第2話
第2話
足音は、私の真上で止まったきり、動かなくなった。
息をすることさえ、咎められている気がした。掌の中で、白絹の手袋がぬるく湿っている。葬儀の日に棺へ納めたはずのそれが、どうして今、私の指を温めているのか――考えたくなかった。考えれば考えるほど、天井の節目のひとつひとつが、瞼の裏に灼きついて離れないのだ。
頭上の床板は、しん、と静まっている。
けれど「静まる」という言葉はふさわしくないと、思い直した。静寂は、あの重い靴音のために空けられた席のようなもので、次の一歩がいつ下ろされるかを待って、空気だけが張り詰めている。埃でさえ、中途で落ちるのを止めている。
「……嘘よ」
舌の上で、声が掠れた。
嘘であってほしかった。あの手袋も、さっきの「お帰り」も、書斎の暖炉のぬるさも、全部私の熱のせい、旅の疲れのせい、雨に冷えた耳鳴りのせい――そう決めつけて、玄関まで歩いて帰りたかった。傘を取って、馬車を呼んで、このまま二度と洋館を振り返らない。そうできたら、どれほど楽だっただろう。
けれど、踵は動かない。
踊り場の絨毯に、指の形に丸まった手袋が落ちている。その白絹は、雨宿りの猫のような姿勢で、私の方を静かに向いていた。拾わなければ、と思った。これは、彼が確かに死んだという事実を確かめるための、この家で唯一の物的な錨だ。
私は震える指でそれを拾い上げ、胸に押し当てた。
彼は、死んだ。
葬儀で、この手で、確かに確かめた。
そう唱えることだけが、今の私に残された呪文だった。
――棺は、黒檀だった。
晴れた朝の礼拝堂で、祭壇の前に、あの棺は横たえられていた。蓋の縁に銀の装飾が施されていて、私が添えた白百合の茎の影が、その銀の上にゆらゆらと映り込んだのを覚えている。礼拝堂の高窓から落ちる光は重く、参列者の黒い帽子の上で、粉雪のように躍っていた。
私は、列の最後に並んだ。
伯爵家からは、誰も来なかった。正確には、義妹だけが、喪服の裾をわざと音立てて翻して、私の前を通り過ぎていった。目を伏せて通り過ぎれば、礼儀は立ったはずだ。それなのに彼女は、私の横で立ち止まり、顔を寄せて小さく笑った。
「――お可哀想に、お姉様」
その囁きの冷たさは、今でも耳の奥に貼りついている。頬に掛かった彼女の息は、香水の匂いに混じって、どこか甘く、どこか腐ったような気配があった。私は歯を食いしばって、瞬きを一度だけ落とした。
けれど、私は立ち止まらなかった。彼に、最後の挨拶をしなければならなかった。棺の前に立ち、蓋の内側に横たえられた彼を見下ろした瞬間、膝から力が抜けた。
頬は、蝋のようだった。
閉じた瞼の下で、睫毛が凍えていた。ほんの数日前まで、私の肩先をくすぐっていた睫毛だ。唇はやや開いて、そこから漏れるはずの息が、もう永遠に戻らないことを告げていた。額には、白い花を押した跡だけが、薄く青く残っている。
私は手を伸ばした。
手袋越しではなく、素手で。
神父が何か咎めるような咳払いをしたけれど、構わなかった。誰かに教えられた事実ではなく、「冷たい」という感覚そのものを、指先で拾い上げなければ、信じることができなかったのだ。
彼の手を、そっと包み込んだ。
――冷たかった。
河底の石よりも、凍った硝子の窓よりも、奥深くまで冷えていた。体温を奪われるのではない。私の指先の熱が、彼という器の中に吸い込まれ、そのまま二度と戻ってこない――そういう種類の冷たさだった。指の爪の下が痺れ、指輪の銀が青白く曇った。舌の付け根に、鉄のような味が湧いた。
ほんの数週間前まで、この掌は私の頬を包んで温めてくれていた。寒い朝、書斎の窓から差し込む斜光の中で、「また冷やしたね」と低く笑いながら、両の掌で私の耳を挟み、息を吹きかけてくれた、あの手だ。その温度の記憶と、目の前の冷たさは、同じ指の中で重なろうとして、激しく擦れ合った。舌の奥にせり上がった嗚咽を、私は歯で噛み殺した。ここで泣けば、義妹のあの囁きを、肯定してしまう気がしたのだ。
私は、白絹の手袋を、彼の手に嵌めた。
銀糸の紋を、甲の上に整えた。指は、彼の指の間にしばらく留まった。離し難かった。けれど列は動き、背中で誰かが咳払いをした。私は手を引き、一礼して、棺の前を離れた。
――確かに、入れた。
確かに、彼は、冷たかった。
踊り場の絨毯に膝をついたまま、私は掌の手袋を見下ろす。三ヶ月前に棺の底で主を失ったはずのそれは、今、私の心臓の鼓動を吸って、ゆっくりと温度を移している。布地の裏側に残っていた薄い温もりは、もう私のものだ。誰のものだったのかは、もうわからない。
――とん。
地下から、音が、また鳴った。
一度きりの打音が、床板を伝って私の踵を蹴った。
足が勝手に動いた。二階の廊下に踏み込む勇気はない。階下へ。一段、また一段。絨毯の毛足を掴むように踵を置き、手袋を胸に抱えたまま、手すりを伝って降りきった。
喉が、渇いていた。
このどうしようもない渇きは、恐怖が体から水分を絞り出した証だ。水を、頬に叩きつけたかった。冷たい水で、自分の皮膚を現実に繋ぎ止めたかった。廊下を抜け、台所の両開きの扉を押す。
微かに甘い湯気が、私の顔を撫でた。
私は、そこで、立ち尽くした。
作業台の中央に、紅茶の碗が一つ、置かれていた。
湯気が、立っていた。
細く、ゆっくりと、白い糸のように天井へ昇り、換気窓の隙間へ吸い込まれていく。ランプは灯っていないのに、碗の縁だけが薄く光って見えた。香りは、ベルガモット。ほんの少しの、蜂蜜。私が毎朝、書斎の彼に運んでいた、あの紅茶だった。
受け皿の上には、銀の匙が添えられている。匙の先には、溶け残った砂糖の粒が三つ。
私は、三つ入れる人間ではない。
彼がそうだった。「甘いのが好きなんだ、子供みたいだろう」と、あの低い声で言い訳しながら、毎朝、三つ。
一歩、近づいた。
碗の縁に、唇の跡はない。
まだ、誰も口をつけていない。
碗の内側に、微かな渦が残っている。たった今、匙で掻き混ぜられたばかりの、あの不器用な渦だ。彼はいつも、砂糖が沈まないように碗を左手で支え、右手の匙で三度だけ掻き回した。私が「もっと混ぜなければ溶けませんよ」と笑うと、「三度で十分、あとは舌で溶かすんだ」と、子供じみた理屈を返した。その渦が、いま、私の目の前で、息をするように、ゆっくりと回っている。
この紅茶は、誰かのために、今しがた淹れられたばかりだ。
指先で、碗の側面にそっと触れた。熱い。掌に押し返してくる熱は、たった今、火から下ろしたばかりの茶葉のものだった。棚の方に目を遣る。銅のやかんが、竃の上で、微かに蒸気を吐いていた。炉の底の炭は、まだ赤い目を細めている。
問いを、口に出すことはしなかった。
答えは、もう、この家の至る所に散らばっていた。書斎の暖炉の熱、踊り場の手袋、廊下の香水、そしてこの紅茶。洋館は、私が帰ってくるのを知っていた。知っていて、迎える支度を、丁寧に、一つずつ整えていたのだ。
膝が、ゆっくりと折れた。
作業台の縁に指をかけ、体を支える。碗の中の琥珀が、私の呼吸に合わせて輪を描いて揺れる。湯気の糸が、天井で一瞬、人の輪郭のようにほどけ、また消えた。
――とん、とん、とん。
地下の打音が、戻ってきた。
先ほどよりも、はっきりと、急いた三拍子で。
まるで「早く」と、急かすように。
作業台の端に、走り書きの紙片が一枚、裏返しで置かれているのに気づいた。
指で、そっと裏返す。
乾いたインクは、書斎の羽根ペンで書かれたものだった。細く、少し右上に跳ねる、彼の筆跡。たった一行。
『――甘くしておいた。冷めないうちに、降りておいで』
句読点の打ち方まで、彼のものだった。「おいで」の「お」が少しだけ上に跳ねる、あの癖。インクの滲みの向こうから、彼の低い笑い声が聞こえた気がした。「そんな顔をするな」と、耳元で囁かれた気がした。紙片の縁が、指の熱で僅かに反り、甘い湯気の匂いを吸い込んで、掌に貼りついた。
紙片が、指の間から落ちた。
廊下の奥、地下へ続く扉が、半ばまで開いているのが視界の端に映る。
とん、とん、とん。
打音は、もう、私の心臓と同じ速さだった。