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灰色の侍女は後宮の密室を解く

第2話 第2話

第2話

第2話

「自害で、まちがいございませぬ」

 禁軍隊長・趙敬の低い声が、朝の埃を散らしながら部屋を渡った。凛花は雑巾を握ったまま、膝の冷たさだけを意識していた。板敷きは、秋織の体温を吸い取ったあと、ただ冷えていく。冷えた板は、膝の骨を芯まで噛み、痺れは腿の付け根までのぼってきていた。沈香の薫りは既に薄れ、そのあとを、鉄の匂いと、湿った絹の匂いが埋めていた。窓格子から差し込む朝の光は、床に落ちた血だまりの縁だけを、妙に明るく照らし出している。その明るさを見ないように、凛花は雑巾を絞る。水桶の底で、布の重みが、鉛のように沈んだ。

「閂は内側、窓の閂も内より落ち、薫妃さま以外に出入りの痕はござらぬ。おそらくは、己の咎を重く負うたものと」 「咎、とは」  宦官のひとりが問う。趙敬は軽く咳払いをした。喉の奥で鳴ったその音は、どこか満足げで、すでに台本を読み上げている者の声だった。 「貴妃さまの御器物を、秋織がしばしば内々に持ち出していた、との証言がある」

 ——そんな証言を、誰が、いつ、どこで拾い上げたのか。

 凛花は眼を伏せ、指の腹で、絨毯の毛足に潜んだ茶葉を一粒ずつ摘み取っていった。摘みながら、耳だけが冴えている。結論は、既に三行で畳まれつつある。盗みの発覚を恐れた女官が、貴妃の私室に押し入って、己の喉を裂いた——そういう筋書きが、部屋の空気に織り上げられていく。縫い目は粗いが、書庫に収める報告書としてなら、十分に通る。物語とは、筋が通れば、真実よりも先に人を納得させるものだ。そして一度書かれた筋書きは、墨が乾くより先に、人の記憶に根を張る。三年前の己が、まさにそうだった。

 眠れ、と己に命じた。末端女官の仕事は、床の血を拭うことだけだ。口は、縫うためにある。開くためではない。繰り返しながら、雑巾を絞る。水桶の水は、もう薄紅に濁っている。濁りの中で、凛花の指は白く浮いて見えた。三年前、別人だった頃の、絹ばかり触っていた指の名残が、爪の形にだけ、まだ残っている。

「そこの灰色。遺体の手を拭け。爪の汚れは、検分のあとで構わぬ」

 趙敬の命が落ちてきた。凛花は黙って頭を下げ、秋織の左手に掛かった薄布を、指先で静かに捲り上げる。

 ——見るな。

 心がそう叫んだ。叫んだ声の奥で、もう片方の声が静かに応じていた。見なければ、朱音の、あの声は、二度と誰にも届かぬ。

 ひんやりとした手の甲を、濡れた布で拭う。爪は冷気で青く、先端に血が薄く滲んでいる。秋織の指は、生前の働きの跡そのままに、親指の腹だけ皮が厚く、薬指の付け根には針だこが小さく盛り上がっていた。朱音と遊んだ幼い日、この指は凛花の髷を梳いたこともある。竹櫛を握るその手の力加減まで、覚えている。その血を拭き取るふりをして、凛花は息を止めた。左手の中指、爪と皮膚の境目に、細い一筋が、光を弾いていた。布の繊維ではない。髪でもない。撚りのかかった、きわめて細い縫製糸だ。

 指の腹で、そっと一片だけ引き抜いた。糸の端は、何かに強く引かれたときの、ささくれた切れ口をしていた。引き抜く瞬間、爪のきわで小さく肉が抵抗する感触があった。秋織が、何かの衣をつかみ、握り込んだまま引き剥がされた——そう教える、柔らかな抵抗だった。窓からの薄光にかざすと、芯に金箔が巻かれている。その外を、紫とも緋ともつかぬ、深い艶のある色糸が覆っていた。艶は、朝日を吸っては返し、返しては吸い、まるで呼吸しているようだった。後宮の縫製房では、最上級の絹糸でも、この色は裁つことを許されない。許されぬどころか、一筋でも身に纏えば、衣裳監で記録が取られ、持ち出した者は鞭打ちになる。

 禁色。

 宮中で、ただ一人の指にだけ許される色——皇帝専属の縫製糸。

 凛花の背筋が、一瞬で、板のように冷えた。三年前、己を追放した詔を封じた蝋に、同じ色の糸が結ばれていたのを、指が覚えていた。詔を受け取ったとき、封印を解いた己の指先に、その糸の艶が絡みついた感触を、皮膚が今も記憶している。——見間違えるはずもない。耳の奥で、三年前のあの日の、衣擦れの音が甦った。玉座の前に平伏した膝頭に、同じ艶の糸が、敷物の端から一筋だけ覗いていた。あの一筋を、己は、死ぬまで忘れることがないと悟った朝だった。

「灰色、何をしておる」

 趙敬の視線が飛んだ。凛花は、糸を握り込んだ掌を、遺体の胸の上に伏せたまま、静かに拭う動作を続けた。掌の中で、糸は、まるで小さな針のように、熱を持ち始めていた。 「爪の間に、血が凝っておりましたゆえ」 「そのようなもの、あとでよいと申したはずだ」 「はい。——失礼いたしました」

 頭を下げる角度を、一分深くする。うなじに、趙敬の視線が刺さるのを感じた。数えるほどの呼吸のあいだ、その視線は凛花の髷のあたりに留まり、やがて、関心を失ったように離れていった。趙敬は鼻を鳴らし、宦官の方へ向き直った。 「報告書の文面を整えよ。貴妃殿は三日、禁足。薫妃さまのご不調を口実に、外部への言上は止める」

 口止め、と凛花は心中で呟いた。宮中で最も手慣れた作法だ。事件は自害とし、薫妃の衝撃は病として伏せ、部屋は清められ、絨毯は焼かれ、秋織の骸は夜明け前に門外へ運び出される。三日もあれば、誰の口にものぼらなくなる。——三年前、己の名も、ちょうどそのように消された。消されたあとに残ったのは、名を呼ばれなくなった自分の舌と、誰にも呼びかけなくなった自分の喉だけだった。

 掌の中の糸が、汗で濡れてきた。握り込んだ指の腹で、撚りの方向を数える。右撚り、二本合わせ、芯に箔。縫製房の帳簿を引けば、誰が、いつ、どれだけの尺を受け取ったのか、必ず記録がある。——が、その帳簿は、内侍省を経ねば閲覧できぬ。そして内侍省を差配するのは、宦官長・徐豊。凛花が後宮を追われた三年前、詔を読み上げたのも、同じ男だった。あの男の声の、妙に湿った抑揚を、凛花は、まだ、指の骨で覚えている。

 糸を報告する。つまり、この糸が縫い込まれた衣を纏う者——皇帝・玄月その人に、嫌疑の矢を向けることになる。末端女官が指一本で、帝の名に泥を塗る。そのような真似をすれば、秋織の隣に、もうひとつ布が並ぶだけだ。いや、布さえ与えられまい。名も、骸も、等しく井戸の底に落とされて、誰の記憶にも引っかからぬまま、水の重みに潰されていく。

 眠れ。糸を捨てよ。知らぬと言え。——繰り返し、己に言い聞かせる。

 だが、指は開かなかった。糸は、掌の熱を吸って、少しずつ柔らかくなっていく。その柔らかさが、妙に、生き物めいて恐ろしかった。まるで、秋織の指がまだ糸の端をつかんでいて、凛花の掌の中で、声にならぬ何かを訴えているようだった。

 報告しない——それは、秋織を二度殺すことだ。  報告する——それは、誰かを破滅に巻き込むことだ。  どちらを選んでも、この手は血で重くなる。

 凛花は、遺体の胸の上で、もう一度、薄布を整え直した。整える指先で、握り込んだ糸を、袖の内側の縫い目に、そっと差し込む。針を使わず、ただ縦糸の間に挟み込むだけだ。見つかれば、禁色の私蔵として、一命を失う。それでも、指は、糸を手放さなかった。差し込む瞬間、袖口の布の冷たさと、糸の微かな熱とが、肌の上で溶け合った。己の体温と帝の糸が、一枚の袖で交わったその感触を、凛花は、息を詰めて飲み下した。

 板敷きに額を近づけ、雑巾を握り直す。水の紅が、再び手首まで伝う。伝った紅は、指の節で一度止まり、やがて、爪の半月に沿って、ゆっくりと乾いていった。

 廊下の方から、低い足音がひとつ、近づいてきた。靴底が絨毯を噛む、湿った音。宦官の履き物ではない。末端女官の草履でもない。——重さのある、軍靴でもなく、厚い絹の沓。歩幅は、老いた者のそれではない。が、急いでもいない。急ぐ必要のない者の歩みだ。宮中で、急がぬことを許されている者の数は、片手で足りる。

 徐豊だ、と袖の内側の糸が、鼓動のように震えた気がした。凛花は額を板に押し当てたまま、一度だけ、眼を閉じた。眠れ、と三年間、己に言い続けてきた呪文が、今朝は、どこにも届かなかった。呪文の代わりに、朱音の、笑った時の目の細め方が、瞼の裏に浮かんだ。それだけで、握り込んだ糸の熱が、掌から腕へ、腕から心の臓へと、細い筋になって昇ってきた。

 足音は、部屋の入口で止まった。

「——ほう。自害、とな」

 柔らかな、笑みを含んだ声が、天井の沈香の残り香を、ゆっくりとかき混ぜた。凛花は、袖の縫い目の内で、禁色の糸が、己の肌に、細く食い込むのを感じた。

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