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雨夜の標的、交わる銃口

第1話 第1話

第1話

第1話

雨粒がスコープのレンズを斜めに叩く。

俺はビル屋上の貯水槽の陰で、ライフルの床尾を右肩に当て直した。鉄の匂い。遠くで発酵した生ゴミの匂い。コンクリートの冷たさが肘に染みる。息を止め、心臓を数える。一、二、三——四拍目の谷間で、引き金の遊びを潰す。

照準の先に、男がいる。

三百メートル先、向かいのオフィスビル八階。会議室の窓。柏木哲也、四十二歳。組織の物流統括。三年前、俺の妹——真奈——を殺せと命じた男だ。

「また左肩を掻いてる」

イヤホンに、自分で録音した自分の声を流す。標的の癖を、確認するため。男は左の僧帽筋を指でつつく。間違いない、こいつだ。会議室の蛍光灯が、男の額の脂を鈍く光らせている。白いワイシャツ、紺のネクタイ。胸のあたりに、赤い花弁のような影が落ちている——血ではない、ただのネクタイピンの反射だ。だが俺の目には、もう何度もそこに血が見えた。

指先はかじかんでいる。だが、震えはない。三年間、この瞬間を手のひらに刻んできた。潜入先の警備会社では「有能な新人」を演じてきた。昼は笑って挨拶し、夜はこうして屋上に這いつくばる。妹の骨壺の軽さを、忘れたことはない。片手で持ち上げられる重さ。十八年分の体温が、あんなに軽くなる。火葬場の職員が「軽い方ですね」と業務的に呟いた、あの声まで、いまも耳の奥に貼りついている。

引き金に、指をかける。

——視界の端で、何かが動いた。

双眼鏡を持つ、黒いコートの女。

二つ隣のビルの非常階段。欄干に腰をつけ、同じ会議室を見ている。俺の射線と、完全に平行。標的が、同じだ。

指が、止まる。

雨の音に紛れて、自分の呼吸が急に大きく聞こえる。心臓が肋骨の内側を殴る音まで、他人事のように遠くから届く。舌の奥に、金属の味。集中が切れたときに、いつもこの味がする。

女は俺に気づいていない——ように見える。だが、この角度からあの会議室を狙える位置は、このブロックに二つしかない。偶然ではない。

「……誰だ、お前」

独り言が、ほどけた。

姿勢が崩れない。双眼鏡を持つ左手、右手は腰のあたり。コートの裾から覗く靴はゴム底の戦闘靴。素人じゃない。首の角度、肩の落とし方、雨に濡れた髪が額に張り付いても瞬きひとつしない目。訓練を受けた人間だけが持つ、静けさだ。雨音のなかで、女の輪郭だけが周囲の騒がしさから切り離されているように見える。音を出さずに動くための筋肉の使い方を、骨から教え込まれた人間の背中だ。肩胛骨の下に、呼吸の揺れすら見えない。

警察か。公安の特殊班か。それとも——組織の別班か。

後者なら、今ここで俺を消しに来た可能性もある。

柏木はまだ窓際にいる。会議は長引いている。距離、三百。風、右から三メートル。湿度を考慮して弾道を一センチ下に引く。条件は、整っている。

だが、引けない。

女が先に撃ったらどうなる。俺の発砲タイミングで標的が倒れても、誰が撃ったのか判別できなくなる。三年間、温度を保ってきた復讐が、他人の手柄の中に消える。

妹の死を、誰かの戦果にされるわけには、いかない。

胸ポケットに指を入れる。写真の角が、爪の先に当たる。十八歳の妹。制服のリボンを斜めに結ぶ癖があった。最後にそうして結ばれたリボンは、検死報告書のビニール袋の中で、黒ずんだ血に固まっていた。写真の端は、三年のあいだに汗と雨で波打ち、妹の笑顔は少しずつ滲んで、輪郭だけが残っている。それでも俺には、そこに真奈が立っているのがわかる。ピアノの発表会のあと、上履きのまま駆け寄ってきたあの日の、少し上気した頬の温度まで、指先が覚えている。兄貴、と呼ぶときの語尾が跳ねる癖。夕飯のカレーを三回おかわりして、皿の縁を舐めそうになって慌てて止めた、あの照れ笑い。全部、この写真の奥に、まだ折り畳まれている。

「——真奈、悪い」

口の中で、言う。今夜は、撃たない。

ライフルを下ろす瞬間、女がこちらに顔を向けた。

雨越しに、目が合う。

黒い瞳。濡れた前髪の奥で、瞳孔が小さく絞られる。敵意とも共感とも違う、査定するような視線。相手を殺すか、使うか、捨てるかを一瞬で選り分ける目——俺自身が、ずっと鏡で見てきた目だ。

女の右手が、わずかに動いた。敵意か。警告か。俺は屋上の低い壁の陰に身を沈める。コンクリートの角で、頬が擦れる。鉄錆と血の味が、口に滲む。

そのとき、胸の内ポケットで業務用無線が鳴った。

押し殺した男の声。

「E班、屋上視点に不審者確認。処理許可を要請」

背筋が、凍る。

「E班」は俺が所属する班だ。要請しているのは、俺自身ではない。

つまり——俺の上に、誰かいる。

貯水槽の陰で、俺は無線のチャンネルを切り替える。暗号解除、管理者階層。三年かけて盗んだ権限だ。一度使えば痕跡が残る。だが、使わなければ死ぬ。

「——処理許可、下りた」

別の声。柏木の側近。口の粘りに、聞き覚えがある。倉庫の帳簿を確認していたときに、背後で通話していた男。あの粘着質な母音は、一度聞けば忘れない。

「対象は、二名」

心臓が、跳ねる。

二名。女と、俺。

組織は、俺の潜入を、知っている。いつからだ。いつから泳がされていた。

頭の中で三年分の記録が早送りされる。偽造IDを出した日。最初の内部メールを転送した夜。倉庫の夜間巡回を買って出た週。——どこで割れた。手のひらの汗が、ライフルのストックに薄い膜を作る。この三年、俺は自分を「有能な駒」だと信じていた。だが、盤上で駒を動かしていたのは、俺のほうではなかったのかもしれない。

考える時間は、ない。

女に伝える手段がない。隣ビル屋上まで八十メートル。間に片側二車線の車道。階段を降りて合流すれば三分。その三分を、こちらが先に閉じ切る。

屋上の鉄扉が、開く音。

複数。四人。ブーツの重さ、突入装備。

俺はライフルを床に置く。長物は狭所で邪魔だ。腰のホルスターからグロック。弾倉、十七発。予備、二本。

貯水槽の角から覗く。先頭の男のシルエットが、扉から五歩。

低く、滑り出す。先頭の男の膝裏に、肩で体当たり。倒れる重心を利用して、二番目の顎に拳を突き上げる。歯が砕ける感触が、拳骨を伝って肘まで登る。

——銃声。

遅れて、三番目がこちらに発砲する。

左腕に、焼けた鉄を押し当てられたような衝撃。二の腕の内側、骨には届いていない。筋肉の浅い層を弾が抜けた、と経験が勝手に診断する。痛みより先に、熱が来る。湯を浴びた直後のような、奇妙に穏やかな温度だ。

撃たれた、と頭が認識する前に、右手のグロックで応射。三番目の胸に二発、四番目の顎下に一発。薬莢が水たまりに落ちて、澄んだ音を立てる。血と硝煙の匂いが、雨の冷気に混じる。

扉の向こうで、足音が止まる。応援が、来る。

左袖が、重い。肘まで、温かい。

隣ビルを見る。

女の姿が、消えていた。

扉に向かって走る。踊り場の手すりを飛び越え、二段飛ばしで降りる。靴底がコンクリートの濡れを弾いて、何度も滑りかける。三階分降りた階段の角で、影が俺の行く手を塞ぐ——黒いコート。

「こっち」

女の声。低く、息が乱れていない。

「車を回した。従え」

俺は銃口を一度、女の額の高さで止めてから、下ろした。女は瞬きしない。銃口に怯えたのではなく、こちらの判断を待っていた。その沈黙に、俺は先に負けた。

「あんた、何者だ」

「白瀬玲。特殊部隊」

女は俺の目を見ずに、階段の下へ歩き出す。

「あんたの正体も、妹の名前も、全部、知ってる」

妹の名前、という四文字が、鼓膜の裏で反響する。真奈。この三年、誰の口からも聞かなかった名前が、見ず知らずの女の口から、こんな場所で零れた。

地下駐車場まで降りきったところで、女が足を止めた。

黒いセダン。ナンバーは、ない。

助手席に押し込まれる寸前、女が俺の左腕を掴んで短く圧をかけた。止血。動きに、迷いがない。指の置き方、圧の方向、時間の切り方——戦場の応急処置ではなく、人を生かす仕事を何度も通過してきた手だ。

「撃たれ慣れてるな」

「あなたも」

エンジンがかかる。タイヤが鳴く。出口のシャッターは、こじ開けられた痕がある。誰かが、ここまで先に動いている。

「白瀬さん、と呼べばいいのか」

「玲でいい」

「なぜ俺を助けた」

女は前を見たまま、ハンドルを切る。横顔に、駐車場の非常灯が赤く走り、また消える。その明滅のなかで、玲の唇が一度だけ、きつく結ばれた。

「あなたの妹を殺した命令書——私は、見た」

言葉の切り方が、嘘をつく人間のそれではなかった。短く、余白を残さず、しかしどこか、自分でも堪えきれずにこぼした一文のように、湿っていた。

雨が、フロントガラスを斜めに叩く。

俺は胸ポケットの写真に、手を置いた。

引き金にかけたままの指が、さっきとは違う理由で、震えていた。

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