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三時二分の裸足

第1話 第1話

第1話

第1話

再生ボタンを戻した指が、三度目で止まった。

廃集会所の、二階の和室。畳はとうに腐り、踏めば水を吸ったスポンジのような音を返す。外は雨になりかけていた。屋根の波板に、時おり砂粒のような雨粒がぱらりと落ちる。その合間に、私は自分の息の音と、三十年選手の録音機の回転音しか聞いていないはずだった。

午前三時五分。深夜三時ちょうどは、何も起きない。私はそれを七回の臨場で確かめてきた。怪異が起きるとすれば、三時を数分過ぎた、この「誰もが気を緩める」一瞬だ。姉の電話もそうだった。三時二分。受話器の向こうで、姉は「もう切るね」と笑って、そのあと十七秒、意味のわからない雑音が続いた。二十七年前の、あの短いテープだけが、私の言い分のすべてだった。

ヘッドホンから、また、女の子の笑い声が混じる。

私のものではない。私はさきほどから一言も発していない。ここに入ってから、誰ともすれ違っていない。換気扇を止めたこの部屋は、湿気と、土の黴の匂いと、線香の燃え残ったような甘い微香に満ちている。鼻の奥を刺すその甘さは、子どもの頃に嗅いだ仏壇の匂いによく似ていて、けれど、それよりも少しだけ、果物が腐りかけたような湿った甘さを帯びていた。笑い声は、テープの、たぶん二分十四秒あたりから、短く、三度。

──もういっかい、やる?

ヘッドホンの奥で、誰かがそう言った気がした。

指先が冷えていた。持ってきた湯呑みの緑茶は、もうずいぶん前に温度を失っていて、唇につけるとぬめるような苦味だけが舌に残った。私はそれを一口含んで、紙コップを畳の縁に置く。紙コップの底が畳に触れたとき、繊維の隙間に水分が染みて、じゅ、と小さく鳴った。筆記板の上には、七回分の手書きのメモと、同じ数の、赤い取り消し線。線の先で、シャープペンの芯が折れ、黒い点が一つ、紙の余白に小さく残っている。

「オカルト趣味」。

准教授の口癖を、私は頭の中で一度繰り返した。研究会の発表で、私がこの集会所の過去の事件について話しはじめた二分で、彼は腕時計を見た。三分で鼻を鳴らした。五分で、「佐倉君、民俗学は怪談を集める学問じゃないんだ」と、後輩たちの前で言った。笑い声は、テープの中ではなく、会議室のほうでも上がった。たぶんあれは、今聞こえているものより、少しだけ乾いていた。人の笑いは、空気を出すための音だ。けれど、テープの中のそれは、もっと濡れていて、もっと、内側にこもっていた。息を吸う音がないのに、笑うという矛盾に、私は最初のころ、気づいていなかった。

私はもう、笑われることに慣れていた。論文は三本続けて差し戻されている。研究費の申請書は、提出する前から破かれる。それでもこの録音機を手放せない理由は、一つだけだった。

姉の、最後の電話。

受話器の向こうで、姉は、駅前の公衆電話から「迎えに来てほしい」と言った。母は「タクシーで帰っておいで」と答えた。姉は一度、息を吸って、笑った。「もう切るね」──そのあとの十七秒、電話は切れなかった。留守番電話の機能のせいで、録音は、勝手に続いていた。

雑音、とみんなは言う。警察の人も、親戚のおばさんも、当時の担任も。電話線の不具合ですよ、と。

けれど私は、あの十七秒の中に、確かに、誰かが木の床を歩く音を聞いたのだ。裸足だった。踵が当たるときの、柔らかい、湿った音。そしてその足音の合間に、一度だけ、ごく小さく、息を吸い込むような音がした。鼻で吸うのではない。口を、かすかに開けて、食べ物を前にした子どもがするような、期待の混じった、静かな吸気。私はその音を、百回は聞き返した。磁気テープが擦り切れるまで、二度、別のプレーヤーで複製を取り直した。けれど、その吸気は、どのコピーにも、ちゃんと残っていた。

今、ヘッドホンから聞こえている笑い声の、ほんの一瞬の間に、それと、よく似た足音が、遠く紛れている気がした。

私は紙コップを脇へ寄せ、膝でにじり寄って、録音機の音量を少しだけ上げた。録音はつけたまま、巻き戻しのボタンに指を当てる。指の腹に、三十年前の樹脂の、乾いて少しべたついた感触が伝わる。外の雨が強くなった。波板の鳴る音が、不規則な拍手のように響いて、私の耳の中で妙に遠ざかった。鼓動が、耳の奥で一拍ずつ、はっきりと聞こえる。こめかみの皮膚が、内側から押されるように、熱くなっていた。

二分十二秒。

指で止めた。

再生。

最初の二秒は、自分の呼吸の音。次の一秒は、何もない。三秒目で、女の子が笑った。

笑う、というより、息を継いで、口の端だけで漏らすような、短い三音。「ふっ、ふっ、ふ」。そのあと、何かに口を押さえられたように、ぷつりと消える。その「ぷつり」の切れ方が、テープの劣化ではないことを、私は七回の臨場で既に確信していた。劣化のノイズは、尾を引く。これは、誰かが、意思を持って、口を閉じた音だった。

私は耳を押さえたまま、顔を上げた。廊下側の障子は、私が入ってきたときのまま、十センチだけ開けてある。誰かが通れば、必ず揺れる。けれど障子はぴたりと止まっている。柱時計は、この家にはもうない。外の雨は、いつの間にか止んでいた。雨が止んだ瞬間の、あの、世界全体が一歩後ろに下がるような静けさが、部屋の四隅から、じわりと滲み出てきていた。

もう一度、再生。

息継ぎ。無音。「ふっ、ふっ、ふ」。

三度目。笑い声の、ほんの後ろに、微かに、別の声。

──もういっかい、やる?

私は、自分が息を止めていたことに気づいた。呑み込んだ唾が、喉の奥でぬるく鳴った。奥歯の詰め物が、ずきりと痛んだ。その痛みは、子どものころ姉に連れられて行った歯医者の、薬品の匂いまで連れてきた。姉は待合室で、私の手を、汗ばんだ自分の手のひらで、ずっと握っていた。なぜ今、それを思い出したのか、わからなかった。

ヘッドホンを外し、録音機を静かに畳の上に置いた。動くものは、私の手しかない。畳の繊維が、膝の下で少しずつへたる音だけが、自分の体積を思い出させる。着ているシャツの背中が、いつの間にか、汗で肌に張り付いていた。

録音はまだ、回っていた。赤いインジケータが、規則正しく脈を打っている。私はそれを見ながら、襖の奥──この家の、もう一つの部屋のほうへ、目をやった。

襖は、閉まっている。

はずだった。

五センチだけ、ひとりでに、開いていた。

中は、暗い。

電池の切れかけた懐中電灯では、畳の縁までしか光が届かない。私は光を動かさないよう、息だけで、ライトの位置を固定した。手首の骨がぎくりと痛んだ。光の届かない闇は、ただ暗いのではなかった。何かが、そこに詰まっている、という密度を持っていた。水を張った甕の内側を覗き込んだときの、あの、反射しない黒。

襖の向こうの闇の、さらに奥で、木の床がたわんだ。

ぎし。

一度。

ぎし、ぎし。

二度目は、もっと近い。

体重のあるはずの音が、あまりにも軽かった。大人の歩き方ではない。踵が落ちる前に、指の付け根で抜いていく、軽い子どもの歩き方だった。そして、裸足だった。畳と床板の繋ぎ目のところで、湿った皮膚の擦れる音が、私の耳のすぐ横を通った。二十七年前のテープで、私が何百回も聞き返したあの音と、寸分たがわない質感だった。違うのは、それが今、ヘッドホンの外で、空気を震わせて、確かにここにある、という一点だけだった。

──やっと、来てくれた。

ヘッドホンを外しているはずなのに、その声だけが、頭の内側で鳴った。声は、姉の声ではなかった。けれど、姉が小さかった頃の声を、私はもう、正確には思い出せない。

逃げようと思った。けれど、逃げるには、私はもう、遠くまで来すぎていた。研究会も、家族も、二十七年間の夜の全部も、後ろに置いてきてしまっていた。

襖の向こうから、ひとつ、ふたつ、みっつ。足音が近づいてくる。私はリュックの側面に手を伸ばし、買ってきたばかりの予備テープを指先に挟んだ。プラスチックのケースが、汗ばんだ指の下で、かすかに滑った。姉が、十七秒のむこうで笑ったあの音を、私はもう一度、今夜、録らなければいけない。それだけが、この二十七年間の、私の仕事だった。

録音機のインジケータが、三倍の速度で点滅を始めた。

襖の隙間から、白い、細い指が、一本、畳の上に置かれた。

指の爪は、深く、きれいに切りそろえられていた。爪の白い部分だけが、闇の中で、小さな三日月のように浮いていた。

「──ねえ」。

子どもの声が、すぐそこにあった。

「今夜は、誰を呼んでくれたの」。

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