第1話
第1話
舌の先で、鉄の味が弾けた。
潮の味と一緒に、血の粒が唇の端で乾いてへばりついている。頬に押し付けられた板は湿って冷たく、朽ちた木の繊維が皮膚を刺してきた。桟橋だ、と、体のほうが先に分かった。指先で板をなぞると、木目の割れ目に、黒く変色した苔が詰まっている。
ゆっくりと身を起こす。首筋が、じくりと痛んだ。指先で触れると、皮膚が二点、えぐれている。円弧を描くように並んだ、歯の跡。人間の、歯の跡だった。
「──嘘でしょ」
声は掠れて、空気を擦っただけだった。代わりに出たのは、自分の呼吸の白さだった。夜明け前の海は、息が白くなるほど冷えている。指先で噛み跡を押すと、血の代わりに、透明な水のようなものが、じわりと傷口に湧いた。何か、違う。普通の傷じゃない。
左手を見た。薬指の付け根に、指輪の跡だけが輪になって残っている。肌がそこだけ日に焼けず、蝋のように白い。外されたのか、自分で外したのか。どちらにせよ、「あったはずのもの」が、今はない。
霧が、厚い。桟橋の向こうは乳白色で塗りつぶされ、十メートル先の岸すら見えなかった。打ち寄せる波の音だけが、規則正しく板の下で鳴っている。磯の匂いに、別のものが混ざっていた。甘く、饐えたような──肉が腐る匂いだ、と頭の片隅で誰かが囁く。なぜ私はそれを、知っている。
ずる。
霧の奥で、何かが引きずられた。
足を、引きずっているのだった。ぺた、ぺた、と裸足のような湿った音と、板を擦る重たい音。そして、ひゅー、ひゅー、と──息の音。
私は、息を止めた。
立ち上がった膝が笑った。腿の筋肉に、走り出す力が残っていない。いつから、ここにいた。どうやって、ここへ来た。頭の中は、白い綿を詰めたように、空白だった。
──名前は。
自分の名前すら、舌の上にのぼってこない。喉の奥で、「わたし」という曖昧な輪郭だけが、痺れるように震えている。
ずる、ぺた、と、もう一歩、近づいた。
走った。
靴底が桟橋を蹴るたびに、板が軋んで跳ねる。背後で、湿った息が呼吸を合わせるように速くなった。追いかけてくる。霧の中を、見えないものが追いかけてくる。肺の底で、冷たい空気が刃のように折れた。走るほど、遠くなるのではなく、近づいてくる。何かが距離を盗んでいる、という奇妙な確信だけが、背骨を走った。
桟橋の先に、黒い塊が見えた。古い洋館めいた輪郭が、霧の中で骨のように浮かんでいる。ガラスの割れた窓、剥がれた壁、錆びた看板。近づくにつれ、文字が読めた。
『Hotel ──』
後半は、塗料が剥げて判読できない。けれど、桟橋から真っ直ぐに続く石畳、両脇に残る街灯の支柱、港の外れに沈む古い防波堤の輪郭──この配置を、私は知っている。知っているのに、思い出せない。
観音開きの扉を肩で押した。錆びた蝶番が悲鳴を上げ、内側に傾いた扉の隙間に、私は身を滑り込ませる。背中で扉を押し戻す。床の埃が舞って、肺に入り、咳が出た。咳の残響が、広いロビーに、いくつも返ってくる。
暗い。
窓の位置だけが、辛うじて輝度の違う長方形として浮かんでいた。シャンデリアは墜落して床に転がり、ガラスの破片が足元で月のかけらのように光る。受付カウンターには、埃に埋もれた鍵の束。壁紙は剥がれ、黒いしみが、天井から垂れた血の形に固まっていた。
ここに、来たことがある。
記憶と呼べないほど薄い残光が、目の奥で瞬いた。誰かと、夏に。白いワンピースを着て、笑いながら、この階段を昇った。手を引いてくれた相手の指は、細くて、冷たくて、薬指に、私と揃いの指輪を嵌めていた。
──それだけ。それ以上は、出てこない。
壁際に寄って、私は止まった。剥がれた壁紙の下の、石灰の白い面。そこに、何かが刻まれていた。爪で。肉が剥がれるほど強い力で、ひっかいて彫りつけたような、深い溝。
『裏切り者を喰らえ』
指先が、文字をなぞった。爪の欠片が一つ、溝の中に残っている。爪は、黒く乾いていた。誰のものか。──自分のものか、と思った瞬間、指がひとりでに引っ込んだ。自分の右手の、人差し指。その爪が、根元から割れて、欠けていた。
心臓が、肋骨を内側から叩いた。
「──透(とおる)」
口が、勝手にその名前を呼んだ。
思い出した。途端に、膝が床に落ちた。
透。私の、婚約者。あの夜、私は崖の上にいた。会社の金を横領したことにされ、証拠は全て揃えられていた。通帳の写し、偽造された署名、使途不明金の振込記録。一枚ずつ役員たちの前に広げながら、透は眉を下げて、痛ましげに私の名を呼んだ。ユミ、と。三年間、毎朝聞いてきた響きが、あの瞬間だけ、別の生き物の鳴き声のように、耳の奥で歪んだ。涙ながらに「信じている」と呟いた透の手が、私の背中を押した。下は、黒い海だった。月のない夜で、潮の匂いだけが服の繊維まで染み込んでくる。コートの裾が風で音を立ててはためき、靴底の下では、濡れた草が滑った。風の音で、自分の悲鳴が聞こえなかった。落ちていく間、時間は妙に静かで、そして、長かった。海面に叩きつけられる寸前まで、私は透の顔を見ていた。
彼は、笑っていた。
口の端が、ゆっくりと持ち上がっていた。役員室で私の名を呼んだときの痛ましげな顔とは、まったく別の顔だった。瞳の奥に、灯が静かに落ちていくときのような満足が、揺れていた。──終わった、という顔。私の背を押した掌の感触が、今も肩甲骨の間に残っている。温かかった。温かいまま、私を夜の空へ突き出した、あの手の温度。
そして、ここ。
ここは、透の一族が所有する島だった。戦前に海軍が使っていた療養施設を、祖父の代に買い取ったという、あの島。普段は無人で、潮流が激しく、航路が立たない──「封鎖島」と、彼は笑いながら言っていた。観光地にもならず、漁師も近寄らない。ワインを傾けながら、彼は地図上のその小さな点を指先で撫でていた。二人だけの聖地だよ、と。結婚式はここでやろう、誰にも邪魔されずに、と。
邪魔されずに、殺すには、最適だった、ということ。
壁の文字が、別の意味を持って、網膜に焼きついた。裏切り者は誰だ。私か。透か。それとも、爪で彫りつけた、名も知らぬ誰かか。
カチン。
硬質な音が、背後で鳴った。薄く、乾いた、金属が金属に落ちる音。
振り返る。入ってきたはずの正面扉、その内側の掛け金が──錆びた鉄の錠が──落ちていた。誰もいない。私以外、誰もいない。なのに、独りでに錠が落ちた。
閉じ込められた。
指が震えた。あれは風ではない。風で錆びた掛け金が持ち上がり、それから落ちる。そんな偶然は、ない。誰かが、外から、掛けた。
扉に駆け寄って、取っ手を引いた。動かない。体重をかけても、微動だにしない。外側で、金属が噛み合って止まっている感触だけが、掌に伝わってくる。木の繊維を通して、外の冷気が、じわりと指先を凍らせた。
「──開けて」
声を振り絞った瞬間、気づいた。
扉の、外。
さっきまで霧の中で私を追っていた、あの、ずる、ぺた、という湿った足音が、扉の向こう側で、止まっている。呼吸音が、木の扉一枚を隔てて、聞こえる。ひゅー、ひゅー、と、腐った肺を震わせるような、浅い息。喉の奥で、どろりと何かが転がる音が混ざっている。生きた人間の呼吸では、ない。
そして、その足音に重ならない、もう一つの音。
こつ、こつ、と、乾いた靴音が、石畳を踏んで近づいてくる。ゾンビのそれではない。生きた人間の、歩調の整った、革靴の音。
二人、いる。
革靴が止まった。扉の、すぐ外で。
「──まだ、生きているのか」
低い声だった。木の扉を震わせて届く、懐かしく、そして、ぞっとするほど穏やかな声。透だった。
湿った足音がその声に反応するように、扉を、どん、と殴った。私は息を飲んで後ずさる。壁に背中がぶつかって、ようやく止まった。背骨が石灰の文字の溝に食い込み、乾いた粉が、首筋の汗と混じって、背中を滑り落ちる。指先が、刻まれた文字の溝を撫でる。『裏切り者を喰らえ』。爪の欠片が、そこに、ある。私の爪が。
つまり、この文字を刻んだのは──私だ。
いつ。何を、裏切った。
冷たい汗が、こめかみを滑った。透は、まだ、私を殺していない。殺せなかったのか、それとも、殺したつもりで、今これから、確認しに来たのか。
「開けるよ」
彼の声が、優しく、囁いた。三年間、朝の寝室で私の髪を撫でたときと、寸分違わぬ声だった。錆びた掛け金が、外側から、引き上げられる音がした。