだけ、吸い込んでいた。
ヘッドホンを、震える指で、録音機のジャックに、差し込み直した。
一度、二度、奥まで入らない。三度目で、ぷつん、と、接点に当たった。耳に、そっと当てる。
最初の三秒は、廃集会所の、波板に落ちる雨の音だった。私が、覚えている音。
四秒目で、その雨音の下に、別の音が、重なった。
ぎし。
木の、床の、きしむ音。
それは、二階の和室ではなかった。もっと深い、もっと下の、地面より下の場所で鳴っている音だった。床の厚みが違う。反響が戻ってくる方向が、斜め下からで、四方を石か土で囲まれた場所特有の、くぐもった、丸みを帯びた響き方をしていた。
ぎし、ぎし。
二歩。三歩。
そして、止まった。
止まった先で、誰かが、ちいさく、息を吸った。姉のテープにも、今夜のテープにも、二・七キロヘルツの場所で、緑の点を打っていた、あの吸気だった。
「……れいじ」。
私の、名前だった。
姉の声ではなかった。廃集会所で聞いた、子どもの声ではなかった。けれど、私を「れいじ」と、平仮名のやわらかさで呼ぶ人は、この世に、父と、母と、姉の、三人しか、いなかったはずだった。父と母は、今夜、隣町の実家で眠っている。
「ここだよ」
声は、私の名前を呼んだあと、ごく短く、そう、付け足した。
緑のランプが、かちり、と音を立てて、消えた。
同時に、テープが止まった。巻き戻しも、録音も、すべてが、停電したように終わった。机の上で、二十七年前の姉のテープと、今夜のテープと、三十年選手の録音機が、ぜんぶ、同じ角度で、こちらを向いて、黙っていた。三つとも、こちらの、左の耳のほうを、向いていた。
私は、ヘッドホンを、外せなかった。外したら、夜明け前の、静まり返った外の空気が、耳に押し寄せてくる気がした。そのかわりに、もう一度、再生ボタンに、指を置いた。指の腹に、ボタンの、樹脂の、かすかな冷たさが伝わった。その冷たさの奥に、何かもっと冷たいものが、待っていた。
触れた、ただそれだけで、ボタンは、ふっ、と沈み、テープが、また、回りはじめた。
「……れいじ」。
「ここだよ」。
「したの、じめんの、ずっと、したの、ところに、いるよ」。
子どもの声は、上書きしたテープの中で、私に、道を、教えはじめていた。そのあと、声は、ちいさく、笑った。「ふっ、ふっ、ふ」。二・七キロヘルツのあの場所で、緑の点が、ひとつ、静かに、点いた。