第3話
第3話
配給の列は、ゆっくりと進んだ。
前の老人が、毛布の端を引きずって一歩、また一歩。乾いた咳が、広間の石壁に跳ね返る。私は、十二人目だった。毛布を肩に掛け、両腕を自分の体に巻きつけて、震える女の形を崩さない。掌の指先が、自分の二の腕に食い込んで、皮膚の下で血が痺れていた。
壁のランプが、額の汗を橙色に照らす。発電機のうなりは、心臓の一段下で脈を刻む、もう一つの鼓動のようだった。吸う息に、消毒液と、湿った毛布と、饐えた肉の名残が混じっている。さっきまで外にあった甘い腐臭は、薄い布一枚のうしろに、まだ、貼りついている。
配給台は、奥の壁際に据えられていた。板を並べただけの長机。その上に、缶詰の山と、水のタンク、薬包。仕切りの向こうで、透が──いや、透と、若い男が二人、手際よく分けている。透は、袖を肘までまくり、腕時計の金具だけが、橙の光を跳ね返していた。私と一緒に暮らした三年のあいだ、彼は、左腕のこの位置に、同じ傷を持っていた。料理中にオーブンで焼いた、浅い、三日月の痕。今、それは、変わらずそこにある。あの夜、氷で冷やした白い布を、私が、この腕に巻きつけてやったのだ。布の端を、指先で撫でて結んだ、その感触まで、体が、鮮明に覚えている。覚えている、のに、桟橋で目覚めてからの数時間の記憶は、黒く、塗り潰されたまま、戻らない。
視線を落とす。
膝を抱えた私の、右手の指が、何かを、握っていた。
握っている、と気づいたのは、指の付け根の関節が、鈍く痛んだからだった。長く、強く、握り続けた、あの痛み方だった。気づかないまま、ずっと、握っていた。
そっと、指を開く。
掌の真ん中に、鉄の鍵が、一本、あった。
長さは、人差し指ほど。柄には、擦り切れた紐が結ばれている。先端は、古い十字の形に切ってあり、金属の表面には、潮に焼かれた緑青が、うっすらと、霜のように張りついていた。柄の一面に、刻印があった。指先で、汗を拭って、近づける。握りしめていた紋様が、鉄の面に、汗と脂の跡で、指紋の形に、黒く残っていた。鍵は、思ったより、重たい。手首の細い骨が、その重さを、今、ようやく、自覚する。先端の緑青を、親指の腹で、そっと擦る。ざり、と、粉のような錆が、指の皮に、移った。
『──海軍 第三坑道』
息が、止まった。
旧海軍の、トンネル。透が、ワインを揺らしながら、地図の上で指先を滑らせた、あの、島の北側の崖下。戦争が終わる前に掘られ、終わったあとに塞がれた、坑道。「観光地にならないのは、入口が全部、封鎖されてるからさ」と、彼は笑った。「──たった一本を、除いて」と、そのあと、付け足したのを、覚えている。覚えている、ということが、今の私には、奇跡のように思えた。
この鍵が、なぜ、私の手に。
掌の中の鉄は、体温で、とっくに温まっていた。桟橋で目覚めて、ここへ来るまで、私は気づきもせずに、この鍵を、握り続けていた。指の腹に残った紐の跡、痣のような赤い線が、握っていた時間の長さを、無言で示している。
<parameter>記憶はない。指が、覚えていた。</parameter>
意識より先に、指が、これを掴んでいた。桟橋で目覚める前の、私。崖から落ちた私と、桟橋の板の上で目覚めた私。あいだに、まだ、一人、いる。濡れた服を海から引き上げ、どこかの暗がりで、この鍵を拾い、紐を手首に巻きつけ、そして、記憶だけを、海の底へ、置き忘れてきた、私。
喉元の噛み痕が、じくりと、疼いた。
透の視線が、また、こちらへ滑ってくる気配があった。掌を、閉じる。鍵を、握り込む。毛布の下で、膝のあいだに押し込み、腿と腿で、挟んで、隠した。動作は、緩慢に。震える指を震えるままにして、毛布の端を引き寄せる動作と、鍵を挟む動作を、一つに、重ねた。──自然に、見えただろうか。心臓が、胸の奥で、一度、大きく跳ねた。その音が、広間の石壁に、聞こえてしまうのではないか、という、馬鹿げた恐怖が、ほんの一瞬、喉を掠めた。
顔を上げる。
透は、美緒の分の水を、丁寧に、紙コップに注いでいた。私を、見ていない。若い男のほうが、列の動きを監視している。私は、毛布の端で、口元を覆った。覆った唇の内側で、ゆっくりと、息を、整える。
「──次」
若い男の声が、短く飛ぶ。老人が、ひと足、進んだ。
私の番までは、まだ、九人。
考えろ、と、自分に命じた。
この鍵を、透は、知っているのか。
知っている、と仮定しよう。
なら、落ちた私の所持品を、探したはずだ。服のポケット、握りしめた拳、もしくは首の紐。見つからなかったから、今、私の手の中に、ある。──つまり、彼は、海に落ちた私が、この鍵を持っていた、ことを、知らない。
知らない、と仮定しよう。
なら、なぜ、私はこれを、持っていたのか。
落ちる前の、あの夜。会社の役員室、個室のレストラン、その前の、彼のマンションの書斎。私は、三年間で、一度だけ、彼が金庫を開ける背中を盗み見たことがある。書斎の、革張りの椅子の背越しに、金庫の扉が、音もなく開いた、あの夜。暖炉の薪が、爆ぜて、オレンジの火の粉が、短く、天井の梁へ散った。透は、私が寝ていると、思っていたのだ。私は、毛布の下から、薄く開けた瞼の隙間で、彼の肩の動きを、息を殺して、盗み見ていた。開けた瞬間、並んでいた書類と、封筒の束。そして、一番奥に、小さな革の箱。箱の中身を、私は見ていない。けれど、今、掌の中の鉄の重さが、あの箱に、こんな鍵が、入っていても、おかしくはない、と、囁いた。
私は、盗んだのかも、しれない。
自分が、会社の金を横領した、と、役員会で、突きつけられる、その前に。背筋の皮膚が、薄く、粟立った。盗んだ、から、押されたのか。押される、と知っていたから、盗んだのか。どちらでも、良かった。重要なのは、今、この鍵が、私の手の中にあり、透が、それを、知らない、ということだ。
鍵を、握る指に、力が、戻ってきた。
震えは、まだ、続けていた。唇の噛み方も、毛布の引き寄せ方も、記憶のない怯えた女のまま。ただ、膝の内側で握った鉄の温度だけが、私の、本当の体温を、少しずつ、取り戻していく。ここは透の島。けれど、彼が封鎖した島に、彼の知らない扉が、一つ、ある。私だけが、開けられる、扉が。
──次。
老人が、また、一歩進んだ。列が、短くなる。
視線を、広間の隅の、高窓へ、逃がした。地下といっても、半ば地上に突き出た造りで、天井近くに、細長い採光窓が、並んでいる。夜明け前の霧が、磨りガラス越しに、青白く、滲んでいた。窓の外は、石畳の中庭で、ときおり、見張りの誰かが通る、と透は言っていた。
その、磨りガラスの向こう。
人影が、一つ、立っていた。
細い。肩幅が、狭い。毛布も、コートも羽織っていない。立ち方が、見張りの、緊張した歩哨のそれではない。こちらを、じっと、見ている──そう、感じた。ガラスに顔を寄せるように、上半身が、少し、傾いでいる。私は、息を止めた。老人がまた、一歩進み、列が、動く。私の視線は、影に、縫い止められて、動かなかった。霧と磨りガラスの、二枚の白を重ねた向こうで、影は、男のようでも、女のようでも、あった。背の高さも、低さも、霧の厚みに呑まれて、定まらない。ただ、人が、一人、そこに立っている、という事実だけが、冷えた針の先のように、こちらの胸の内側を、ひたと指していた。
その、輪郭が。
音もなく、滑るように、右へ、消えた。
走って逃げたのではない。足音は、届かなかった。石畳を蹴る、あの、革靴の音も、ぺたぺたと湿った裸足の音も、一つも、しない。ただ、ガラスの中の青白い光の上を、煙のように、横へ流れて、磨りガラスの縁の外へ、消えた。
誰にも、見えていない、らしかった。透は、美緒の髪を、梳くように撫でていた。若い男は、手元の帳面に、目を落としていた。老人の咳が、ゆるやかに、広間の天井へ、上がっていった。
握った鍵が、掌の中で、静かに、震えた。私の震えか、鍵の震えか。分からなかった。磨りガラスの向こうで、影の消えた場所に、青白い光だけが、何事もなかったように、戻っている。
──次。
私の、番だった。