第1話
第1話
旧洋館の壁に耳を押し当てると、剥がれた壁紙の糊が頬に張りついた。
午前三時十二分。懐中電灯の光はわざと絞ってある。三階の東端、取り壊しまであと六日のこの部屋で、私は壁一枚の向こうに意識を集中していた。ICレコーダーのメーターが、小さく三本、揺れる。
風でも、鼠でもない。もっと規則的な、呼気に似た震え方だった。
「……くる」
口の中でつぶやいた自分の息が、壁の冷たさに吸い取られていく。埃と黴、その奥にわずかな鉄錆の匂い。舌の裏に湿った金属の味が滲んだ。
私の名前は藤代遥、十六歳。趣味は、取り壊しが決まった廃墟に忍び込んで、そこに居着いた怪談を録音すること。
危ない、気持ち悪い、寂しい子。そう言う人がいるのは知っている。でも、他人の足音や咳払い、家鳴り、壁の向こうの泣き声——そういう音の層の中にいるときだけ、私は自分の輪郭を確かめられる。祖母が死んでから、家はずっと静かすぎる。
学校でも、家でも、誰の声も私を呼ばない。だから私は、見知らぬ誰かの声をテープに集める。
この旧洋館は、私のリストの中でも特別だった。築九十年。戦後すぐに一度焼け、地下だけ残して建て直されたらしい。近隣の掲示板には、三階から女の泣き声が聞こえるという書き込みが五件、地下で呼ばれたという書き込みが二件、残っていた。
私は息を殺す。メーターが、今度は四本まで上がった。
壁の中で、何かがゆっくりと、息を吸った。
吸って、一拍、とろりと溜めて、吐く。肺のひだを一枚ずつめくって空気を通しているような、粘度のある息遣いだった。吐き出された分の空気が、壁紙の糊と混ざって、私の頬にぬるく触れたような錯覚がある。
私の息ではない。マスクをしていない私の呼吸は、もう少し浅くて、短い。壁一枚を隔てた向こう側にあるそれは、深く、長く、ゆったりと吸って、吐く。肺が大きい。少なくとも、子どもではなかった。
胸骨の裏で、心臓が一度だけ跳ねた。
静かに、けれど逃げ出したいほど丁寧に、私はレコーダーを壁に寄せる。指先が微かに汗ばんでいて、黒いボディに小さな指紋がつく。指紋を拭う余裕さえ、今はない。
かつ、と、遠くで床板の鳴る音がした。
音は一階からだ。廃墟に入るのが私ひとりでないこともある。解体業者の下見、肝試しの高校生、野良猫。だから音そのものには驚かない。驚いたのは、壁の奥の呼吸が、その足音と同時に止まったことだった。
耳を澄ます。呼吸は、止まったのではなかった。止める、ために、止めた。そういう間合いの止まり方だった。
——聞こえている。
こちら側の気配が、壁の向こう側に届いている。
耳の奥で、自分の鼓動が二重に聞こえた。ひとつは私の胸の奥から。もうひとつは——壁の向こうから、薄く、追いかけるように。
私は口だけで、声を出さずに数える。いち、に、さん。四つ数えたところで、足音は階段のほうへ遠ざかっていった。猫か、それとも私の気のせいか。壁の奥で、再びゆっくりと空気が流れ出す。
録音を止めずに、私は囁いた。
「……こんばんは」
返事を期待していたわけではなかった。録音の合間に、私はよくこうやって独り言を入れる。後で聴き返したとき、これが何月何日のどの廃墟かを自分に伝えるための、しおりのようなものだ。
でも、そのとき壁の奥で、かすかに、衣擦れのような音が鳴った。
ずり、と、誰かが姿勢を変えたのだ。
「ここ、取り壊すって、知ってますか」
私は続けた。口調は平気を装ったのに、声は軽く震えていた。震えるたび、制服のポケットの中で、予備電池の角が太腿をこつんと打って戻る。
「あと六日で、あなたも、この壁もなくなるんですよ」
それは嘘だ。壁の奥に誰かがいるとして、その誰かが生身の人間だとは思っていなかった。生身なら、今すぐ逃げている。いるのは「人間だったもの」で、だから伝えたのだ。ここはもうすぐ終わりますよ、と。
壁の中で、呼吸が、少しだけ笑った気がした。
笑う息の切れ方は、年配の女の人に似ていた。祖母が、夕方のテレビで浅く笑っていたときの、あの感じ。喉の奥だけで空気を区切る笑い方。
私は唐突に、ここにいる理由を見失いそうになる。
怖い、のではない。
——懐かしい、のだ。
胸の奥の、普段は触らない場所が、ぬるく溶ける。こんな感覚は、祖母の通夜のときに焼香の煙を吸った、あの一瞬以来だった。
そんなはずはない。私はこの洋館に来たことがない。ここで呼吸しているなにかを、知っているはずがない。
レコーダーのメーターが、ぴたりと止まった。
次の瞬間、壁の奥で、声が形になった。
「……おかえり」
低く、くぐもった、女の声だった。
息をするのを忘れて、私は壁に耳をめり込ませるほど押しつけた。壁紙の下、古い漆喰のひび割れから、声は染み出てくる。
「おかえり、おかえりなさい」
二度、三度、繰り返される。
「長かったねえ」
語尾が少しだけ伸びて、糸のほつれのように空中でほどけていく。その伸び方には、叱責も哀切もなく、ただ、ずっと見ていたものをようやく抱き止めるような柔らかさだけがあった。
知らない声だった。母のものではない。祖母のものでもない。テレビでもラジオでも、一度も聴いたことのない声。けれど、どこか、骨のかたちを言い当てられたような、皮膚の下をまっすぐに呼ばれたような親しさがあった。なのに、私の肋骨の内側が、熱い湯をゆっくり注がれたみたいに疼いた。その疼き方は、幼い頃に高熱を出したとき、祖母が私の額に手を置いてくれた、あの体温に似ていた。
誰か、が、確かに、私を、待っていた。
何年も、何十年も、ここで。灯りのない部屋で、壁紙が剥がれ落ちていく枚数を数えながら、私の足音だけを他の無数の足音から聴き分けようとして。そう考えた瞬間、涙が一滴、睫毛の先で留まって、落ちるより先に頬の上で冷えた。
膝から力が抜けて、私は壁に縋るようにしゃがみ込む。床の埃が制服のスカートに貼りつき、冷たさが太腿の裏まで這い上がってくる。レコーダーのランプは、変わらず静かに赤く灯っていた。ちゃんと録れている。この声は、ちゃんと、機械の中に残っている。
「……誰」
私は訊いた。返事はなかった。
「誰、ですか」
返事のかわりに、壁の奥で、何かが壁を、軽く——撫でた。
皮膚と壁の、ほんの一ミリの隙間を、冷たい空気がさっと通り抜ける。耳のすぐ裏を、他人の指先が通り過ぎたような錯覚。反射的に振り返ったけれど、そこには割れた窓から差し込む街灯と、私自身の影しかない。
振り返って、分かった。
声は壁の奥にある。けれど、その気配は、もう壁一枚の向こうではなかった。
振り返る私の背中を、向こう側から、撫でている。
ひやり、と、首の後ろで汗が冷える。逃げなくては、と頭では分かっているのに、私は立ち上がれなかった。
胸の奥のぬるい疼きが、立ち上がることを、拒んでいた。
膝の裏の静脈が、床の冷たさに触れるたび、脈を打つ速度をひそかに鈍らせていく。
この声から、離れたくない。
気がつくと、私は自分の口を押さえていた。口を押さえたのは、悲鳴を堪えるためではなかった。
「ただいま」と、言いそうになったからだ。
こんな、聞き覚えのない声に、向かって。家でもないここで。血の繋がりも、顔も、名前も、なにひとつ知らない相手に。私は、「ただいま」と、言いそうになった。
言えば、何かが、終わってしまう気がした。
同時に、言えば、何かが、ようやく始まる気も、した。
レコーダーのメーターが、一度だけ、大きく振り切れた。
三階の奥で、古い時計が三時半を鳴らした。
私はようやく、ほとんど四つん這いのまま壁から離れ、レコーダーだけを胸に抱えて三階を出た。階段を下りる足が、自分のものでないみたいに軽い。心臓だけが、まだ壁の向こうに置き忘れてきたように、激しく鳴っている。
洋館を出て、街灯の下でイヤホンを耳に挿し、震える指で再生を押そうとして、私は止めた。
ここで聴いてはいけない。
勘だった。けれど、確信に近い勘だった。
家に帰って、鍵をかけて、布団を被って、それから聴かなくてはいけない種類の音だ。そう、身体が知っていた。
懐中電灯を消すと、振り返った洋館の三階、さっきまで私が耳を当てていた壁のあたりの窓から、一瞬だけ、何かが動いた気がした。白い、袖のような、手招きのような。
気のせい、と言い聞かせる。
レコーダーの中で、ランプはまだ、赤く灯り続けていた。
録音は、とっくに止めたはずだった。