第1話
第1話
味噌汁をひと口すすった瞬間、舌の奥に鉄錆の味が広がった。
古釘をしゃぶったような、歯茎から血がにじんだときに似た、金属の味。湯気に混じる匂いは、まぎれもない味噌と出汁のそれなのに、舌の上だけがひどく錆びていた。喉の奥に指を突っ込まれたような、生理的な拒絶が背筋を駆け上がる。飲み下した熱が、胃ではなく、胸のどこかで冷たく固まっていくのが分かった。
僕──佐倉透は、椀の底を覗き込んだ。赤茶けた味噌が沈み、刻まれた葱が浮いている。豆腐の白。油揚げの黄。見た目に異常はない。箸の先で豆腐の角を崩してみる。白い断面は、ただの絹ごしだ。ほんのわずかに、湯気が揺らいで、そこに自分の顔がゆがんで映った。眉間に皺を寄せた、見慣れない自分の顔。
「透、どうしたの。まずかった?」
向かいの美咲が箸を止めて、小さく首を傾げた。後れ毛を耳にかける指先の動きが、車を降りたときよりも、ずっと遅い。彼女もまた、どこかで違和感を抱えている、と僕は感じた。僕は「いや、うまいよ」と笑ってみせて、もうひと口すすった。二口目には、鉄錆の味は消えていた。代わりに、ごく普通の、少し塩の強い田舎味噌の味が舌に広がる。気のせい。そう片付けるしかなかった。片付けてしまわなければ、これから先の二泊が、もたない気がした。
座敷には五人分の膳が並んでいる。大学のオカルト研究会、合宿とも呼べない急ごしらえの取材旅行だ。車二台に分乗して山道を越え、夕暮れの峠を越えて、ようやくこの宿に辿り着いたのがついさっき。疲労のせいだと言われれば、そうなのかもしれなかった。運転席に六時間張りついていた背中は、いまも鉛を貼りつけたように重い。蛍光灯の白い光が、畳の縁をやけにくっきりと照らしていて、その明るさが、かえって部屋の四隅を暗く沈めているように見えた。
「しかし、本当に人が住んでたんだな、この町」
胡坐をかいた健太が、飯をかき込みながら呟いた。襖の向こうから、女将が膳を運んでくる足音が聞こえる。健太は声を落とした。
「匿名掲示板じゃ、人口ゼロの廃村だって書かれてたぞ。地図にも載ってないって」
「載ってないのは確かだよ」
助手席でずっとスマホを握っていた祐介が、眼鏡を押し上げて答える。画面の青白い光が、彼の頬の輪郭を冷たく縁取った。「三十分前から、GPSの地図が真っ白だ。ここ、行政区分としては存在しないらしい」
「でも、人は三百人いるんでしょ」
小柄な由香里が、味噌汁をちびちびすすりながら言う。「人口三百ちょうど、って女将さん言ってたよね。なんか、キリがよすぎない?」
由香里の指先が、湯呑みのふちを小さくなぞっていた。緊張しているときの、彼女の癖だ。僕はポケットから小型のICレコーダーを取り出して、膳の脇にそっと立てた。録音ランプが赤く灯る。オカ研の鉄則だ。「怪異は、後で確認する」。人の耳は、その場では当てにならない。恐怖は感覚をゆがめるし、安堵はもっとゆがめる。機械だけが、そこにあったものを、そのまま残してくれる。
「記録、回してるから。念のため」
祐介が笑って「相変わらず慎重だな、部長」と言った。僕は部長ではない。ただ、一番言い出しっぺだから、そう呼ばれることが多い。笑い返したつもりだったが、頬の筋肉が、思っていた場所で止まった気がした。口の端が、意思に逆らってわずかにひきつる。自分の顔が、自分の指示通りに動かない。その感覚の居心地の悪さが、胸の奥にねっとりと残った。
都市伝説──「帰れない町」。匿名掲示板で、ここ数年、一年に一度、決まった時期だけ立つスレ。山間の寒村に行った者が、一人、また一人と消えていく。警察に訴えても「そんな町はない」と返される。全部、ただの創作だと思っていた。経度と緯度の数字が、妙に具体的な点を除いては。その座標を地図アプリに打ち込んだとき、山肌の途中、道もない等高線の中央に、赤いピンがぽつんと落ちた。その違和感だけが、僕をここまで引きずってきた。
「でも、拍子抜けしちゃったな」
美咲が苦笑した。「女将さん、めちゃくちゃ優しいし、料理もおいしいし。怪しいのって、スマホの電波くらいだよ」
確かに、女将は穏やかだった。僕たちが車を停めて宿の玄関に立ったとき、彼女は何も訊かずに「お待ちしておりました」と頭を下げた。予約はしていない。それでも彼女は、五人分の膳を手際よく整えて、何事もなかったように微笑んでみせた。人数を確かめもしなかった。五つの湯呑み、五膳の箸、五椀の汁。まるで、今日この時間に、この人数で、僕たちが来ることを、最初から知っていたように。
その微笑みを思い出したとき、僕の背中を、すっと冷たいものが撫でていった。うなじの産毛が、逆立つように起き上がる。
──お待ちしておりました。
僕たちは、誰からも予約を入れていない。
湯呑みを持つ指先が、かすかに震えた。湯呑みの縁が、下唇の内側をちりっと焼いた。
健太と祐介が、釣りの話か何かで笑い合っている。由香里が漬物に箸を伸ばす。かりっ、と歯を立てる小さな音が、異様に大きく耳に届いた。美咲が、ふと僕を見た。目が合った。彼女は何も言わなかった。だが、僕が感じているものと、同じ冷たさを、彼女も感じ取っているようだった。瞳の奥が、わずかに揺れている。言葉にしてしまえば、それが現実になってしまう。二人とも、そのことを分かっていた。
そのとき、だった。
からん。
下駄の音が、聞こえた。
宿の外、板塀に沿った細い路地の方から。
からん。からん。
誰かが、歩いてくる。ゆっくりと、丁寧に、石畳を一歩ずつ踏みしめるように。この宿の窓の下、まさに障子一枚を隔てた路地を、こちらへ向かって。足音の間隔は、人のそれにしては、わずかに長すぎた。一歩ごとに、何かを確かめるような、躊躇うような、ほんのわずかな間がある。歩幅も、奇妙に揃いすぎていた。定規で測ったような等間隔で、からん、と鳴っては、ふっ、と息を呑むような沈黙が挟まる。その沈黙の長さが、いつも同じだった。
「……誰か、来たのかな」
美咲が小声で言った。健太と祐介の笑い声が、ふと止まる。笑いの余韻を残したまま口角だけが引きつった、奇妙に歪んだ顔。由香里の箸が、宙に浮いたまま、固まった。漬物のかけらが、箸先から、ぽとり、と膳に落ちた。
からん。からん。からん。
近い。もう、すぐそこだ。
僕は障子を見つめた。薄黄色に染まった障子紙の向こうに、人影が立つ気配があった。すりガラス越しに透ける頭の輪郭、ほどには見えない。だが、確かに、何かが、そこにいる。障子の下の方、畳との境目のあたりに、淡い影がにじんでいる。足の形にも、見えた。
からん。
ぴたり、と音が止まった。
障子の、真ん前で。
湯気の立つ椀が、一斉に静まり返った。柱時計の針の音までが、どこかへ引っ込んだようだった。誰も、動かない。誰も、息をしない。自分の心臓の音だけが、こめかみの裏で、太鼓のように鳴っていた。
僕はレコーダーに目を落とした。
手の甲が、ざわりと粟立った。
レベルメーターのLEDが、──振り切れていた。
赤い帯が、端から端まで満たされている。何かの音を、激しく拾っている。だが、座敷は、痛いほど静かだった。風の音さえ、しなかった。襖の外、廊下の先、台所の方からも、物音は一切しない。女将が膳を運んでいたはずの足音すら、いつのまにか、消えていた。
なのに、機械だけが、叫んでいる。
「と、透」
美咲が、唇だけで僕を呼んだ。声にならない声だった。瞳に、涙の膜が張りつつあった。
障子の向こうで、ゆっくりと、何かが、息を吸う音が聞こえた。
湿った、粘つくような、長い、長い息だった。人の肺には、入りきらないほどの長さだった。吸って、吸って、まだ吸っている。喉の奥で、痰がからむような、低い、ぞりぞりとした音が混じっていた。
僕は椀を置いた。指先の震えが、もう止まらなかった。卓に触れた椀の底が、かたかたと小さく鳴り、それがまた、自分の震えを増幅させた。
ひとつだけ、分かったことがある。
匿名掲示板のスレッドは、創作ではなかった。
僕たちは、帰れない町に、踏み込んでしまった。
障子の向こうで、何かが、笑った気がした。