第2話
第2話
扉が、内側に数センチだけ、傾いた。
隙間から、霧の乳白色が舌のように伸びてきた。冷気と一緒に、あの甘い腐臭が、濃くなって鼻腔を抉る。私は、とっさに、壁の文字から背中を離した。膝を抱え、床に崩れる。自分の体が、小さく見えるように。震えて、見えるように。
咄嗟に、そうした。
なぜそうしたのか、分からない。ただ、立って透の目を見ては、いけない、と背骨のどこかが叫んだ。海に落ちた女が、膝を抱えもせず、壁の文字を睨んで立っていた──そんな姿を、彼に、見せてはいけない。頭より先に、皮膚が、そう決めた。
扉の向こうから、先に、乾いた銃声が響いた。
二発。薄い、湿った音。続けて、ぐしゃり、と、水を含んだ袋が石に落ちるような音。湿った足音が、消えた。ひゅー、という呼吸が、途中で、途切れた。霧の中で、何かが、ずるずると引き摺られていく。その気配は、やがて、石畳の継ぎ目の先で、ふっと、途絶えた。
「──遅かったか」
透の声が、扉の隙間から漏れて、私の耳の奥を撫でた。三年間、毎朝、枕元で聞いた声だった。目覚めた私に「おはよう」と囁く、あの、少しだけ掠れた低さ。今、それが、夜明け前の廃ホテルのロビーに、滑り込んでくる。抑揚の置き方、語尾の落とし方、どれも、寝室の天井の下で聞いたものと、同じだった。同じ、ということが、こんなに、怖い。
革靴が、床のガラスを踏んだ。ゆっくりと、私の方へ近づいてくる。一歩ごとに、ガラス片の砕ける、薄く、乾いた音。焦らない歩幅。獲物が、逃げない、と知っている足取りだった。
「生存者か」
彼が、呟いた。
私は、顔を上げなかった。抱えた膝に額を押しつけ、肩を震わせる。歯の根を、わざと、音が鳴るまで噛み合わせた。息を、荒くする。吸って、吐いて、吸って、吐いて。泣いている、怯えている、記憶が、ない。そういう、女を。額に押しつけた膝頭が、冷たかった。冷たい、と感じる自分の皮膚を、少し遠くから眺めた。
革靴が、目の前で止まった。
「──顔を、見せて」
穏やかな声だった。三年前、指輪の箱を差し出したときの、あの声と、同じだった。あの夜、レストランの個室で、蝋燭の炎が揺れていた。その揺れの中で、彼は、まったく、同じ響きで、私の名前を呼んだ。
私は、顔を上げた。
視界が、滲んだ。涙の膜の向こうで、彼の顔が揺れる。黒いコート、革のホルスター、右手に握られた拳銃。そこから、まだ白い煙が細く立ち上っている。煙は、彼の頬の線をなぞって、天井へ消えた。火薬の匂いと、彼の整髪料の匂いが、混じって、鼻の奥に届く。整髪料は、三年間、寝室の枕で嗅いだものと、同じ銘柄だった。
透の眉が、一瞬、歪んだ。
驚いた顔、だった。けれど、その驚きは、海面に落ちる直前の私を見ていたときの、あの満足に染まった笑みとは──違った。見知らぬ女を見る、驚きだった。見覚えがある、という、ひとかけらの揺らぎすら、彼の瞳にはない。
覚えていない。
頭の芯が、冷たく、澄んだ。
「……こ、こ、は」
掠れた声で、私は呟いた。自分の名前すら、舌の上にのぼってこない、そういう女のふりをして。実際、声は本当に震えていた。演技が、体の震えに、追いつけないくらい。舌の根が、塩と血の味で、ざらついていた。
透は、膝を折った。床のガラスの上に片膝を突き、私と目線を合わせる。銃をホルスターに戻す、革の擦れる乾いた音。彼の手が、ゆっくりと、私の肩に伸びた。一秒、一秒が、ひどく長かった。その一秒ごとに、私の中の「妻」が、薄い皮膚の下へ、沈んでいく。
「大丈夫。もう、大丈夫だよ」
掌が、肩に触れた。温かかった。三年間の温かさと、寸分違わない温度だった。崖で私の背を押した、あの、温かさ。皮膚の下で、悲鳴のような痺れが走った。けれど、私は、その掌に、弱々しくもたれる角度を選んだ。逃げない。甘える。記憶のない女が、最初に見つけた、温かい、男の手のひらに。
「名前は」
「──分かり、ません」
「記憶は」
「ない、です。気づいたら、桟橋で──」
透は、頷いた。憐れむように、眉を下げて。役員室で「信じている」と呟いたときと、同じ眉の角度だった。角度まで、覚えている自分が、怖い。覚えているから、生き延びられる、と、同時に思った。
「立てるかい」
差し出された手を、私は取った。指先が触れた瞬間、皮膚の下で、血が一斉に逆流するような痺れが走る。この指に、私は突かれた。この指と、指を絡めて、眠った。この指に、指輪を嵌められた。今、薬指には、何もない。日焼けの輪すら、ない。海が、きれいに、洗い流したのだ。三年間を、一晩で。
「上は、もう危ない。地下の広間に、仲間がいる」
透は、私の腰に、軽く手を添えた。転ばないように、という、紳士の手つきで。私は、その手の位置を、皮膚の下で測った。肋骨から、指三本分、下。崖で背を押されたときの、掌の位置と、同じだった。
ロビーの奥、崩れた螺旋階段の脇に、業務用の扉があった。鍵穴に、彼は慣れた手つきで鍵を差し込む。内側から軋んだ音がして、扉が呑気なほど滑らかに開いた。最近、誰かが油を差した扉だった。蝶番の銀色が、他の錆びた金具と、あまりに違う。この廃ホテルは、廃ホテルの顔をした、誰かの、家だ。
階段を降りる。
壁のランプが、点々と、オレンジの光を落としていた。発電機の音が、地底から脈のように響いてくる。空気が、乾いた布と消毒液と、人の体温の匂いに、段々と変わっていく。一段降りるごとに、上の霧の甘さが、薄まっていく。代わりに、石と、鉄と、古い血の気配が、濃くなる。透の手は、私の腰から、離れない。
広間の扉が開いた瞬間、十数人の視線が、一斉に私に刺さった。
疲れきった顔、顔、顔。毛布を被った老人、赤い目の女、壁にもたれた若い男。全員が、息を詰めて、私を見ていた。新入りを見る目ではない。新しい獲物を値踏みする、目だった。その中に、一人だけ、白い影があった。
令嬢、と直感した。
彼女は、奥のソファに座っていた。灰色の毛布の山の中で、彼女だけが、なぜか糊の効いた白いブラウスを着ている。髪も、梳かされている。頬は血色を失っているのに、唇だけが、薄く紅を乗せたように赤かった。年齢は、二十歳そこそこ。透より、一回り以上、若い。
彼女が、私を見て、眉を寄せた。
「……透様、その方は」
透、様。
その呼び方に、耳の奥で、古い鐘が鳴った。私は三年間、彼を一度も「様」とは呼ばなかった。彼が、嫌がったからだ。堅苦しいのは好まない、と。君と僕で、いい、と。
透は、私の腰から手を離した。離すと同時に、自然な歩幅で、令嬢のもとへ歩いていく。彼女が立ち上がろうとして、よろける。透は、腕を広げて、その細い体を受け止めた。受け止めながら、彼女の背に掌を置いた。
肋骨から、指三本分、下。
全く、同じ位置だった。
指の幅も、角度も、力の抜き方も、何もかもが。私の背に触れた掌と、美緒の背を支える掌は、同じ設計図から生まれた、双子の仕草だった。
「怖がらないで、美緒(みお)。桟橋で見つけた、記憶喪失の生存者だ。害はない」
害は、ない。
透は、美緒の髪を、梳くように撫でた。三年間、私にそうしてきた仕草で。美緒は、彼の胸に顔を埋めた。透は、細い肩を掌で覆うように抱き寄せる。その顔は、守護者の顔だった。年下の婚約者を、化け物の島から連れて帰るために自分を捨てる、誠実な、男の、顔。
私は、壁際に立ち尽くして、その横顔を、見ていた。
見ながら、ゆっくりと息を吐いた。震える唇を噛んで。怯えた女の、目で。舌の裏に、鉄の味が滲む。噛みすぎた。けれど、噛みすぎた、ということが、今の私には、ちょうどいい。怯えた女の唇は、噛みすぎるくらいで、ようやく、本物に見える。
透が、美緒の肩越しに、顔を上げた。
視線が、私の方に、戻ってくる。
頬から、首へ。
止まった。
私の、喉元で。
噛み痕の、上で。
彼の瞳の、一番奥。灯が、静かに、一段、下がった。崖の上で私を突き落とす、直前の、あの、満足の前に落ちた灯と、同じ落ち方だった。ほんの、一秒。いや、半秒。まばたきの、半分。透は、すぐに視線を美緒の髪へ戻し、何事もなかったように、その額に唇を寄せた。
気づかれた、のか。
それとも、見覚えのある歯形、なのか。
誰かに、背を押された。配給の列に並べ、と。私は、毛布の山の最後尾へ、足を引きずって歩いた。歩きながら、視界の隅で、透の視線が、周期的に、私の喉元で止まるのを──数えていた。
三度。
彼が美緒の髪を撫でるたびに、三度、透は私の噛み痕を、盗み見た。
覚えていない、のではない。
思い出せない、でもない。
彼は、あの歯形を、知っている。