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逆回りの時計と館の守り手

第3話 第3話

第3話

第3話

名前を呼ぶ声を振り切るようにして、私は自室へ戻った。扉を閉めて、鍵をかけて、それから二度、把手を引いた。動かないことを確かめて、ようやく、膝が絨毯に落ちた。

耳の奥で、まだ、さっきの声が、残っていた。「美緒、お戻りなさい」——戻れ、ではなく、お戻りなさい。敬体のまま、柔らかく、親しげに。知らない女に、そう呼ばれる筋合いは、ないはずだった。

夜が来た。夕食は、ほとんど、喉を通らなかった。千代が、盆を下げるとき、皿の残り物を一度、じっと見下ろして、何か言いたげに唇を動かしかけた。結局、彼女は、何も、言わなかった。

懐中時計を、枕元に置いた。蓋は、開けたままにしておいた。秒針が、今夜は、逆に戻らないことを、祈った。祈る、という言葉の感触を、私は、ひさしぶりに、舌の奥で転がした。

翌朝、雨は、上がっていた。

朝食室の、磨き上げられたテーブルの縁で、雨上がりの光が、白く跳ねていた。私は紅茶に手を伸ばしかけて、止めた。玄関のほうから、車の停まる音が、石畳に砕けるようにして、聞こえたからだった。

梶が、表へ出ていく足音が続いた。そして、しばらくの沈黙。人の会話の、低い、くぐもったやりとり。靴音が、二人分、玄関ホールに戻ってきた。

「お嬢様」

声のあとに、梶の姿が、朝食室の扉から覗いた。その背後、廊下の奥に、長身の影が、立っていた。

「当主代理の、氷室さまが、お着きになりました」

氷室燈吾、と名乗った男は、私より、三つか四つ、年上だろうか。

喪服に近い黒のスーツの肩に、雨粒の残りが、いくつか光っていた。梶が受け取った鞄の革が、折り畳まれた雨の匂いを、かすかに、室内まで運んでくる。

「——花城、美緒さま」

名前を呼ばれた瞬間、私の背が、ぴくり、と跳ねた。昨夜の廊下の声とは、当然、別の、男の声だった。低く、落ち着いた、言葉の一つひとつを、指で確かめるように置く人の、話し方だった。

けれど、その「美緒」の、最初の「み」の響きに、私は反応してしまった。呼び慣れている。そう、感じた。初対面のはずの人間が、私の名前を、もう何度も、口の中で発音したことがあるような、そんな摩耗の仕方だった。

「はじめまして。氷室と申します。このたびは、ご到着を、お出迎えできませず——」

形式通りの挨拶の途中で、彼の言葉は、途切れた。

言葉より先に、目が、私を見ていた。

初対面の人間の、品定めの視線では、なかった。もっと、古い、痛みに似た視線だった。私の顔の、どこかを——眉のあたりか、頬骨の高さか——確かめて、それから、目を逸らすのを、一瞬、忘れたような。

「——失礼」

燈吾は、自分で自分を叱るように、目を伏せた。

私は、自分の指が、紅茶のカップの把手を握りしめているのに、気づいた。関節が、白くなっていた。

梶が、席を引いた。燈吾が、向かいに腰を下ろした。窓の外の、朝の光が、彼の左頬を、半分だけ照らした。顎の線が、ひどくきれいで、ひどく薄かった。眠っていない顔だ、と思った。夜通し、車を飛ばしてきたのだ、と、梶の短い説明で、私は、知った。

「先代には、生前、大変お世話になりました」

燈吾は言った。

「氷室の家は、花城のご当主と、古くから、つながりがございます。このたびのご相続につきましては、手続きのほか、お嬢様のご生活のことも含めて、代理としてお支えするよう、先代からのお言いつけを——」

「氷室さま」

私は、遮った。遮れたことに、自分で、驚いた。

「ひとつ、伺っても、よろしいでしょうか」

燈吾は、顔を上げた。朝の光が、彼の目の、虹彩の中の、薄い灰色を、さらった。

「——西棟の、鍵は、どちらに、ございますか」

彼の眉が、ほんのわずか、寄った。寄ったこと自体を、悟られまいとする寄り方だった。梶の、昨日と、同じ。この家の男たちは、同じ訓練を、受けている。

「……梶から、お伺いしましたか」

「保管している、とだけ」

彼は、少し、黙った。窓の外で、雀が一羽、石畳の上を跳ねて、飛び去った。

「その鍵は、氷室の家で、お預かりしております。西棟は、先代のご遺志により、現在、封じております。私の一存でも、開けることは、いたしかねます」

「それは——」

喉が、思ったより、乾いた音を立てた。

「どういう、理由で」

燈吾の視線が、一瞬、私の左の肩の後ろへ、流れた。

そこには、何も、ないはずだった。けれど、彼は、そこに、何かが立っているかのように、ほんの刹那、目を止めた。昨日、玄関ホールで、三人の使用人が、私の背後の空間へ視線を泳がせたのと、ちょうど、同じ場所だった。

「——それは、本日中に、ご説明申し上げます。ただ、ひとつ、お願いがございます」

「お願い」

「どうか、西棟には、お一人で、近づかないでくださいませ」

お願い、と言うには、声に、力が籠りすぎていた。懇願、に、近かった。初対面の女に、懇願するような響きの、お願いだった。

午後、燈吾は、梶を連れて、書斎に籠もった。

書類、と一言、梶が扉の前で私に告げて、そのまま、重たい樫の扉を閉めた。閉められた、というより、私から、遠ざけられた、という感触だった。

朝食室の紅茶は、とうに、冷めていた。カップの内側に、薄い輪が、白く残っていた。その輪を、私は、指の腹で、そっとなぞった。氷室燈吾。その名を、舌の上で、もう一度、転がしてみる。

彼は、何かを、隠している。

それは、確信だった。理屈ではなかった。朝食の席で、彼が、私の顔を見つめた、あの一瞬。背後へ泳がせた、あの視線。それから、「お一人で、近づかないでくださいませ」という、あの、力のこもりすぎた懇願。

隠している。それも、私から、守ろうとしている。何を、何から、守っているのかは、わからなかった。けれど、守るという動機のかたちだけは、皮膚の表面に、触れるように、伝わってきた。

守られて、黙って、待つ人生を、私は、送ってこなかった。

両親を失ったあと、親戚の家を、たらい回しにされた日々。どこへ行っても、私の食事の量は、その家の子供より、必ず少し、少なかった。文句を言えば、追い出された。だから、黙って、二十歳まで来た。黙るだけでは、何も、守られなかった。守られる側でいる限り、私は、いつも、削られる側だった。

立ち上がった。

靴音を、殺すように、廊下へ出た。

書斎の扉の前を、通るときだけ、心臓が、一度、大きく鳴った。扉の向こうで、低い男の声と、もっと低い老人の声とが、交互に、切れ切れに、漏れていた。単語までは、聞き取れなかった。「先代」「二十」「美緒」——その三語だけが、拾えたような気がして、けれど、たぶん、私の耳の、願望だった。

西棟へ続く廊下に、出た。

雨上がりの昼の光が、西側の窓から、いちおうは、差し込んでいた。昨日の昼より、確かに、明るかった。明るい、はずだった。それなのに、絨毯を踏む、私の靴下の裏が、一歩ごとに、温度を失っていった。

突き当たりの、樫の扉。

鎖は、昨日と、同じ姿で、喉を閉じていた。二つの南京錠。赤茶けた、あの沁み。

私は、扉に、手を触れなかった。ただ、樫の、木目の近くまで、顔を寄せた。木の、古い、甘い匂いがした。その甘さの奥に、かすかに——かすかに、昨夜、私の部屋の扉の向こうから這い込んできた、あの、湿った黴の匂いが、混じっていた。

——鎖のない、扉から、入れる場所が、あるはずだ。

そう、思った。昨日、梶が案内の途中で、「こちらは使用人用の、通用口でございます」と、指した、細い、木の扉。西棟の壁の、外側を回り込めば、その通用口の先に、反対側から、西棟の内部へ、抜けられる経路があるのでは——

「——花城さま」

背後で、声がした。

振り返ると、廊下の半ばに、燈吾が、立っていた。表情は、穏やかだった。穏やかすぎた。穏やかな仮面の下で、彼の、左手の指が、自分の右の手首を、一度、きつく握りしめるのを、私は、見てしまった。

手首の、内側を。そこに、何かを、押さえるように。

「——お散歩、でございますか」

彼は、微笑んだ。

その微笑みが、私の昨夜の記憶の、何かに、重なった。梶の、丁度いい、内容のない微笑み。千代の、震える睫毛。——この家の、人間は、皆、同じ顔を、することがある。

「書斎の、ご用は、もう、よろしいのですか」

私は、答える代わりに、尋ねた。

「はい。お嬢様の、お誕生日のことで、一つ、どうしても、今日のうちに、お伝えしておきたいことが、ございまして」

私の、誕生日。

彼の視線は、また、私の左の肩の、後ろへ、流れた。そして、戻ってきた。戻ってきた目に、ひどく、悲しい色が、あった。

——この人は、知っている。

私の誕生日に、この家で、何が起きるのかを。

今夜、私は、一人で、西棟へ行く。彼が、眠りにつくのを、待って。梶が、夜の点検に出るのを、待って。通用口の、細い木の扉から。

廊下の奥で、柱時計が、かち、と、一度だけ、遅れて、鳴った。

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