第1話
第1話
鉄錆と、黴。門を押し開けた瞬間、その二つの匂いが舌の奥に張り付いた。
雨の匂いではない。もっと古い、水を含んだまま何十年も乾かなかった布のような匂いだ。梅雨入り前の夕暮れ、私は母方の遠縁から相続した洋館の前に立っていた。スーツケースの持ち手が掌に食い込んで、指先がじんと痺れている。
——誰も、弾いていないはずなのに。
玄関の扉を押し開けて最初に聞こえたのは、ピアノだった。いや、ピアノそのものではない。鍵盤が叩かれたあとの、残響だけ。音の輪郭が抜け落ちて、余韻だけが、ホールの梁に絡みついていた。
「お待ちしておりました、お嬢様」
三人の使用人が、玄関ホールに一列で立っていた。家令らしき白髪の男、小柄な老家政婦、それから、まだ若い女中。三人とも、深く礼をした。深すぎる礼だった。顔が上がっても、誰一人、私の目を見ない。私の肩の後ろ、誰もいない踊り場あたりに、視線を泳がせている。まるで、そこに本当の主人が立っているかのように。女中の睫毛が、小刻みに震えているのが見えた。
「花城、美緒と申します。今日からお世話になります」
声が、思ったより低く出た。二十歳という年齢より、十も老けた響きだった。返事はない。代わりに家令が無言のまま頭を下げ、片手を広げて廊下の奥を示した。その掌の皺の奥に、何かを呑み込んだような沈黙があった。
靴を脱ぐとき、玄関の板間の冷たさが、靴下越しに膝まで上がってきた。夏に近いはずの、午後六時だった。それでも板は、真冬の河原の石のように、冷えていた。この家を、私はこれから「私の家」と呼ばなければならない。そう思って口の中で呟いてみて、喉の奥が、かすかに干からびた。
天井のシャンデリアが、音もなく、ひとつだけ揺れた。風は、どこからも吹いていなかった。
家令は梶、と名乗った。年は七十を越えているだろうか、眼窩が落ち窪んで、頬骨だけが浮き出ている。彼の案内で、私は屋敷の中をひと巡りした。
ホール中央の大階段、朱塗りの絨毯、磨き上げられたマホガニーの手摺り。立派な屋敷だった。立派すぎた。和洋折衷と聞いていたが、玄関は洋館、奥へ進むと廊下の片側が障子張りに変わっている。ガラスの嵌った格子戸の向こうで、坪庭の苔が、濡れたまま光っていた。
「こちらが食堂、こちらが書斎、こちらが先代の居間でございます」
梶の指が、一つひとつを示す。関節が木の節のように膨らんだ、骨ばった指だった。爪の根元だけが、奇妙にきれいに磨かれていた。まるで、何かを洗い落とした直後のように。私はその指先から、慌てて目を逸らした。
階段を上がって二階に出たところで、私は左手の廊下へ足を向けた。
「お嬢様」
梶が、背後で言った。
その一言だけで、私は足を止めざるを得なかった。声は穏やかだったのに、背骨の一節だけが、氷を当てられたように竦んだ。振り向くと、家令は丁度いい笑みを浮かべていた。丁度、礼儀作法の教本に載っていそうな、完璧に内容のない笑みだった。唇の端が持ち上がっているのに、目尻は一ミリも動いていない。
「二階西棟は、閉めております」
「……閉めて、というのは」
「長らく使っておりませんので。空気も悪うございますし、お嬢様にお見せできるような状態ではございませんのです」
私は彼の手元に視線を落とした。革紐に通された、重たい鍵束。古びた真鍮の鍵が、数えて、十二本。
一本、抜けている。
革紐の途中、鍵と鍵の間に、他より指二本分ほど広い隙間があった。そこにだけ、かつて鍵が下がっていた擦れの跡が、黒く残っていた。他の鍵が触れ合うたびに立てる、ちりん、という乾いた音が、その隙間のあたりでだけ、ふっと途切れる。音が、一つだけ、欠けているのだ。
「——鍵は、どちらに」
「お預かりしてございます」
梶は答えた。どこに、ではなく、預かっている、と。それ以上は、聞けなかった。聞ける空気ではなかった。廊下の奥、西棟へ続く突き当たりの扉は、両開きの樫で、真ん中で二本の把手が絡み合うように鎖で結ばれている。鎖は、素人目にも分かるほど太く、鍵付きの南京錠が二つ、喉を閉じるように噛み合っていた。その鎖の、ごく一部に、赤茶けた染みが薄く残っているのが見えた。血、と、私の喉が勝手に判じた。錆にしては、滲み方が、ひどく人間的だった。
「お部屋へご案内いたします」
梶が背を向けて歩き出した。私は、西棟の扉からもう一度目を引き剥がして、彼に従った。歩くたび、自分の足音だけが、廊下の奥に吸い込まれて消えた。使用人たちの足音は、不思議なほど、聞こえなかった。まるで、足の裏が床に触れていないかのように。
その晩、私に与えられたのは、東棟の奥まった一室だった。天蓋付きのベッド、螺鈿の鏡台、すべてが大仰すぎて、どこに座ればいいのかわからなかった。
私はスーツケースから、父の形見の懐中時計を一つだけ取り出した。銀のケースが、長年触り続けた指の脂で、内側にぼんやりと曇りを残している。蓋を開けると、三つの針が、規則正しく時を刻んでいた。十一時五十七分。
枕元の小さなテーブルに、私はそれを置いた。
家族と呼べる者は、もういない。父は三年前に、母はもっと前に。遠縁からの相続、という知らせが届いたとき、私は自分に血の繋がった誰かがまだ生きていた、ということに驚いた。そして、その人が既に亡くなっていた、ということにも。
布団は冷たかった。シーツの糊がきつすぎて、脹脛に擦れる感触が、どこか罪悪感に似ていた。
——誰かに、呼ばれている。
そう思ったのは、眠り際の錯覚だったのかもしれない。ホールのほうから、また、残響だけのピアノが聞こえた。きん、と一音、澄んだ、けれど遠い音。弦が震えたのではなく、震えた記憶だけが空中に吊るされているような、奇妙な聞こえ方だった。
目を閉じた。
次に目を開けたとき、時計は十一時五十九分だった。私は肘を突いて身を起こした。蓋を開けたまま置いていたつもりだったが、硝子の内側で、秒針がちゃんと動いている。良かった。安心して、もう一度横になろうとして——
長針が、ぴたり、と十二を指した。
そして、次の瞬間、秒針が、逆に戻った。
「……え」
声が、喉で干からびた。
一秒、二秒、三秒。時計の中で、秒針が、確かに反対側へ進んでいく。九、八、七。十一時五十九分の長針は動かず、短針も動かない。けれど、秒針だけが、正確に、逆回りで時を数えていた。歯車の音は、変わらない。かち、かち、かち、と同じ律動で、ただ向きだけが、世界の理に逆らっていた。
私は時計を取り上げた。振った。軽く叩いた。針はびくともせず、迷いもなく、逆方向へ滑っていく。掌の中で、銀のケースが、冷えていた。夏に近い夜の室温より、確実に冷えていた。舐めれば鉄の味がしそうなほど、冷えていた。指の腹が、貼りつくように吸われる。熱を奪われているのではなく、何かに、奪わせている——そんな、理屈にならない感触だった。
どこか遠くで、もう一度、ピアノの響きだけが聞こえた。
廊下の奥から、湿った黴の匂いが、流れてきた。さっきまで、扉の隙間からは漏れていなかったはずの匂いだった。
私は、息を殺して、扉を見た。
鍵はかけていなかった。明日、頼まなければ、と思っていた。いま、思った。後悔は、いつも一拍遅れて、喉の奥を灼く。
扉の向こうで、誰かが、呼吸している気がした。
ひとつ、ふたつ、みっつ——数えるような、ゆっくりした呼吸。しゅう、しゅう、と、壁の向こうから届く。床板の鳴る音はしない。ただ呼吸だけが、扉の隙間から、私の部屋の中へ、ひたひたと這い込んでくる。吸うたびに、部屋の空気がわずかに薄くなる気がした。吐くたびに、黴の匂いが、一段、濃くなる。
懐中時計の秒針が、三十秒の位置で、止まった。
止まった、というより——置かれた、という感触だった。誰かの指が、そっと、針の先端を押さえたような。
「……どなた」
声が震えた。返事はない。
扉の向こうで、呼吸が、微かに、笑みに変わった気がした。