第3話
第3話
屋上の縁を、俺は蹴った。
二度目の飛躍だ。左腕を庇ったぶん、右脚が先に着く。半月板の奥が、今度ははっきり呻いた。体勢を崩しながら肩で転がる。雨水を含んだ屋根が頬を擦る。玲はすでに反対側の非常扉の前に立っていた。着地音は、今度も聞こえなかった。
「血、まだ垂れてる」
「止まらない傷じゃない」
「走れるか」
「走ってる」
非常階段の鉄扉を、玲が肘で開ける。蝶番が低く軋んだ。中は錆の匂い。切れかけの非常灯が赤く明滅して、踊り場の段差に影の階段を描き足している。俺は壁に背をつけ、下方の気配を数えた。五階分下、誰かが昇ってくる。革靴——二人。足幅の広い一人と、半歩遅れる一人。先頭の踏み込みに、躊躇がない。
「偵察じゃない」玲が囁いた。「本隊の先行」
「装備は」
「拳銃と、たぶん短銃身」
階段の手すりに、一瞬、影が伸びる。三階の踊り場、こちらを見上げる顔——革手袋で拳銃を構えた男の顎のラインが、非常灯の赤に浮かぶ。相手も、こちらの位置を読んでいる。
俺は息を吐き切り、手すり越しに二発撃った。一発目が壁を砕き、破片が男の首に刺さる。二発目が肩口を抜けた。倒れる体の陰から、二人目が応射。跳弾が天井配管を鳴らす。熱湯の塊が右耳を掠めて過ぎた。鼓膜の内側で、高い金属音が一瞬だけ鳴いた。
「下、早く」
玲が先に駆け下りる。俺は追う。左袖は雨と血で重い。踊り場を曲がるたび、壁に肩をぶつけた。二階で、肋骨が内側から燃える感覚が届く。呼吸は浅く、歯の裏に鉄の味が戻った。
地下駐車場に降りる鉄扉を、玲が一息で押し開けた。
蛍光灯が半数切れ、湿った油の匂いが充満している。天井の低い、四十台ほどの駐車場。角の柱の向こうに、古い国産ワゴンが一台。ナンバーはない。玲はその車の脇に屈み込み、右の後輪ハウスの内側から、磁石で留められた鍵を剥がした。指の動きが、最短手順を何度も反復した者のそれだった。
「これも仕込みか」
「三日前に置いた」
「準備良すぎだろ」
「足りなければ、私もあなたも今ここにいない」
ドアロックが解けた音と同時に、駐車場の入口側で金属音——シャッターが外から叩かれている。続いて、ガラスの割れる音。本隊が一階ロビーに入った。俺はスロープ側の柱列を目で数える。柱、七本。死角、四つ。
「三十秒で出る」
玲が運転席、俺が助手席。エンジンが一度咳をして掛かる。タイヤが床のオイルを滑らせた。前進、コンクリート柱の間をすり抜ける。出口のスロープへ向かう直前、柱の影から黒いコートが二つ——
マズルフラッシュ。
フロントガラスが白く蜘蛛の巣を張った。正面ではなく、玲の側——運転席側の側面ガラスが、同時に破裂する。
「玲——」
玲は声も出さず、左手でハンドルを切り続けた。右手は下に垂れて動かない。スロープを駆け上がる。衝撃でガラス片が車内に降る。俺の頬にも、首筋にも、小さな刃が当たった。頬の皮膚が一枚、浅く裂ける。右手のグロックを、割れた助手席窓から外へ出す。柱の影に三人。先頭の胸、二発目は咽喉。三人目が柱裏に消える。弾倉、残り六発。薬莢が足元の床マットに跳ねた。
スロープを抜けた瞬間、雨の夜が視界いっぱいに広がった。タイヤが水を切って跳ねる。玲は無言でハンドルを切り、路地の奥へ車体を滑り込ませた。街灯二つ分進んで、ようやく速度を落とす。
「玲、肩」
運転席側の側面ガラスが割れた衝撃で、拳大のガラス片が、黒いコートの布越しに、玲の右肩の肉に深く刺さっていた。コートの繊維に血が染み、黒の上に黒が滲む不穏な模様を作る。玲の横顔は、汗でも雨でもなく、青褪めていた。右手は、まだ動かない。ハンドルを握るのは左手一本。指の関節が、白く浮いている。
「抜くな」玲が先に言った。「動脈に近い。抜けば、ここで止まる」
「病院は」
「病院も組織の範囲。行ける場所は、一つ」
「あんたの仕込み先か」
「最後の一つ」
ハンドルを切り続ける手が、一度だけ揺れた。雨のワイパーが片側だけ動き、割れた視界を斜めに払う。俺は左腕の止血帯の下に、自分の血が新しい熱を持ち始めているのを感じた。片手運転の玲と、片手の射手。二人合わせて、ようやく一人分。街灯が消えた通りが三つ続き、玲の呼吸は、交差点ひとつごとに浅くなっていく。
玲が車を停めたのは、街の外れの、廃業したガソリンスタンドの裏手だった。
屋根の半分が落ちた整備工場。油で黒く染まった床に、ブルーシートで覆われた何かが積まれている。壁の棚に、医療用のパック、缶詰、工具類。隠れ家というには貧しい。だが、ここには組織が踏まないという確信が、玲の動きにあった。鍵の開け方、電灯の位置、床の凹みの避け方。身体がこの場所の地図を、すでに持っていた。
「固定する。手伝え」
俺は運転席のドアを外側から開けた。玲は自力で降りようとして、わずかによろめいた。俺は左腕を犠牲にして、右肩で彼女を支える。血で湿った布の下に、玲の体温が直に伝わる。思ったより、細い。訓練された筋肉の下にある、骨の薄さ。
作業台に玲を座らせた。玲は自分でコートを片側だけ脱ぐ。下のインナーシャツは黒。肩の付け根、ガラス片が皮膚を突き破って三センチ、外に出ていた。傷の周りは、赤ではなく紫に近い色に変わりかけている。
「私が抜く」玲が言った。「あんたは、ガーゼを押し当てる。抜いた直後、二十秒、強く」
「俺がやる」
「あんた、左腕、使えないだろ」
「右腕がある」
玲は一瞬、俺の目を見た。これまでで一番長い視線だった。黒い瞳の奥に、査定するのではなく、ただ人を見る、短い揺らぎがあった。
「——頼む」
俺はガラス片の根元を、できるだけ皮膚に近い位置で指先に挟んだ。玲は作業台の端を左手で掴み、息を細く吸った。胸郭がほとんど動かないほど、浅い呼吸だ。俺はその呼吸の切れ目を狙う。
一気に、抜く。
玲の喉の奥で、音にならない音がした。血が噴き出すより先に、俺はガーゼを肩に押し当てた。掌の下で、熱が脈打つ。二十秒。彼女は瞬きを減らし、天井の梁の一点を睨んでいた。その睨み方を、俺は知っていた。三年前、俺自身が、妹の死体確認の帰りに、火葬場の待合室で同じ睨み方をした。動かないものを睨んで、体の内側を逃がさないようにする、あの睨み方だ。
止まった。
「止血帯、そっちの棚の二段目」
俺はガーゼを押さえたまま、棚から止血帯を取り、玲の肩に巻いた。結び目は、彼女が自分で締めた。左手一本で、歯も使って。唇の端に、俺の血と自分の血が混じって滲む。
「玲」俺は言った。「さっきの話の続きだ」
「命令書の、署名」
「ああ」
玲はコートをもう一度肩に掛けた。指先で、ブルーシートの山を指す。
「あそこに、写しがある。三年前の、警視庁公安部の内部文書。発行元は表向き、経済事犯対策室。実際の発行責任者は——」
玲の唇が、そこで止まった。彼女は一度、天井の穴から落ちる雨の雫を追って視線を下ろし、床の黒い油溜まりに自分の顔が映らないのを確かめてから、口を開いた。
「——私の、元上官」
整備工場の屋根から、雨の雫がリズムを外して落ち続けていた。
「元上官」俺は繰り返した。「あんたの、直接の」
「三年前まで、私の訓練を見ていた人。あなたの妹を『処理対象』として最初にリスト化した人」
俺はグロックの残弾を、もう一度数えた。六発。予備二本。数えた数字の意味を、頭が追いつけない。復讐の射程が、倍になり、そして急に遠くなった。妹の名前の横に、顔も知らない人間の名前が並ぶ。その人間は、玲が三年間、目を見て言葉を交わしてきた相手だった。
「あんたは」俺は言った。「その人を、撃てるか」
玲はガーゼの上から、肩を押さえた。痛みに眉を寄せる。そのまま顔を上げ、俺の目を見た。
「撃たせる」玲は言った。「あなたに」
沈黙。
雨の音だけが、屋根の穴から滴り続けた。
俺は胸ポケットに手を入れた。妹の写真の角が、濡れた布越しに指を刺す。
「玲、その写しを見せろ」
玲はブルーシートをめくり始めた。
——そのとき、整備工場の入口の、ずっと外側。
俺たちが駐めた車の前を、低いエンジン音が一つ、ゆっくり通り過ぎた。テールランプが止まらないまま、二度、短く瞬く。
偶然の車ではない、と頭が告げた。
玲の手が、止まった。