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逃亡者の銃口、十二の標的

第2話 第2話

第2話

第2話

雨粒が、フロントガラスに斜めの線を引く。

「掴まって」

灯が短く言った。返事を待たない。

翔太は助手席のグリップを左手で、銃をまだ右手で握っている。指がほぐれない。三日ぶりに腰を伸ばした姿勢が、肋骨の内側を圧迫した。喉の奥に、火薬の焦げた匂いが、まだ張り付いている。唾を飲むと、鉄の味がした。三日、誰にも見つからずに逃げ続けた疲労が、今になって、指の先から這い上がってきた。

ヘッドライトが、追ってくる。

バックミラーの中で、四つ、六つ、八つ。雨に滲んだ光点が、生き物のように距離を詰める。

「首都高入口まで二キロ」

灯がアクセルを踏み込む。マフラーが、夜の路面に咆哮を返す。

「振り切れる距離か」

「振り切らないって、さっき言ったはず」

「黙って撃たれろと」

「黙って助手席に座ってて。撃つのは、撃てる位置になってから」

口調に、苛立ちはない。命令することに慣れた声でもない。命令しないと進まない場面に慣れた声だった。

ワイパーが、フロントガラスの水を必死に掻く。

前方、信号が赤。交差点の中央に、深夜の配送トラックが二台。

灯はブレーキを踏まなかった。

「冗談だろう」

「冗談で逃げ切れる相手じゃない」

トラックとトラックの間、隙間は二メートル。車幅は一・八。

灯は、ハンドルを微塵も切らなかった。

サイドミラーが片方、あっさりと折れて飛んだ。塗装が金属を擦る、神経を逆撫でする音。続いて、もう片方も。火花が、運転席側の窓に一瞬、反射した。赤ではない、青白い、金属同士の摩擦が生む火花だった。Gが翔太の身体を窓側に叩きつける。膝が、助手席のドア下にぶつかった。痺れが、脛から腿へ走る。肩甲骨がドアの内側に押し付けられ、呼吸が一瞬、止まる。歯が、奥で噛み合う音を立てた。

抜けた。

抜けた瞬間、後方で衝突音。トラックの一台が追跡車両のフロントを潰したらしい。クラクションが、雨の中で長く尾を引く。後方で、ガラスが砕ける音が、一拍遅れて届いた。

「一台、落ちた」

灯が確認した。喜んでいる声ではない。残り何台、と頭の中で数えている声だった。

「あと、何台」

「セダン三、バイク四。多分」

「多分」

「目視、しきれない」

首都高湾岸線のランプが、視界の右手に浮かんだ。緑の標識、雨の中で霞む。

灯は減速しなかった。逆に、加速した。

ランプの内側、傾斜の登り。タイヤが鳴く。車体が斜めに傾ぐ。翔太は左手でグリップを握り直した。指の関節が白くなる。

「どこ向けに走る気だ」

「ベイブリッジ方向。途中で工事区画に入る。狭い場所なら、向こうの数の利を消せる」

工事区画。深夜の湾岸線で工事中——具体的な地点を、灯は既に頭の中に持っている。

翔太の中で、何かが噛み合った。

この女は、追われる側を逃がす経路を、事前に設計している。

「最初から、ここまで連れてくる予定だったのか」

「あんたが地下駐車場で生き残ってたら、の話」

「生き残らなかったら」

「別の駒を探す」

「駒、か」

「言葉は選ばない。今は時間がない」

翔太は、その言葉を口の中で転がした。刑事として十年、情報屋を駒扱いしてきた側の人間だった。今夜は、自分が駒に回っている。不思議と、腹は立たなかった。駒扱いされる方が、嘘をつかれるよりは、まだ話が早い。相手の意図が、少なくとも言葉の表面では、剥き出しになっている。

ランプを抜けて本線。湾岸線、深夜二時、雨。前方の車は、ほぼゼロ。

灯はアクセルを、踏み抜いた。

メーターが、百四十、百六十、百八十を指す。

翔太は身体を助手席に深く沈めた。雨粒が、五センチ開けたままの窓から頬に飛び込んでくる。冷たい。火薬の匂いが、ようやく薄れていく。代わりに、雨に打たれたアスファルトの匂いが、車内に入り込んでくる。濡れたコンクリートと、タイヤが熱を持った、ゴムの焦げた匂い。

バックミラーに、ヘッドライトが現れた。

セダン三台、バイク四台。隊形を組んでいる。一台が中央、二台が左右。バイクは外側を取り囲むように、扇形に展開する。プロの追跡編成だった。

「教科書通りの追い込みだ」

「教科書を書いた側にいた連中だから」

灯がぽつりと言った。

翔太は灯の横顔を、初めて長く見た。雨に濡れた前髪。眉間の皺。睫毛の影が頬に落ちている。素人の顔ではない。だが、警官の顔でもない。情報屋の顔——でもない。

「お前、何者だ」

「さっきも聞いた」

「答えていない」

「今、答えると、あんたは助手席のベルトを締められなくなる」

意味が、すぐには分からなかった。

数秒、雨の音だけが、車内を満たした。

翔太の指が、シートベルトのフックに触れた。だが、まだ留め金には届かない。

「答える前に、距離を稼がせて」

灯はハンドルを左に切った。

メーターが、二百に届きかけた。

追跡編成の左翼、バイク二台が距離を急速に詰めてきた。雨の中、ヘッドライトが翔太の助手席のドアを照らす。

「右、来てる」

翔太が言うより先に、灯はハンドルを右に切った。

切ると同時に、ブレーキ。

車体が、横滑りした。雨に濡れたアスファルトの上で、タイヤが完全に流れる。

直後、アクセルを踏み戻す。

車体が立て直される、その一瞬で、追走バイク二台が翔太たちの車を追い越して前へ抜けた。一台が、追い越し直後にバランスを崩す。雨と急加速で、後輪が滑る。白いスモークと、雨しぶきが混ざり、路面に短い尾を引いた。もう一台は、辛うじて直進を保ち、先行していった。

翔太は、その一瞬を見た。

バイクの後輪の真上、ライダーの後頭部。距離十五メートル。雨粒が、バイクのテールランプの赤を、無数の粒に砕いていた。ヘルメットの下で、ライダーの肩が前のめりに傾ぐのが見えた。膝をタンクに押し付け、制御を取り戻そうとしている。

撃つか。

指がトリガーに掛かる。右手の親指が、セーフティの位置を確認する。雨粒が、窓の端から吹き込んで、銃身に小さく散った。

「撃たないで」

灯が、低く言った。

「なぜ」

「ヘルメットの下、見えた」

「見えた、何が」

「後輩」

灯はそれだけ言って、口を結んだ。

雨の音だけが、助手席と運転席の間に、静かに落ちた。灯の横顔は、前を向いたまま、頬の筋肉が一度だけ、動いた。その動きは、迷いではなかった。迷いを押し殺した痕だった。

翔太は、銃口を下げた。

灯の「後輩」が誰の後輩なのか、分からない。だが、灯がたった今、自分の追跡者の中に「撃たない理由」を持っていることだけは、分かった。

そして、そのことを、灯は隠さずに翔太に告げた。

「お前、味方の中に、敵がいるのか」

「敵の中に、味方がいるの」

灯の視線は、前方から外れない。

「そして、その境界線を、私はまだ引ききれていない。だから、引けるところまで連れていく」

雨粒が、フロントガラスを叩く。ワイパーが、機械的に水を掻く。

翔太の中で、三日間ずっと固まっていた何かが、ほんの少しだけ、溶けた。

灯は、敵か味方か。分からない。

だが、敵にも味方にも、「分からない」と正直に言える人間が、敵であった試しは、翔太の十年の刑事人生で、なかった。

「お前の名前、もう一度」

「三上灯」

「灯」

「呼び捨て、いいよ。時間がない」

翔太は、銃のスライドを、一度引いて戻した。装弾の確認。残り三発。弾倉の金属が、指先で冷たかった。三日前、この銃には十五発あった。撃った記憶は、ほとんど残っていない。残弾だけが、事実として、手の中にあった。

灯が、前方を顎で示した。

「次のジャンクション、三キロ先。そこで一回、振り切る」

「振り切れるのか」

「振り切るしかない」

バックミラーに、新たな光点が現れた。

前を行くバイクではない。後方、もっと高い位置、もっと多い数。

翔太は窓越しに首を曲げ、後方上空を見上げた。

首都高の高架上、横向きに延びる側道——その縁から、黒い影が、四つ、雨の隙間に浮かんでいた。

ロープの揺れ。降下する人影。装備の重さが、雨の中でも見て取れた。雨の線が、降下する黒い影の輪郭を、切れ切れに浮かび上がらせる。ブーツの爪先が、高架の縁を蹴る音まで、聞こえた気がした。装備は軍用だった。少なくとも、警察のそれではなかった。

「灯、上」

「見えてる」

灯が、初めて短く舌打ちをした。今度は微かな笑みすら浮かべず、ただ前方を睨む。

「第二波」

「振り切れるか」

「振り切るしかないって、さっき言った」

灯はアクセルを、更に踏み抜いた。メーターが、二百を超えて、振り切れた。

雨が、フロントガラスを叩き続けていた。

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