第3話
第3話
障子の桟にかかった指が、三秒、動かなかった。
節の太い、爪を短く切り揃えた、男の指だった。五本。白いけれど、血の気の薄い死人の白ではない。ちゃんと生きている人の、乾いた、皮膚の白さだった。
鏡の中の女は、まだ、いた。
私の後頭部のすぐ脇で、口を、開け続けていた。歯のない穴の奥から細く長く吐き出される白い息が、うなじの産毛の先を、ぬるい湿りで撫でている。冷たくはない。温かくもない。生ぬるい水を綿棒で一滴ずつ置かれるような、人肌の外にある、中途半端な温度。その温度が、髪の根元から背筋の中央の骨の、ひとつひとつの節を、舌のように舐め下ろしていく。
膝が畳に張りついたまま、動かなかった。
障子の指が、ようやく、小さく動いた。
指の腹が、桟の木目を、内側へ、ほんの数ミリ撫でた。女の爪が桟を引っ掻く音ではない。桟の古い塗りを労わるように、男が、指の加減を確かめている動きだった。指の根元に、黒い珠が一粒、揺れた。布で編まれた房が、もう一粒、二粒と、木珠に続いて桟の影から垂れ下がってくる。
数珠。
廊下を鳴らして近づいてきた、あの音の主が、障子の裏に、立っている。
障子が、横へ、滑った。
音を立てなかった。枠の乾いた木が擦れ合う、湿った軋みを、私は一つも聞かなかった。まるで障子が最初から閉まっていなかったことにされたみたいに、紙の白が、四畳半の空気から、ふっと、消えた。
廊下の闇の中に、男が立っていた。
白い装束だった。綿の古い生地が、肩の線から胸元へ、乾いた皺を畳んで落ちている。袖口から覗く手首が、細くて、けれど、骨は太い。首にかけた数珠が、男の動きに合わせて、ちゃり、と一度だけ鳴った。鳴ったあと、男は左手で珠を握って、音を殺した。
年は、二十代の半ばくらいだろうか。
分からない。顔を、ちゃんと、見ていない。
見てはいけないと、顔を見る前に、男の指の動きが、私に教えた。
男は畳に足を載せなかった。
廊下の板の上、障子の外側に立ったまま、左手で数珠を握り、右手を、ゆっくりと、私の肩のほうへ伸ばしてきた。手のひらが、私のうなじのすぐ横を通って、襟の内側へ滑り込む。指先が、鎖骨の窪みに触れた。触れた瞬間、その指の熱が、私の体温よりも二度か三度低いことに気づいた。低いのに、人の温度だった。夜勤明けの、少し血の巡りが悪い、そういう種類の、低さだった。
「──見るな」
声は、耳の、鼓膜の、すぐ後ろに、直接置かれた。
「鏡を。見るな。絶対に、目を、合わせるな」
囁きだった。息が、私のうなじで形になった。男の吐く息は、女のそれより、ずっと冷たかった。冷たいのに、生臭くなかった。どこかの寺の、古い線香の燃え残りのような、乾いた苦味の混じった、ただの人の呼気だった。
男の指が、私の鎖骨を押した。
押して、ゆっくり、頭を、鏡から、逸らさせた。
指の腹が、鎖骨の骨の上を滑るように、ほんの一ミリずつ、私の顎の角度を修正していく。鏡の縁が視界から外れる寸前、鏡の中の女の口が、ひときわ大きく、歪んだ気がした。それでも男の指は、私の余白を許さず、喉の真正面を、廊下の闇の方角へ、確実に、向け直した。首の後ろの筋が、男の指の圧の下で、少しずつ、ほどけていく。
「首を、ゆっくり。動かすなら、俺が動かしてやる。自分で見ようとするな」
私は、頷きたかった。頷けなかった。男の指の力の方が、私の首の筋肉より、遥かに強く、遥かに正確だった。少しずつ、私の視線は、畳の目へ、畳の縁の黒ずみへ、廊下の板の筋目へ、そうして、男の草鞋の爪先へ、移された。
草鞋、だった。
こんな時代に、草鞋を履いている男が、私の肩を、掴んでいた。
鏡の中の女が、ひどく遠いところで、低く、うなった気がした。
男の左手が、数珠を、一度だけ、床に叩きつけるように、鳴らした。
じゃ、らっ。
木の珠が互いをぶつかり合う高い音が、女のうなりを、一瞬で、押し潰した。四畳半の畳のぬるい熱が、心臓を一つ打つほどの間、すっと引いた。引いた隙間に、男の声が、もう一度、落ちた。
「立て。ゆっくりでいい。こっち側へ、来い」
引き寄せられるまま、私は膝を立てた。立ちかけた瞬間、畳の下で、また、ふう、と息が漏れた。一階の廊下で私を追いかけていた、あの呼吸とは位置が違う。真下ではなく、私の右膝の、五十センチほど奥。古い畳の縁の黒ずみの下から、湿った息が、ゆっくり、一度だけ、吐かれた。
男の指が、私の肩に食い込んだ。
「気づくな。気づいた瞬間、向こうは、喰いにくる」
食いしばった歯の奥で、私は、はい、と答えた。答えたつもりだった。男には聞こえなかったかもしれない。それでも男は、私を、廊下側へ、引き上げた。草鞋が、板の上で一度だけ、小さく音を立てた。
廊下に出てから、男は、障子を、元の位置へ、そっと戻した。
戻した障子の向こうで、鏡台の前の畳に、人の重みが、もう一度、落ちる音がした。
「……いま、誰か」
「見るな、と、言った」
男は振り向かなかった。
私の肩を掴んだまま、裏階段の方へ、数歩歩いた。歩いてから、ようやく、手を離した。離した掌が、私の肩の布地に、白い、ごく淡い、粉のような痕を残した。塩だ、と思った。神事で盛る、あの乾いた粗塩の匂いが、私の胸元から一瞬だけ立った。
男は、左手で数珠を整えながら、廊下の闇を見据えた。見据えて、それから、初めて、私の顔を見た。
切れ長の、黒い目だった。
黒いのに、よく見ると、瞳の底が、ほんの少し、灰色に濁っていた。濁っているのに、濁りが生きていた。奥で、何か、確かな光が、じっとこちらを値踏みしていた。
「伊吹、と、呼んでくれていい」
男は、そう言った。
「俺は、こういう家に、呼ばれる側の人間だ。あんたより先に、もう半月、この旅館に、居る」
「半月……?」
声が、ひどく、掠れた。半月。私が、三分前に、玄関を潜った、この旅館に、半月。意味が、頭の一番表の皮の下で、滑って、留まらなかった。警察は。電波は。半月も、誰も、来なかったのか。
伊吹と名乗った男は、私の掠れた声には、答えなかった。
代わりに、廊下の天井の、梁の節のひとつを、指で、軽く差した。
「この家にはな、いま、十七、居る」
「……十、なな」
「死んだ人間の数だ。あんたたちが肝試しに来る、何十年も前から、ここに残ってる。抜けられずに、ずっと、壁と、畳の下と、井戸の底と、床の間に、詰まってる。十七人だ。一人も、減ってない」
男の声は、静かだった。
怒鳴るわけでも、脅すわけでもなかった。事実を、数字として、読み上げる、医者のカルテを読む口調だった。事実だから、嘘がない。嘘がないから、逃げ道が、ない。私は、その声を、胸の、肋骨の、内側で、受け取るしか、なかった。
肋骨の裏側で、その数字が、ひとつずつ、冷たい小石のように沈んでいく。十七。指折りに数えるには、あまりに多い。忘れ去るには、あまりに少ない。誰かが、誰かの名前を呼びながら、ここで、息を、止めたのだ。何度も、何度も。数えるたびに、梁の古い木目が、釘を受け入れるように、ぎ、と低く、鳴った気がした。
「私の、友達、は」
「三人、だな」
男は、梁から指を下ろして、廊下の奥の闇を、もう一度、指した。
「まだ、十七には、入ってない。入っていないうちに、連れ出せるなら、連れ出す。入ったら、もう、あんたの知ってる顔じゃ、なくなる」
入った、という言葉の響きを、私は、飲み下せなかった。
この家は、人を、入れる器なのだ。入れて、壁と、畳の下と、井戸の底に、並べて、詰める。岡部先輩は、たぶん、もう、十七のうちの、一人だ。美緒も、健吾も、真司も、まだ、なっていない。まだ、の、ほんの、僅かな余白の中に、私たちは、いる。
廊下の、ずっと奥で、また、畳の下の呼吸が、聞こえた。
一階の、厨房の方角。
あの湿った床の、さらにその下から、今度は、もっと小さな、もっと細い、子どもの啜り泣くような、短い息が、二度、漏れた。
伊吹が、息を、ひとつ、吐いた。
「早いな。──もう、呼んでる」
数珠が、男の手の中で、きつく、握り直された。
「行くぞ。あんたは、俺の背中の、ちょうど半歩後ろを歩け。俺の影から、はみ出すな。影からはみ出した瞬間、あんたは、十八人目だ」
私は、頷いた。頷くしか、できなかった。
草鞋が、裏階段の一段目に載った。
私のスニーカーの底が、その半歩後ろで、畳のぬるい熱から、ようやく、離れた。