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雨夜の標的、交わる銃口

第2話 第2話

第2話

第2話

タイヤが水溜まりを跳ねる音。

セダンが駐車場のスロープを駆け上がった瞬間、後続のヘッドライトが三組、同時に点灯した。玲がルームミラーを一瞥する。

「予想通り」

「予想していたのか」

「想定した」

ハンドルが左へ切られる。左腕の傷から滲んだ血が、助手席のシートに黒い花を作っている。俺はグロックの弾倉を抜いた。残弾十一発。予備、二本。片手で交換する癖は、指から消えない。

「このまま街中に入ると市民に流れ弾が行く」玲が呟いた。「二区画先、立体駐車場で車を捨てる。非常階段から東口高架下へ」

「打ち合わせ済みみたいな言い方だな」

「あなたの逃走経路は三年前から監視されてる。組織の資料を読んだ。東口高架下は、あなたがいざというとき選ぶ場所」

背筋を、冷たいものが走る。三年分の動線を、他人が見ていた。それも——この女が。雨音の向こうで、自分の呼吸がやけに大きく聞こえる。三年間、俺は自分の孤独だけを信じて歩いてきたつもりだった。その孤独が、じつは観測されていた孤独だったのだと、いまごろ気づく。

後ろの先頭車が車間を詰める。助手席の窓から黒い腕。マズルフラッシュ。後部ガラスに蜘蛛の巣が走った。破片が俺の耳のすぐ横を、熱を伴って飛ぶ。耳の奥で細い音が鳴る。鼓膜がしばらく、水の底に沈んだような聞こえ方をする。

「運転、続けろ」

俺は助手席の窓を降ろし、サイドミラーの端で相手の位置を測った。風で狙いが揺れる。頬に雨粒が叩きつけ、睫毛が重くなる。息を吐ききり、肋骨の奥が空になった瞬間、指を絞った。三発。二発目が先頭車のフロントガラス、運転手側の左端を抜いた。車が急に左に逸れて、二台目と接触する。金属の悲鳴。ヘッドライトの光束が、雨の線を斜めに裂いて回転した。

「立体駐車場、右」

玲がサイドブレーキを一瞬引いて、セダンの尻を振る。タイヤが鳴く。ゲートの遮断バーを、ボンネットで折り飛ばす。薄いプラスチックが砕ける音が、雨の夜に妙に澄んで響いた。

三階。柱の陰。

玲は車を停めずに、走行したまま助手席のドアを俺の側から押し開いた。

「降りて」

「二人まとめてか」

「私は次の階で降りる。尾行を分けないと」

無茶な指示。だが、戦術としては正しい。俺は走る車から、コンクリートの柱の陰に転がり落ちた。肩から、膝、腰、最後に左腕。焼けた傷口に砂粒が入る。視界が一瞬白く飛ぶ。歯を食いしばる。口の中に鉄の味が広がり、奥歯の裏側で舌の端が切れているのがわかった。

セダンのテールランプが上の階に消える。代わりに、スロープの下から足音——四、五人。装備は屋上の班より軽い。拳銃中心、近接戦想定。靴底がコンクリートを擦る音の間隔で、歩幅と重量がわかる。先頭は百八十センチ、八十キロ前後。二番手は少し軽い。三番手は、呼吸が浅い——素人に近い。

非常階段室へ。

鉄扉を押す。蛍光灯が切れかかっていて、踊り場が発作のように明滅する。青白い光と闇の交替のたび、自分の影が三つに増えて壁を這う。俺は壁に背をつけ、扉の向こうの気配を数える。三人。一人目が扉を開けた瞬間、蹴り込む。扉の角が男の鼻梁を砕く音。倒れかける体を楯にして、二人目の胸に二発。三人目が扉の隙間から撃ってくる。跳弾が天井の配管を鳴らす。

俺は床を滑りながら扉を閉め、内側からストッパーを噛ませた。時間稼ぎにしかならない。三十秒もたない。

頭上、四階の方で銃声。玲だ。

非常階段を駆け上がる。左腕の痛みが、鼓動に合わせて脈打つ。一段上がるたび、傷口の奥で小さな星が弾けるように熱がひろがる。四階の踊り場で、玲が一人の首に腕を回して締め落としていた。音もなく、男がコンクリートに崩れる。玲の頬に、新しい擦り傷。髪が額に濡れて張り付いている。彼女の呼吸は驚くほど整っていて、胸郭が一定のリズムで上下していた。訓練の種類が、俺のそれと同系列であることを、その呼吸だけで理解した。

「遅い」

「血、垂らしながら走ってる」

「屋上から隣のパチンコビルに飛ぶ。一メートル八十。あなたの脚力なら届く」

「俺の脚力も知ってるのか」

「全部」

会話を切って、階段を駆け上がる。五階の踊り場で、玲が壁の電源盤を開き、黒いテープで配線を数本、束ねた。

「警報を遅延させる」

指の動きが、こなれすぎている。素人仕事ではない。この女は、このビルの電気設備図まで、頭に入れて来ている。爪の形まで男の手のそれに似せて短く切り揃えられ、指紋のかすれ方まで、現場を何度も踏んだ者のものだった。

「いつから準備してた」

「あなたが屋上に上がる三時間前」

屋上。

雨は弱まっていたが、風が強い。玲が先に走り、隣ビルの外壁に——高さ一メートル八十、幅八十センチの距離——跳んだ。空中で一瞬、コートが翼のように膨らむ。着地音は、ほとんどなかった。

俺も跳ぶ。踏み切りの直前、右足のつま先が屋上の縁の鉄板を捉え、濡れた表面が一瞬、ぬるりと滑った。腹の底が冷える。左腕を庇うせいで、着地の衝撃が右膝に集中する。半月板の奥で鈍い音が鳴った気がする。歯を食いしばる。血と雨の味。

給水塔の陰、玲がしゃがんだ。

「ここで五分、息を殺す」

俺は壁に背を預けた。コンクリートの冷たさが背骨を伝って脳まで上ってくる。左袖を捲る。傷は思ったより深くはない。ただ、血が止まらない。玲が戦闘服の内ポケットから止血帯を出し、黙って俺の二の腕に巻き始めた。手際が、さっきより早い。指先は細いのに、力の掛け方に躊躇がない。皮膚を通して、他人の体温というものを、俺は三年ぶりに意識した。

「玲」俺は言った。「さっきの無線。『対象は二名』。組織は俺の潜入を、知っていた。いつからだ」

玲の指が、止まる。止血帯の端を摘んだまま、彼女はしばらく雨音に耳を貸しているようだった。

「三か月前から」

喉の奥が、乾く。舌が上顎に貼り付いて、しばらく剥がれなかった。

「……どこで割れた」

「あなたじゃない。あなたの情報を扱える階層で、漏洩が起きた。内部の誰かがあなたを売った」

「内部って——お前の側か」

「うちの中にも、向こうの息がかかった者がいる」玲はそう言って、止血帯の端を噛んで締めた。白い歯がちらと見えて、唇の端に俺の血が滲む。彼女はそれを拭わなかった。「だから、正規ルートで動けなかった。だから、私はここに一人で来た」

「一人、ね」

笑おうとしたが、笑えなかった。別の筋肉が頬の奥で痙攣した。

三年。

三年かけて積み上げた潜入が、三か月前から筒抜けだった。最後の三か月、俺は誰のために道具になっていた。妹の墓前で立てた誓いの輪郭が、ぐにゃりと歪む。俺が刺した相手は、本当に俺の敵だったのか。俺の引き金は、本当に俺の意思で落ちていたのか。俺は自分の顔を、雨に任せる。左目の上を、熱いものが一筋、伝って落ちる。雨水ではない自覚があった。三年前、骨壺を抱えたあの夜以来、流していなかった種類の液体だった。

「泣くなら、あとで」

玲が、雨越しに言った。責めている声ではない。どこか、同じ温度の声だった。彼女もまた、どこかの夜に同じ種類の液体を雨に紛れさせたことがあるのだと、その声の厚みで理解した。

「組織は、あんたが俺を助けたことも、もう知ってる」

「知ってる」

「じゃあ、あんたも居場所を失った」

「最初から、居場所なんてない仕事」

玲は立ち上がる。黒いコートの裾から、雨の雫が、屋上のコンクリートに落ちる。

「ここを出る。組織の目録にない廃車置き場に、ひとつ、使える車体が残ってる」

俺はグロックの弾倉を、もう一度確認した。残り九発。

左腕を押さえ、立ち上がる。給水塔の陰から、屋上の縁まで、七歩。

玲の背中を追って、歩き出した、そのとき——胸ポケットの、妹の写真。指先が、紙の角に触れた。角は雨で少し波打ち、何度も撫でて擦れた縁が、指紋の記憶そのものになっている。三年前、俺が引き金を握るすべての動機だったものが、いま、見ず知らずの女の口から語られた「漏洩」という一語によって、俺ひとりの物語ではなくなっていた。

「玲」

「何」

「あんたの見た命令書」俺は言った。「署名、誰だ」

玲の歩みが、止まった。肩の線が、少しだけ下がる。雨音の層が一枚、薄くなったような静けさが、屋上に落ちた。

「それを答えると、あなたは、今夜のうちに組織以外の敵を抱えることになる」

「構わない」

玲は、振り返らなかった。濡れた黒髪の先から、雫がひとつ、コンクリートに落ちる音だけが、俺と彼女の間を繋いでいた。

「——もう少し、近い場所で、話す」

屋上の向こう、夜明けまで四時間を残した街に、黒塗りの車が一台、地面を這うように東へ滑って行くのが、見えた。

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