Novelis
← 目次

腐爛の婚約者は今宵も私を呼ぶ

第3話 第3話

第3話

第3話

紙片は拾えなかった。

床に舞い落ちたそれを、靴先で押しのけるようにして後ずさる。湯気が肩口にまとわりついて、一歩引くたびに、湯気のほうが一歩、私を追いかけてくる気がした。

降りておいで、と、書かれていた。甘くしておいた、冷めないうちに、と。

私は、まだ降りる準備ができていない。地下の闇に足を踏み入れるには、もう一つ、確かな手触りが要る。棺に触れた指の感覚だけでは、足りないのだ。紅茶の湯気、白絹の手袋、踊り場で止まった靴音――それらはすべて、この館が見せる顔の数々に過ぎない。声の主を確かめるためには、もっと奥まで、もっと過去まで、彼の残した息の痕を、辿らなければならなかった。

台所の扉を後ろ手に閉める。把手の真鍮が掌を冷やした。冷たさは皮膚の下を伝って、肘の内側のあたりで、小さな脈と混ざり合う。息を整え、踵を返す。私の目指すべき場所は、地下ではなく、まず、書斎だった。

廊下はまだ薄暗い。雨はいつの間にか上がったらしく、代わりに窓の外で風が回り始めていた。木々の梢が擦れる音、瓦の一枚が低く軋む音。館の骨が、ゆっくりと呼吸をしている。書斎の扉を押すと、先ほどより濃い香水の匂いが、私を迎えた。ベルガモットと、奥に潜む乾いた白檀。彼が生前、襟元に一滴だけ落としていた、あの混ざり方のままだった。

暖炉の灰は、もう冷え切っていた。先ほど指で探り当てたあの熱は、短い残り火だったのか、それとも私の指そのものが拾い上げた幻だったのか――わからない。わからないが、わからないからこそ、私は机に近づいた。羽根ペンの角度を指先で変えずに通り過ぎる。触れてはいけないものには、まだ触れない。私が探すのは、彼の死の前に、彼が何を書き、何を隠したか、その痕跡だった。

抽斗は、机の右下にある。真鍮の取っ手を引くと、木が喉を鳴らすような軋みをあげた。彼が生きていた頃、書斎に入ると決まって「ここだけは触らないでくれ」と、低く笑いながら、私の指先を掌で押し戻した、あの抽斗だ。その掌の、節の硬さまで、まだ憶えている。鍵はかかっていなかった。引き出された抽斗の底に、乾いた紙と、インクの匂いと、もう一つ、鉄の匂いが沈んでいた。鉄は、血の気配に、ひどくよく似ていた。

底を探る指先が、最初に拾い上げたのは、折り畳まれた紙包みだった。掌に乗せて開く。中には、見覚えのない鉄製の鍵が、一本。歯の形は古めかしく、握りの部分に、銀の装飾が小さく打たれている。紙の内側には、彼の筆跡で、短く、書かれていた。

『地下、二の間、西壁の下。』

指先が、震えた。彼の「地」の字は、最後の一画をわずかに上に跳ねる癖があった。このペンの運びは、他の誰にも真似できない。もう一度、紙を指の腹で撫でる。インクは、何日前に乾いたものなのか、判別のつかないほど、薄くも濃くもなかった。けれど紙の繊維の間に、ほんのわずかに、彼の香水の残り香が沁みていた。

鍵を、握りしめる。

掌の中で、鉄は体温をゆっくりと奪っていった。抽斗の奥には、もう一つ、何かが入っていた。紙片の束だ。白い便箋が、乱暴に引き裂かれて、重ねられていた。

机の上に、それを並べる。

片は、全部で八つほどあった。端々は歯で噛みちぎられたように不規則で、繊維が立っている。誰かが、急いで、けれど確実に、一枚の手紙を引き裂いた痕跡だった。震える指で、辺を合わせていく。罫線の色、紙の厚み、インクの滲み方。合う辺を探り当てるたび、息が短く漏れた。指の腹が、紙の繊維の一本一本を数えるように、辺を撫でる。紙はひやりと乾いていて、けれど、私の掌の熱を吸うたび、わずかに湿り、彼の書いた字の輪郭を、指先に浮かび上がらせた。

半分ほど繋ぎ合わせたところで、文字が読めるようになった。

『……もし、あの夜、私が戻らなかったなら……西壁の下を……あなたの名で、呼ばないでほしい……』

文字は、途切れ、途切れ、なおも続いていく。

『……義妹君に……贈られたあの指輪の……黒い石を……決して触れさせては……』

息が、止まった。「義妹君」の「義」の字の上に、乾いた紅色の染みが、点のように落ちている。インクの滲みではない。乾いて、茶褐色に近くなったそれは、血だった。彼の、あるいは――指を引き裂かれた誰かの、血だった。染みの縁は、紙の繊維に沿って細く伸び、干からびた小さな川の形を作っていた。鼻を近づけると、鉄の匂いの奥に、微かに、乾いた花のような甘さがあった。彼がいつも、指先に残していた、あの万年筆のインクと、同じ匂いだった。

指先が、紙の上で凍りつく。顔を上げ、窓の外を見た。薄青かった空の縁は、もう紺の墨に浸り、庭の木々は影の一塊に溶けていた。いつの間に、こんなに時間が過ぎたのか。書斎の柱時計が、耳の奥で、鈍い一打を置いた。私は、もう何時間もこの机の前で、紙片を合わせ続けていたらしかった。肩の奥が、石を入れたように重い。首筋を撫でると、汗が冷えて、薄い膜のように皮膚に貼りついていた。

燭台の蝋を、震える手で灯す。炎は、一度大きく揺れてから、細く立った。紙の上に金色の輪が落ちて、繋ぎ合わせた便箋の断面が、かすかに浮かび上がる。まだ繋がらない片が、三つ。その中に、ひときわ小さな、掌の半分ほどの片があった。端に、何かの紋章の一部が、黒いインクで描かれている。葡萄と剣、そして蝶の羽。――伯爵家の、義妹の嫁ぎ先の、紋章だ。

私は、その片を、手紙の下辺に合わせた。

合う。

合ってしまう。

『……彼女が、私を殺す前に、あなたが気付いてくれることを……祈っている……』

蝋の炎が、一度、風もないのに揺れた。

喉の奥が、音をたてて鳴った。嗚咽でも、悲鳴でもない、ただ、空気の擦れる音だった。私は机の縁を両手で掴み、紙片の上に視線を落としたまま、しばらく動けなかった。爪が木目に食い込み、指の関節が、白く浮いた。涙は、出なかった。泣くには、まだ、早すぎた。涙は、もう一つ奥の扉を開けてから、流すべきものだった。

紙片を、一枚ずつ、そっと重ねていく。彼の文字の上を、指の腹で、辿るように撫でる。彼は、知っていたのだ。自分が殺されるかもしれないことを、殺されるなら誰の手によるかを、そしてそれが――私と同じ血を分けた、あの細い指の女であることを。子どもの頃、同じ揺り籠を覗き込んだ、あの白い頬の妹が。

鉄の鍵を、掌の中で握り直す。

西壁の下。彼が、最後の力で私に残した道標は、地下の、西壁の、下に、隠されている。

今夜、私は、降りなければならない。けれど、降りる前に、私は、この館から、逃げてはならない。義妹は、いずれこの館を訪ねてくる。自分が殺させた男の遺品を、自分の名で再び封じるために。そのとき私がここにいなければ、彼の残したこの声は、永遠に土の下に埋められてしまう。

燭台の炎に、かざしかけた手紙の切れ端を、私は、火から離した。燃やしてはいけない。これは、いずれ、あの女の喉に突きつけるための、最初の証だ。指先が炎の熱を掠めて、じんと痺れた。その痺れを、私は、忘れないようにと、心の奥に刻みつけた。

立ち上がる。膝が一度だけ、床を叩くように折れかけた。燭台を取って、書斎の扉を押し開ける。廊下に出ると、雨の止んだ夜の静けさが、耳に痛かった。暖炉の煙突の遠くで、梟の鳴く声が、ひとつ、落ちてきた。

廊下の奥、地下へ続く扉。先ほど開けたまま、半ばで止めてあった、あの扉。

その扉が、閉まっていた。

私は、閉めていない。確かに、半ばで、止めておいた。

燭台の炎が、把手の真鍮を、舐めるように照らす。一歩、近づいた。二歩。鉄の鍵を握る掌が、汗で滑った。

扉の前で、立ち止まる。

――どん。

扉が、内側から、叩かれた。

一度。二度。三度。

規則正しい、三拍子。

けれど、それはもう、床下から響く遠い打音ではなかった。私の目の前の、この一枚の厚い扉の、内側から、誰かの掌が、直に打ち付けている音だった。

蝋の炎が、扉の向こうの風に煽られたように、横に流れた。把手が、ほんのわずかに、内側から、揺れた。

扉の向こうで、掠れた、低い声が、私の名を、呼んだ。

この話はいかがでしたか?

最新話です

次の更新をお楽しみに!