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逃亡者の銃口、十二の標的

第1話 第1話

第1話

第1話

革靴の音。

 コンクリートに反響する硬い足音が、三歩目で止まった。

 榊翔太は息を殺した。地下三階、白いセダンの車体下。油の匂いが鼻の奥を刺し、背中のシャツが冷たい床に張り付いている。左の頬に、誰かが踏み潰したガムの残骸。腹這いの姿勢で、右手だけが腰の拳銃のグリップに伸びていた。鼓動が耳の奥で跳ねている。床の冷たさが肋骨を通り越して内臓まで届き、呼吸のたびに肺が軋んだ。

 無線の声が、革靴の向こうから漏れる。

「B7、現認。確保次第、射殺許可」

 聞き慣れた符牒。三日前まで自分が使っていた周波数だった。

 組織犯罪対策課、警部補・榊翔太、三十二歳、独身、家族なし。それが三日前までの肩書だった。今は「同僚射殺」の容疑で全国指名手配。顔写真は朝のニュースで流れている。

 嵌められた。それだけは確信していた。

 真犯人の顔は、覚えている。だから死ねない。

 革靴がまた一歩、踏み出した。爪先の角度がこちらを向く。磨き上げられた黒革。靴音の重さで体格が読める。一八〇センチ、八十キロ前後。元自衛隊か、特殊系の請負か——少なくとも、地方の機動隊レベルではない。足運びに無駄がない。踵から爪先への荷重移動が、訓練された人間のそれだった。

 懐中電灯の光が、床を舐めはじめた。

 光の輪郭が、ガムの残骸を一瞬照らす。それから、左へ流れた。翔太の小指の二センチ手前で、止まる。

 心臓が一拍、跳ねた。

 震えはなかった。三上を守れなかった夜、震えはあの夜に置いてきた。

 息を止める。

 光が、止まったまま動かない。革靴の主が、屈み込もうとしている。膝の関節が鳴る音が聞こえた。あと一秒で、目が合う。男の呼吸の音まで聞こえる距離だった。ゆっくりと、長く吐く息。獲物を追い詰めた者の、余裕のある呼吸。その呼気に混じる微かな煙草の残り香が、翔太の鼻腔をかすめた。銘柄まで分かる。マールボロの赤。捜査一課で、同じ煙草を吸う男を何人も知っていた。

 翔太は親指で安全装置を外した。

 カチ、と微かな金属音。

 その瞬間、頭の中で三日前が再生された。

 午後十一時、墨田署の地下倉庫。蛍光灯がジジ、と鳴っていた。後輩刑事の宮原が、机の下で胸を二発撃たれていた。床に転がっていたのは翔太の私物、SIGザウエルP226。指紋は完璧に一致するはずだった。手袋を外していた、ほんの三分間を狙われた。宮原の目は、最後まで開いていた。何かを言い残そうとした唇の形だけが、今も瞼の裏に焼き付いている。血の匂いと、古い段ボールの埃と、ほのかな薬品臭。あの地下倉庫に染み付いた匂いは、今も鼻の奥に残っている。

「この銃で、お前が撃ったんだ」

 朝、捜査一課の係長がそう言った時、翔太は全部理解した。係長の視線は、翔太の目を見ていなかった。机の上の書類の、署名欄だけを見ていた。あれは、既に筋書きが書かれた者の目だった。

 組織の内部にいる。それも、自分の動きを分単位で知り尽くした人間が。

 情報屋の三上隆が口を割らされて殺されたのは、その二週間前。三上から託された音声ファイルには、警視庁公安部の特定の課長と、ある与党議員の会話が録音されていた。麻薬、武器、それから——

「身柄、確認できない」

 革靴の主が、無線に向かって言った。

「センサーには反応している。間違いなくこのフロアだ」

 膝の関節が、もう一度鳴る。屈み込みかけた身体が、一瞬迷っている。

「了解、応援を待て。地下三階を封鎖」

 革靴が、一歩だけ後退した。

 翔太は息を吐かなかった。吐けば気付かれる。光の輪郭が、ゆっくりと右へ流れていく。あと三十センチで、視界から外れる。二十、十——。

 光が、消えた。

 革靴が、五歩遠ざかる。シャッターの方へ。

 翔太は静かに、ほんの少しだけ息を吐いた。肺に溜まった熱が、床に溶けていく。

 頭の中で経路を組む。次の角を曲がるまで、相手の足音であと七歩。曲がった瞬間に車体下から這い出し、左手の柱の陰へ。柱から非常階段の入り口まで、十二メートル。途中に駐車中の車が三台。死角は使える。

 右手で、拳銃を腰に戻す。

 足音が、角を曲がりかけた。

——その時。

「待て」

 足音が止まった。無線ではない。生の声だ。

「下だ」

 翔太の指が、グリップに戻った。指先の汗が、樹脂の表面をわずかに滑る。

 革靴が、こちらへ向き直る。

 逃げ場がない。柱まで五メートル、しゃがみ込んだ相手の銃口は外れない。撃ち合いになれば、装弾数の差で詰む。それでも。

 スライドを引いた。

 その瞬間。

 轟音。

 タイヤが床を擦る音と、改造マフラーの咆哮が、地下三階の天井を叩いた。三メートル先、コンクリートの柱の陰から、黒いハイエースが滑り出てきた。フロントバンパーが革靴の男を真横から薙ぎ払う。男の身体が宙に飛び、壁に叩きつけられた。骨の折れる鈍い音が、排気音の合間に聞こえた気がした。

 スライドドアが開く。

「乗って、今すぐ」

 若い女の声だった。低く、張り詰めていて、しかし不思議と落ち着いている。命令に慣れた声ではない。命令せざるを得ない状況に慣れた声だった。

 翔太が反応する前に、車体下から腕が伸びてきた。襟首を掴まれ、アスファルトに背中を擦りながら、後部座席へ転がり込む。膝が金属の縁にぶつかり、痛みが脛まで突き抜けた。視界が一瞬、白く飛ぶ。

「閉めて!」

 言われるまま、スライドドアを足で蹴る。閉まりきる寸前、背後で銃声が三発。リアガラスが砕け、細かいガラス片が翔太の首筋を裂いた。熱い感触。血の粒が、シャツの襟に落ちる。

「伏せて!」

 女がアクセルを踏み抜いた。Gが翔太の背中を後部座席に押し付ける。タイヤが悲鳴を上げ、改造マフラーが地下三階の天井に咆哮を返した。シートの革が汗で軋み、ガソリンの匂いが車内に満ちる。砕けたガラス片が、ダッシュボードの上で跳ね、信号の緑に一瞬きらめいた。翔太の耳の奥で、銃声の残響がまだ鳴り続けている。鼓膜の内側が、熱い。

 顔を上げる。

 ハンドルを握っていたのは、二十代半ばの女だった。黒のキャップ、薄手のレザージャケット。横顔だけが見える。眉間に皺が寄っているが、口元は静かに引き結ばれていた。素人の顔ではない。ハンドルを握る指の力加減、視線の走らせ方、どれひとつとっても、訓練の痕跡が滲んでいた。左の耳たぶに、小さな傷跡。古い刃物傷のように見えた。

 翔太は身を起こし、助手席のヘッドレスト越しに、銃口を女の側頭部に向けた。

「誰だ、お前は」

 女はちらりと銃口に目をやり、すぐにフロントガラスへ視線を戻した。動じる気配はない。それがかえって、翔太の背筋を冷たくした。

「三上灯」

 タイヤが、急カーブで横滑りする。

「三上——」

「兄を覚えてる?」

 記憶が一瞬で繋がった。

 情報屋・三上隆。半年前、翔太が裏切り者の通報から守れなかった男。妹がいるとは聞いていた。だが顔も名前も、本人からは教えられていなかった。喉の奥に、鉄のような苦みが広がる。三上が最後に見せた、不器用な笑顔が脳裏をよぎる。「刑事さん、俺に何かあったら——」そこで言葉を切った男の、続きを聞けなかった罪悪感が、胸の奥でまた疼いた。

「兄の仇は、あんたを嵌めた奴らと同じ」

 灯がハンドルを左に切る。

「今は撃たないで。撃ったら二人とも死ぬ」

 スロープを駆け上がる。地下二階、一階。出口のシャッターが、警備員の操作で半分まで降りかけていた。灯はブレーキを踏まず、屋根を擦りながら抜けた。火花が散る。車の天井が、めりめりと悲鳴を上げた。

 地上。

 深夜二時の路地に、雨が降り始めていた。

 翔太は、銃口をゆっくりと下ろした。指の関節が、こわばったまま戻らない。

 バックミラーに、二つのヘッドライトが現れた。

 続いて、もう二つ。

 そして、バイクの細い光が、四つ。

 灯が舌打ちをした。

「予想より早い」

 翔太は無言で弾倉を抜き、装弾数を確認した。残り五発。補充の機会は、当分ない。

「首都高に乗る」

 灯が言った。

「振り切れるのか」

「振り切るんじゃない」

 彼女はサイドミラーを見て、微かに笑った。初めて見せた、人間らしい表情だった。

「狩る側に回るための、距離を稼ぐだけ」

 雨が強くなる。

 翔太は助手席の窓を、五センチだけ開けた。冷たい空気が、首筋の血を洗う。雨粒の匂いに、火薬の残り香が混じっていた。

 追手のヘッドライトが、急速に距離を詰めてきた。

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