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逆回りの時計と館の守り手

第2話 第2話

第2話

第2話

目を開けたとき、枕元の懐中時計は、六時四分を指していた。

正しく、右回りで。

一瞬、昨夜の記憶が、自分の見た夢だったような錯覚に襲われた。秒針は淀みなく進んでいた。蓋は、開けたままにしたはずだったのに、ぴたりと閉じられている。指で押し開けてみると、硝子の内側に、うっすらと白い曇りが残っていた。息の、曇り。私の息では、ないはずだった。

カーテンの隙間から、灰色の光が落ちていた。晴れてはいない。けれど、雨でもない。ただ、空が、色を持つのを億劫がっているような、梅雨前の朝の、どっちつかずの明るさだった。

起き上がろうとして、シーツが、胸のあたりに貼りついているのに気づいた。寝汗、だった。夏ではないのに、肌着が絞れそうに湿っている。首の後ろに掌を当てると、汗の下で、皮膚が冷え切っていた。まるで、誰かに長いあいだ、そこを見つめられていたあとのように。

扉の向こうから、食器の触れ合う、控えめな音が聞こえた。

朝。人の動く、朝の音。それだけで、肩のどこかが、ほどけた。昨夜、扉の向こうにあった呼吸のことを、私はもう、忘れようとしていた。忘れたほうが、この屋敷で生きていきやすい。そういう類の、忘れ方が、あることを、私はもう知っていた。

身支度を整えながら、私は鏡台の前に座った。螺鈿の縁取りが、朝の光を鈍く弾いている。鏡の中の自分は、思ったよりも疲れた顔をしていた。目の下に、昨日までなかったはずの、薄い影が落ちている。

——鍵束を、見せてもらおう。

そう、思った。昨夜のうちに決めていたのかもしれない。あるいは、枕元の時計が逆に回りはじめた瞬間に、すでに。西棟の鍵が一本、革紐の上で欠けていたこと。その擦れの跡の黒さ。それだけは、夢ではなかった。確かめなければ、私はこの屋敷で、次の夜を越せない気がした。

朝食を運んできたのは、若い女中——千代、と名乗った——だった。盆の上で、紅茶のカップが、かたり、と一度だけ鳴った。その一度きりの音を、彼女はひどく気にするように、両手で押さえた。

「梶さんを、呼んでもらえますか」

私が言うと、千代の睫毛が、ほんの一瞬だけ跳ねた。昨日、玄関ホールで震えていたのと、同じ震え方だった。

「……かしこまりました」

声は小さかった。退出する彼女の背中を、私は見送った。黒いお仕着せの裾が、廊下の角で、すっ、と吸い込まれるように消えた。足音は、やはり、しなかった。

梶は、紅茶が冷めきる前には、現れた。

「お嬢様。お召しでございましょうか」

「昨日、持っていらした鍵束を、見せていただきたいのです」

梶の瞬きが、一拍、遅れた。遅れたことを悟られまいとするための、慎重な一拍だった。

「……鍵束、と、仰いますと」

「屋敷中の鍵が通してある、あの束です。十二本あった。でも——」

私は、カップを受け皿に戻した。磁器と磁器の触れ合う音が、思ったより大きく響いた。

「——一本、抜けていましたね」

梶の顔には、さざ波ひとつ立たなかった。代わりに、骨張った指が、腰のあたりに、自然な動作を装って下ろされた。鍵束は、そこに、下がっていた。彼はそれを外して、両手で捧げるように、私の前に差し出した。

重たかった。受け取った瞬間、手首が、わずかに沈んだ。

真鍮は、朝の光の下で見ると、思っていたより、ずっと古かった。鍵のひとつひとつに、違う形の突起が、別々の歯並びのように刻まれている。私は、指で、それを数えた。

一、二、三……十一。

十一本しか、なかった。

革紐の途中、指二本分の隙間——黒く擦れた跡だけが、昨夜と同じ位置で、口を開けたままだった。

「……一本、足りません」

梶は、目を伏せた。伏せたまま、しばらく、何も言わなかった。廊下のどこかで、柱時計の振り子の音だけが、妙にはっきりと聞こえた。

「西棟の、でございますね」

「——そう、仰いますと?」

「その鍵だけは、先代のご遺言により、別の場所にて、保管してございます」

「保管」

「はい」

「どちらに」

梶の喉仏が、一度、上下した。喉の奥で、何かを慎重に組み立ててから、吐き出すような間だった。

「それは、当家の当主代理が、参りました際に、改めてご説明申し上げます」

当主代理。

昨日、案内の折には、一度も出てこなかった言葉だった。先代——母方の遠縁にあたるその人——が亡くなってから、弁護士との書類のやりとりは、すべて私が直接してきた。当主代理なる人物の名前は、一度も、紙の上に現れたことがなかった。

「……そのかたは、いつ、いらっしゃるのですか」

「近日中に、と」

答えの隙間に、湿った沈黙が挟まった。梶は、それ以上、私に何も言わせないための沈黙の使い方を、よく知っている人だった。

私は、鍵束を、もう一度、革紐ごと握った。金属同士が触れ合う、ちりん、という乾いた音が、指二本分の隙間でだけ、ふ、と途切れる。音の、欠け。昨日と、同じ場所で、同じ形で。

昼を過ぎて、雨が落ちはじめた。

梅雨前のはずが、この家の軒先にだけ、季節が先回りして降り注いでいるような、細かい雨だった。粒は小さく、けれど、止む気配が、まるでない。ホールの窓からは、庭の石畳が、墨を含んだように黒く沈んでいくのが見えた。

私は、西棟へと続く廊下を、ひとりで歩いていた。

行くつもりは、なかった。ただ、二階の書棚から借りた植物図鑑を、元の棚に戻して——そのついでに、もう一度、鎖のことを確かめようと思った。昼の光の下で見れば、あの赤茶けた染みも、ただの錆かもしれないと、自分に言い聞かせたかった。

廊下は、昼でも、暗かった。西側の窓が、雨のせいで、ほとんど光を通していない。絨毯を踏む足音が、踵のあたりで、妙にくぐもる。音を吸う絨毯ではなく、吸われる床、という感じがした。

西棟の扉は、昨日と、同じ姿で、そこに在った。

樫の把手に絡む、太い鎖。南京錠の、二つの、噛み合った喉。鎖の、例の一点にあった染みを、私は屈み込んで、近くから見た。錆ではなかった。錆の粒ではない、もっと、沁みた跡——布を絞って拭おうとして、拭ききれなかったような、吸い込まれ方だった。指で触れるのは、なぜか、ひどく躊躇われた。

——美緒。

そのとき、廊下の、ずっと奥のほうから、声がした。

女の、声だった。

低くはなかった。けれど、高くもない。二十代の女の、ごく自然な声で、私の名前が、呼ばれた。最初の「み」の音に、かすかに、笑みの気配が混じっていた。

私は、振り返った。

廊下の奥——私が今来た方向には、誰もいない。ホールに続く大階段の手摺りだけが、雨の青みを吸って、鈍く光っている。使用人の姿は、見えなかった。

「……千代さん?」

呼んでみた。返事はなかった。

柱時計の振り子の音だけが、かち、かち、と、昨日よりわずかに、遅い速度で、時を刻んでいた。

気のせいだ。そう思いたかった。母が生きていた頃、よくそうしたように、私は自分に小さく頷いた。気のせい。雨音が、声に、聞こえたのだ。古い屋敷では、よくあることだ。風が、柱を、鳴らすこともある。

再び、扉に向き直ろうとして——

——美緒。お戻りなさい。

もう一度、呼ばれた。

今度は、近かった。

私の、耳の、すぐ後ろだった。

息が、止まった。首の後ろの皮膚が、針のように立つ。振り返らなければ、と思うのに、体が、振り返ることを拒んだ。振り返ったら、何かを、見てしまう——その予感が、踵から、脛を這い上がってきた。

それでも、私は、ゆっくりと、首を巡らせた。

誰も、いなかった。

廊下の絨毯の上には、私の靴先の影だけが、長く、垂直に落ちていた。その影のほんの数寸、後ろに——一瞬だけ、別の、薄い影が、重なっているような気が、した。

瞬きを、したら、もう、消えていた。

代わりに、西棟の扉の、鎖が、かすかに、揺れていた。

風は、吹いていなかった。

私は、後退りした。

一歩、二歩。絨毯の上で、踵が、滑った。滑ったというより、滑らされた、という感触だった。掌に、冷たい汗が滲んでいた。握っていたはずの植物図鑑の重さを、途中から、まるで感じなくなっていた。

逃げ出しは、しなかった。

逃げれば、あの声に、追われる気がした。追われれば、きっと、追いつかれる。そういう種類の、呼ばれ方だった。優しい、声の、呼ばれ方だった。

廊下の突き当たりの、樫の扉を、もう一度、見た。

鎖の揺れは、止まっていた。何事もなかったように、二つの南京錠が、鈍く黙っている。けれど、その静けさが、かえって、ついさきほど揺れたのだという事実を、はっきりと告げていた。

私の名前を、知っている。

この家の中の、何かが、私を、名前で、呼んでいる。

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