第2話
第2話
家の鍵穴に差し込む指が、自分のものでないみたいに浮ついていた。
玄関の三和土で靴を脱ぎ捨て、洗面所で手を洗う。蛇口から出てきた水は、最初の一秒だけ生ぬるい。祖母が死んでから、この家の水は夏でも妙に冷えない。誰かが先に使ったあとみたいな、ぬるさだけが配管に居残る。石鹸を泡立てる掌の皺に、その生ぬるさが馴染んでいく。鏡の中の自分の頬は、白いのか赤いのか、蛍光灯の下では判別がつかなかった。瞼の縁だけが、熱を持ったように腫れぼったい。
タオルで指を拭うと、洋館で付いた壁紙の糊のかけらが、爪の間に残っていた。小さな白い屑を、爪楊枝で掻き出す。掻き出しながら、自分がなぜこんなに丁寧に取り除こうとしているのか、よく分からない。持ち帰ってはいけないものを、持ち帰ってしまった気がするのだ。爪楊枝の先に載った屑を、トイレに流す。水が渦を巻いて消えるのを、普段より長く見届けてしまった。流れきったあとも、便器の底の水面が、まだ何かを含んで波打っている気がした。
部屋に入って鍵をかける。学習机の上にレコーダーを置いて、私はその赤いランプをしばらく見つめた。机の木目が、今夜はやけに生々しく浮き上がって見える。引き出しの取っ手の金属が、蛍光灯を反射して、針の先ほどの光点を作っている。その光点だけが、今この部屋で動いていないものだった。
三時間前、街灯の下で見たとき、ランプは録音中を示す赤のまま灯っていた。止めたはずなのに。けれど、いま机の上で、ランプは黒く沈んで死んでいる。電池は切れていない。残量も十分にある。液晶のバッテリーアイコンは、満タンを示すバーを四本、行儀よく並べていた。私はその四本を、意味もなく二度、指先でなぞった。
私はイヤホンのジャックを挿した。白いケーブルが、蛍光灯の下でやけに頼りなく見える。コードの途中にある小さなマイク部分が、蛇の頭のように垂れ下がって、微かに揺れた。私の息で揺れているのか、それとも別の気流なのか、判別はつかなかった。
耳に挿す前、爪が掌の内側に深く食い込んでいることに気づいた。手のひらに四つ、小さな三日月が並んでいる。それは、私が洋館を出てから家に着くまでの、二十三分のあいだにできたものだった。痛みを感じなかった自分のほうが、少し怖い。
鼓動を一つ待って、再生ボタンを押した。
耳の奥に、洋館の湿気が戻ってくる。
戻ってきたのは匂いではなく、あの夜の呼吸と、一階の足音と、ICレコーダーを壁に押しつける微細な衣擦れだった。録音は驚くほどよく拾っていた。私自身の、浅くて短い呼吸。壁の奥の、深くて粘りのある呼吸。ふたつの呼吸が交互に、やがて折り重なるように、部屋の中に立ち上がってくる。イヤホンの小さなドライバが、耳の産毛を内側から逆立てるようにして、洋館の空気をこの部屋に注いでくる。六畳の学習部屋の四隅が、いま、あの埃っぽい壁紙の匂いに塗り替えられていく錯覚があった。
「——こんばんは」
録音の中の私が、囁く。声が震えている。自分の声を自分の声として聴くのは、いつも少し気持ちが悪い。舌が厚く、鼻に抜ける息が湿っぽい。加えて今夜は、その声の裏側に、自分でも気づいていなかった甘えが混じっていた。誰かに聴いてもらいたがっている響き。呼びかけ、というよりも、差し出し、に近い声。
数秒の沈黙のあと、壁の向こうで、あの女の声が応えた。
「おかえり、おかえりなさい」 「長かったねえ」
布団を被らなくてよかった、と思った。布団の中で聴いていたら、この声の輪郭が、綿越しに丸められてしまっていた。いま、イヤホンの振動板の薄い膜を通して直接鼓膜に触れる声は、耳たぶの裏側に、生温い舌先を当てられているのに似ていた。膜一枚を隔てた向こうで、声がわずかに濡れている。唾を飲む音、唇が開くときの粘りの剥がれる音、そういう人間の内側の音までが、ぜんぶ収録されていた。
一度、巻き戻す。もう一度聴く。
再生速度を半分に落とす。音程が下がり、女の声は男の呻きに近づくけれど、語尾が糸のようにほどけていく癖は、そのまま残っている。半速にすると、呼吸のあいだの、本来なら知覚できない細かな空気の震えまでが、膜を張ったように耳に届いた。機械が拾いすぎたのだ、と自分に言い聞かせる。でも、そう言い聞かせる声すら、耳の中の女の語尾に吸い込まれていく。
「おかえ——り」
伸びた音の尾に、別の音が貼り付いているのに気づいた。
語尾のあと、一拍置いて、もうひとつ、音節が続いている。通常速度では「おかえり」の余韻に紛れて消えていた何か。私はその部分だけ、さらに遅くした。四分の一速。
音は、分離した。
「おかえり、はるか」
——名前。
喉の奥で、唾の塊が一度、言うことをきかずに鳴った。コクリ、という自分の嚥下音が、イヤホンを通さない現実の音として、部屋の空気を震わせた。その震えが、レコーダーのマイクに拾われているのかどうか、ふと気になった。気になった瞬間、机の上の赤いランプが、一度だけ、瞬いた気がした。気のせいだ、と思おうとした。
ふじしろ・はるか。十六歳。
苗字までは言っていない、と最初は思った。でも、もう一度、一番遅い速度で聴く。語尾の向こう側で、それは確かに繋がって囁かれていた。
「おかえり、ふじしろ・はるか」
名前を、呼ばれている。私の、フルネームを。
祖母の葬儀以来、この家でフルネームを呼ばれたことはない。母は私を呼ばない。学校の名簿は苗字だけで、部活には入っていない。医者の問診票でさえ、私は下の名前の欄を自分で書き、自分で読み上げる。藤代春香、と自分で書いた字が、いつも少しだけ歪むのは、その名前が自分の口から以外で発音される機会を、ずっと失っているからだ。
それなのに壁の奥のあの声は、私の名前を、知っていた。書類のひらがなを読み上げるような平板さはなく、毎日、朝と夜、何千回も口にしてきた人の、舌に馴染んだ呼び方だった。音節のひとつひとつに、愛撫のような抑揚が載っている。「は」で軽く息を含み、「る」で舌先を上顎から離し、「か」で口の奥を開く——そのぜんぶを知り尽くした唇の動きだった。
指が勝手に停止ボタンを押していた。
耳が熱い。肋骨の内側の、昨夜と同じ場所が、また熱い湯を注がれたようにぬるむ。みぞおちから下腹にかけての皮膚の裏側が、薄く汗ばんでいる。セーラー服の下で、鎖骨の窪みに溜まった汗が、一滴、胸の谷間に向かって落ちた。
これは、まずい。
理性のどこかが警告を鳴らしている。けれど、もう一方で、もっと深いところが、その湯のぬるさを、もう一度浸りたがっている。
私はもう一度、再生ボタンを押した。今度は通常速度で。耳の中で「おかえりなさい」「長かったねえ」が繰り返される。その優しい語尾を、舐めるように聴いていた、まさにそのとき——
背後で、もうひとつの声が、重なった。
「——おかえり、ふじしろ・はるか」
生温い息が、うなじに触れた。
イヤホンの中の声と、背後の声が、完全に同じ周波数で、完全に同じタイミングで、私の名前を呼んだ。ステレオの右と左ではなく、鼓膜の内側と外側から。内側の声は膜を震わせ、外側の声は後頭部の産毛を撫でた。二つの声は一度も食い違わず、一拍のずれもなく、私という器を両側から同時に挟んだ。
動けなかった。
振り向けば、見る。見たら、たぶん、戻れなくなる。膝の裏の血が、一瞬だけ、氷水になる。座面と太腿のあいだに、冷たい汗の薄い膜が張る。椅子の脚が床を擦るかすかな音も、立ててはいけない気がした。呼吸さえ、吸うか吐くか、どちらを先にすべきか分からなくなる。
イヤホンを、引き抜く。
ジャックが机に落ちて、硬い音が鳴った。途端に、背後の声も消える。耳を澄ます。家の中は、いつも通りの、死んだような静けさだった。冷蔵庫のコンプレッサ、壁時計の秒針、配管の奥で水滴が落ちる、ぽつ、ぽつ。それだけ。
私はゆっくり、本当にゆっくり、椅子を回した。椅子の軸受けが、いつもより高い音で軋んだ。九十度、百二十度、百八十度。視界の端を、部屋の壁紙の模様が、ひと塊ずつ流れていく。
部屋の隅には、昨日の制服と、読みかけの文庫本と、祖母の形見のブローチを入れた小箱。それ以外、何もない。鍵は、閉めたままだ。カーテンの裾の折り返しも、朝のままの角度で床に触れている。誰かが踏んだ気配は、どこにも残っていない。
安堵、よりも先に、違和感が胸を押した。
机に戻り、レコーダーを見る。液晶に表示された録音ファイルの数が、さっきより一つ、増えていた。
ファイル名の時刻は、いま、この瞬間。
再生すると、私の部屋の、私の鼓動と、背後で短く息を吸う、もうひとりの誰かの呼吸が、二重に録れていた。呼吸の主は、私の真後ろ、椅子の背もたれから三十センチもないところに、確かに立っていた。そしてその息遣いは、イヤホンの中であの女が「はるか」と囁いたときの、唇の開き方と、まったく同じ湿り気を帯びていた。
——鍵のかかった部屋の中で。
布団を被るのも忘れて、私はレコーダーを両手で握り、自分の顔の前に掲げた。赤いランプは、またひとりでに、灯りはじめていた。