第2話
第2話
障子の向こうの笑い声が、ふっと途絶えた。
途絶えた、というより、吸い込まれるように、音そのものが消えた。笑いの余韻すら、空気の中に残っていない。まるで、最初からそんな音は鳴っていなかった、とでも言うように。
レコーダーのレベルメーターが、ゆっくりと、通常の高さへ戻っていく。赤い帯が引いていくその速度が、潮が退くのに似ていて、僕はなぜか、浜辺に打ち上げられた何かの死骸を思い出した。
「……行った、のか」
健太が喉の奥でつぶやいた。声が、掠れていた。
障子を、誰も開けなかった。開けて確かめる気力が、誰にもなかった。もし、そこに何もいなかったら──もしくは、何かがいたら──どちらであっても、僕たちはもう、今夜眠れない気がした。
女将が何事もなかったように膳を下げに来たのは、それから三十分ほど経ってからだった。路地の話も、足音の話も、彼女は一言も口にしない。「お布団、敷いておきました」と微笑んで、五人分の寝床が並んだ隣の間へ僕たちを案内した。敷かれた布団の数は、やはり、五つだった。
祐介が一番端、僕の隣、その奥に健太、向かいに美咲と由香里。蛍光灯を消すとき、祐介は眼鏡を畳の上に置き、スマホを枕元に伏せて、「朝になったら、一度ここ、出ようぜ」と小声で言った。僕は「ああ」と返した。誰も反対しなかった。暗闇の中で、五人分の呼吸だけが、少しずつ、ずれていくのを聞いた。僕が眠りに落ちる前、最後に耳に残ったのは、祐介の、やや乾いた咳の音だった。
朝の光は、障子を通してやけに白かった。
曇天ではなかった。霧が、宿ごと包み込んでいるようだった。窓を一つ開けると、湿った冷気が畳の上に流れ込み、昨夜の鉄錆の味が、喉の奥でかすかに蘇った。指先が冷えていた。布団から出した手が、九月とは思えない温度の空気に、ちりちりと粟立った。
目を覚ましたとき、僕の隣の布団は、きれいに膨らんだままだった。
掛け布団が、人が寝ていた形そのままに盛り上がっている。頭のあたりのくぼみも、肩のラインも、足の方へ向かって細くなる輪郭も、昨夜、祐介がそこに入って眠った、その形を保っていた。けれど、掛け布団をめくる前から、僕には分かっていた。中に、人がいないことを。
空気の密度が、違った。呼吸する生き物の熱が、そこにはなかった。
「祐介」
小さく呼んだ。返事はない。
もう一度呼んだ。それでも返事はなかった。掛け布団に手をかけ、ゆっくりとめくった。
中には、何もなかった。
敷布団の上、枕のわずかに左側に、祐介の眼鏡が、折りたたまれたまま置かれていた。その横に、伏せられたスマホ。充電器のコードが、コンセントへ真っ直ぐに伸びている。画面を起こすと、四時十七分、のままバッテリーが切れていた。深夜の、誰も起きていないはずの時刻に。
「──美咲」
僕の声で、美咲が飛び起きた。続いて健太、由香里。由香里が小さく悲鳴を上げた。健太は布団を蹴飛ばすように立ち上がり、「おい、祐介!」と廊下に向かって怒鳴った。
返事の代わりに、台所の方から、味噌を溶く木べらの音が聞こえた。とん、とん、とん、と規則正しい。
宿の中を、四人で手分けして探した。トイレ、風呂場、玄関、廊下の突き当たりの小部屋、裏口、物置。どこにもいなかった。靴を脱ぐ場所に、祐介のスニーカーだけが、つま先を揃えて、昨夜のまま、残っていた。財布も、リュックも、部屋に置かれたままだった。まるで、体だけがそこから抜け落ちた、としか言いようがなかった。
健太の声が、だんだん大きくなる。「いるんだろ、祐介、ふざけんな、こんなとこで」と、叫びながら廊下を踏み鳴らした。床板がぎしぎしと軋む。その音の下に、僕は、ほんの一瞬、別の足音を聞いた気がした。床の下の、ずっと下、地面を這うような、湿った足音。錯覚だと、すぐに打ち消した。打ち消さなければ、立っていられなかった。
女将は、台所の板の間で、味噌汁を作っていた。
鍋の湯気が、細く立ち上って、吊り下げられた電球の周りを白く霞ませている。腰の曲がった女将の背中は、昨夜と同じ藍色の割烹着で、木べらを動かす手つきは、呆れるほど、穏やかだった。
「女将さん」
僕は声をかけた。喉が、妙に乾いていた。「祐介が、いないんです。仲間の、背の高い、眼鏡の。どこかで見ませんでしたか」
女将は、手を止めた。ゆっくりと、振り返った。
深い皺に囲まれた目が、僕を見上げた。口元には、昨夜と同じ、穏やかな微笑みが、張りついていた。
「眼鏡の方、ですか」
と、女将は言った。
「そのような方は、最初から、いらっしゃいませんよ」
一瞬、言葉の意味が、理解できなかった。
冗談だと思った。朝の、悪い冗談だ、と。けれど、女将の顔に、悪意の気配はなかった。からかう色も、ごまかす色もなかった。ただ、乾いた紙のように平らな、真実を告げる顔だった。だからこそ、怖かった。
美咲の指が、僕の袖を強く掴んだ。爪が、布越しに二の腕へ食い込む。
「……何、言ってんだよ、ばあさん」
健太が、一歩、詰め寄った。「昨日、俺たち五人で来ただろ。部屋に入るときも、膳も、五人分出しただろうが」
女将は、首を小さく傾げた。
「四人分でございましたよ」
と、微笑みのまま、答えた。
「お宿帳、ご覧になりますか」
帳面が、板の間の隅から差し出された。筆で書かれた、墨の黒。昨夜、祐介が代表してペンを走らせたはずの、その紙面には、僕、美咲、健太、由香里の、四人の名前しか、並んでいなかった。祐介の字は、どこにもなかった。紙の目を、指でなぞってみた。筆跡を消した痕も、削った跡も、ない。元から、そこには四人しか書かれていない、としか見えなかった。
由香里が、喉を詰まらせた声で言った。「だって、だって、あたし、昨日、祐介くんと、車で話した。助手席で、GPSの話、した……」
女将は、帳面を静かに引き寄せ、何も答えなかった。答える代わりに、鍋の蓋を取って、木べらを一度、かき混ぜた。とん、と鍋底で木べらが鳴った。その音が、ひどく現実的で、だからこそ、この場の全部が嘘のように感じられた。
僕は部屋へ駆け戻った。祐介の眼鏡と、スマホは、まだそこにあった。ある。間違いなく、ある。スマホの裏の、彼がいつも貼っていた研究室のステッカー。眼鏡のつるの、少し歪んだ留め金。どちらも、祐介の指の記憶を、そのまま残している。
けれど、リュックが、なかった。
昨夜、祐介が畳の上に置いたはずの、黒いリュック。旅行の着替えも、ノートPCも、充電器も、全部入っていた、あのリュックが、消えていた。
スニーカーを、もう一度確かめに玄関へ走った。
そこにも、なかった。
さっきまで、確かに、あった。つま先が揃っていた。
「──透」
美咲が震える声で呼んだ。廊下の先から。
玄関の上がりかまちに、新しい雑巾が、濡れたまま置かれていた。
まるで、たった今、誰かが、泥を拭き取ったかのように。
「出よう」
僕は、言った。
声が、自分のものに聞こえなかった。でも、言うしかなかった。「一度、町を出る。警察に行こう。この人の言うことは、もう、聞かない」
健太が頷いた。由香里が頷いた。美咲は、頷く前に、小さく嗚咽を漏らし、それを噛み殺すように唇を引き結んで、頷いた。
祐介の眼鏡を、僕はハンカチで包んでポケットにしまった。スマホも、充電ケーブルを引き抜いて、ジャケットの内側に押し込んだ。これだけは、置いていけなかった。これだけが、僕たちが五人でここに来たことを、証明してくれる、唯一のものだった。
女将は、玄関まで、見送りに出てきた。昨夜と、同じ微笑みで。
「いってらっしゃいませ」
と、背中を丸めて、頭を下げた。
「お帰りを、お待ちしております」
車のキーを握る健太の指が、白くなっていた。僕はレコーダーの録音ランプが、まだ赤く灯っているのを、ポケット越しに確認した。拾うべきものは、ぜんぶ、拾ったはずだった。
エンジンをかけたとき、僕は、一つだけ、気づかないふりをした。
宿の二階、昨夜僕たちが眠った部屋の障子が、わずかに開いて、その隙間から、誰かの、笑うような、目だけが、こちらを見下ろしていた。