第3話
第3話
雨が、強くなる。
メーターは二百を超えたまま、針が震えている。
翔太は後方上空から振り返り、助手席に身を戻した。雨粒が、開けたままの窓から頬に斜めに刺さる。シートベルトのフックに、親指が触れた。まだ、留め金には届いていない。
「答えろ」
短く言った。
「何を」
「答える前に距離を、と言った。距離は、十分稼がせた」
灯の視線は、前方から動かない。ワイパーが、雨の縞を二度、三度と払う。
「二百で走ってる車の中で、身の上話を聞く気?」
「二百で走ってる車の中じゃないと、聞けない気がしてる」
灯の頬が、一度だけ動いた。笑ったのか、歯を噛んだのか、翔太には分からなかった。
「兄は、三上隆」
静かな声だった。エンジン音より、雨音より、低い。
「半年前、新木場の倉庫で殺された」
「——知っている」
「知ってた。その上で、助けられなかった」
灯の左の指が、ハンドルを一瞬強く握り直した。爪の色が、白くなる。
翔太は、黙った。
新木場の倉庫。半年前、情報屋の三上が「明日、全部話す」と言った翌朝、遺体で発見された。首の後ろに二発。現場に居合わせられなかった理由は、あの夜、翔太に偽の呼び出しが入ったからだった。偽の、上からの呼び出し。動かせない、と言われれば動かせない、符号付きの呼び出し。
「あの夜、俺は」
「分かってる」
灯が遮った。
「あんたを嵌めたのと、兄を殺したのは、同じ連中。私は、三日かけて、その符号を追った」
「三日」
「兄が死んでから、半年。あんたが嵌められてから、三日。私が必要としてた『証人』は、三日前まで墨田署にいて、今、助手席に乗ってる」
【展開】
バックミラーの中で、高架上から降下してきた四つの影が、既に地上の車両に合流していた。セダン三、バイク三、そして新手の黒いワンボックスが、一台。
「数が増えた」
翔太が言った。
声に、自分でも気づかなかった乾きが混じっていた。喉の奥に、火薬の匂いの残りがまだあった。三日前、嵌められたあの夜から、唾を飲み下すたびに同じ匂いが戻ってくる。
「増やしてくる。ここで潰せば、手札が減る」
「潰せるのか」
「二人なら、潰せる」
灯は言い切った。迷いのない言い切り方が、翔太の胃の底を、一瞬冷やした。
冷やしたのと同時に、別のものも、底の方で動いた。十年前、まだ何も嵌められていなかった頃の、自分の言い切り方に、よく似ていた。
「お前、兄のために俺を使うのか」
「使う。隠さない」
「利用された側は、たいてい最後に撃たれる」
「撃たれる時は、一緒に撃たれてあげる」
冗談ではない口調だった。冗談でない口調で、そう言える人間が、十年の刑事人生で、何人いただろうか。
指折り数える前に、答えは出ていた。一人もいなかった。
翔太は、助手席のグリップから右手を離した。銃を、膝の上に置いた。黒い樹脂が、雨に濡れたジーンズの繊維を潰す。冷えた金属の感触が、太腿の内側に、薄く伝わってくる。
「兄は、何を掴んでいた」
「警察と政治と、金の流れ。その結び目の名前を、十二個」
「十二個」
数字を、口の中で繰り返した。十二。多すぎず、少なすぎず、組織を畳むのに、ちょうど致命的な数だった。
「兄のノートに、残ってる。暗号で」
「ノートは」
「私の部屋の、床下」
「無事なのか」
「無事かどうかを、今夜、確かめに戻る」
灯はハンドルを、右に切った。
車体が、反対車線側の白線を踏む。タイヤが雨を切り裂く音。スリップ寸前のサイドの軋みが、シートの底から尾骨に伝わる。
後方、バイクの一台が、同じラインをなぞって追ってきた。雨の中で、ヘッドライトが、こちらの尻尾に食らいついてくる。
「ベルト、締めて」
灯が言った。
「まだ、答えを全部聞いていない」
「死ぬ前に聞きたいなら、生き延びて」
翔太は、留め金に手を伸ばした。指先が、金属のバックルを掴む。一瞬、躊躇した。助手席のベルトを締める動作は、この女を信じる動作だった。
信じる、という単語を、ここ三日、自分の中から完全に追放したはずだった。追放した単語が、指先で、留め金の重さとして戻ってきた。
カチ、と留め金が嵌まった。
灯の頬が、また一度、動いた。今度は、笑ったと分かった。
「信じるのか」
「信じない」
翔太は前方を見たまま、答えた。
「信じないが、降りない。降りる方が、死ぬ確率が高い」
「十分」
灯は短く言って、アクセルを踏み抜いた。
【転機】
前方、分岐の標識。ベイブリッジ方向と、羽田方向の二又。
雨の粒が、緑の標識板の文字を、にじませて読みにくくしている。翔太の網膜の中で、二つの矢印が、雨の膜の向こうで震えていた。
灯は、羽田方向のラインを取った。取ったと見せて、分岐の直前で、ハンドルを右に戻した。
タイヤが横に流れ、車体の重心が、助手席側に大きく傾く。翔太の肩が、ドアの内張に押しつけられた。締めたばかりのシートベルトが、首の付け根に食い込む。痛みより先に、ベルトを締めておいてよかった、という冷たい確信だけが残った。
ベイブリッジ方向の、閉鎖ゲート。「工事中」の赤いバリケードが、三つ。
灯は、そのままバリケードの中央を、正面から割った。
プラスチックの破片が、フロントガラスに跳ねる。翔太の視界が、一瞬、赤く染まる。ワイパーが、赤い破片を左右に払い落とした。一枚だけ、ワイパーの根元に挟まった破片が、視界の右端で震え続けていた。
追跡車両は、ベイブリッジの閉鎖を知らない。最後尾のワンボックスは、羽田方向へ流れていった。セダン二台と、バイク三台が、灯たちを追ってバリケードを割った。
ゲートを抜けた先、工事区画の本線。鉄骨のコンテナが、左右に積まれている。片側一車線、路面は掘り返されて、鉄板が仮設されている。鉄板の継ぎ目を踏むたび、車体が短く跳ね、サスペンションが鈍く呻いた。
灯は、減速しなかった。
横顔の、口角だけが、わずかに上がっていた。減速しないと決めた人間の顔だった。翔太は、その顔を、見覚えのある角度で記憶した。十年前、まだ嵌められていなかった頃、鏡の中で、自分が同じ角度で笑っていたことがあった。
「ここで、最初の一発を撃てる」
灯が言った。
「どこを撃つ」
「先頭のバイク。あと、三百メートルで、コンテナの隙間が狭くなる。そこで、こっちは抜けられる。向こうは、一台ずつしか抜けられない」
「詰まる」
「詰まった先頭を、撃つ」
翔太は、窓を全開にした。雨が、顔に叩きつける。冷たい粒が、目の奥まで届いた。瞼を一度、強く瞬かせる。視界が、雨の向こうで、逆に鮮明になった。
助手席から身を乗り出し、後方に銃を向ける。肘をドアの縁に固定する。揺れる車体の中で、照準の支点を、自分の肩ではなく、車の骨格に移す動作。十年前、射撃教官に叩き込まれた基本。身体が、勝手に動いた。
雨と風が、耳の中で甲高く鳴った。鳴っているはずなのに、銃を構えた瞬間から、音は遠くに引いた。心臓の鼓動だけが、銃把を握った右手の腹に、鈍く返ってくる。
先頭のバイクが、コンテナの狭間に入った。
距離、四十メートル。雨の粒が、その間を無数の線で埋めている。
翔太は息を止めた。撃つ瞬間、肺の動きが、銃口を揺らす。
止めた息の、ほんの一拍の間に、三上の顔が浮かんだ。「明日、全部話す」と言った夜の、半笑いの顔。話せないまま、首の後ろに二発を受けた男の顔。指先が、その顔の重さの分、わずかに沈んだ。
トリガーを、引いた。
銃声が、二発。
先頭バイクの前輪が、跳ねた。ハンドルが取られ、ライダーの身体が、コンテナの鉄骨に、真横から叩きつけられる。
後続の二台が、急ブレーキ。
雨の路面で、二台とも横滑り。鉄板の仮設路を、制御を失って流れていく。
詰まった。
灯は前方を向いたまま、口元だけで笑った。
「上手いね」
「三発、残った」
「兄のノートまで、持つかな」
「持たせる」
翔太は窓を閉めた。雨と火薬が、また車内で混ざり合う。鼻の奥に、二つの匂いが居座った。冷たい雨と、熱い火薬。半年前から、この二つはいつも一緒に来る。
バックミラーの中で、セダン二台が、詰まったバイクを避けて、なお追ってくる。数は減ったが、追尾は終わっていない。
【引き】
「灯」
翔太は、初めて名前で呼んだ。
「何」
「お前の家まで、あと何分だ」
「このまま走って、二十分」
「二十分、持つか」
「持たせる」
灯の指が、ハンドルを握り直した。爪の色は、もう白くなかった。
工事区画を抜ける。首都高の本線に、再び合流する直前、翔太は無線の周波数を、頭の中で切り替えた。組対の符牒ではない。三上隆が、半年前、最後に翔太に耳打ちした、別の周波数。
受信機の電源を、膝の上で、静かに入れた。
雑音の向こうで、男の声が、指示を出していた。
「対象、工事区画に進入。第三班、合流準備」
聞き覚えのある声だった。
三日前、翔太の肩を叩いて「安心しろ」と言った、その声だった。
翔太は、受信機を膝に置いたまま、灯の横顔を見た。
何も言わなかった。
言わなくても、灯には、音の意味が、届いていた。