第3話
第3話
徐豊の沓底が、絨毯の毛足を一歩だけ踏み込んだ。一歩分の重みが、部屋の空気をきっちり一分だけ低くした。凛花は額を板に伏せたまま、袖の縫い目に挟み込んだ禁色の糸が、肌の上で細く呼吸するのを感じた。
「趙隊長、ご苦労にござります。——薫妃さまのお体は」 「別宮に、既にお移ししまして」 「宜しうございます。宮中にて自害沙汰があれば、薫妃さまの御徳に傷がつき申す。事は、手早う畳むがよろしい」
畳め、という言葉を、徐豊は柔らかな真綿に包んで差し出した。真綿の内側に仕込まれた針の向きを、凛花の骨が知っていた。三年前の朝、己の官位を剥ぐ詔を読み上げたあの湿った抑揚が、今朝も同じ場所で、別の死者を、同じ手つきで畳みにかかっている。
「爪の検分は、いかが相成りましたか」 「血が乾いてござれば、後でまとめて検分とのこと」 「左様。乾き切る前に、洗うてしまわれるがよろしかろう。血の痕は、長う置けば、部屋の厄となる」
凛花は雑巾を握り直した。爪を洗え、と宦官長が命じた。絨毯の繊維を透かすように、徐豊の視線が板敷きを這ってきた。三年前、玉座の間で己の背を滑っていったのと、寸分も違わぬ湿り気を帯びた視線だった。洗ってはならぬ——と、指が先に答えた。
だが、秋織の爪に残っていた糸は、既に袖の中に移してある。今、遺体の爪の間にあるのは、ただの乾いた血だけだ。凛花は、微かに息を吐いた。吐いた息に、沈香の最後の残り香が、ほどけて消えていった。
「灰色、絨毯を運び出せ。回廊の端で、日が出切る前に畳め」
趙敬の声に、凛花は頭を下げた。遺体は既に薄布で覆われ、若い宦官が担ぎ出していく。秋織の足先が、布の裾から覗いていた。草履の紐の結び目が、左右で微かに違っている。結び目の癖——右を一度多く潜らせる癖を、凛花は知っていた。朱音に教えた結び方だ。姉は妹に、凛花が若き日に教えた結び方を、そのまま、生きてきた足に結んでいた。その足が、今、布の端から覗き、運ばれていく。
絨毯は血を吸って重い。凛花は端を掴み、背を折って引きずった。回廊の板を一歩進むたび、腰の骨が湿った音を立てる。血を含んだ絨毯の毛は、指先で握るたびに、生ぬるい膏のような粘りを返してきた。引き摺る板目に残る赤い筋は、朝の光に照らされてすぐに黒く変じていく。回廊の中ほどで、柱の陰に小さな影が揺れた。
「——姉さま」
呼び声は、草の葉に結露が伝う音ほどの、かすかさだった。朱音だった。喪の白を肩に掛け、監視の兵から二歩遅れたその位置で、廊下の柱に隠れるように立っている。朝の光は、少女の目の下の隈を、青く照らしていた。泣いたあとの瞼は腫れ、紅を引いたような縁が、瞬きのたびに微かに震えた。朱音の肩からは、まだ幼さを残す骨が、喪服の襟を突き上げるように尖っていた。その尖りを、凛花は、三年前、門の外で別れた少女の肩と、寸分も違わず重ねて見た。
「動くな、朱音」 凛花は絨毯を下ろさず、足を止めずに、低く言った。 「私は掃除をしているだけだ。お前も、姉の遺品を受け取りに来ただけだ。——それ以上の顔を、してはならぬ」
朱音は唇を噛んだ。噛んだ唇の血が、喉の奥で熱を持つのが、凛花にも分かった。少女は袖口で涙を拭わなかった。拭えば、兵の目に映る。三年前に凛花が追放されたあの日、門の外で同じように、泣くことさえ隠して立っていた少女の、あの姿勢のままだった。
「姉は——」 朱音の声が、かすれた。 「姉は、昨夜、震えておりました。寝所の衝立の裏で、膝を抱えて」 「……なぜ、私に話す」 「姉さま以外に、話せる者がございません」
少女は、回廊の柱の陰から、更に半歩だけ、こちらへにじり寄った。その半歩が、三年分の距離を詰める動きだった。足袋の先が、板敷きの節目を越えた音は、蟋蟀の羽の擦れよりも薄かった。
「『見てはいけないものを、見てしまった』と。『運び込まれる箱の、蓋が、一度だけ開いた』と。——箱の中身は申しませんでした。ただ、姉は、口を押さえて、歯の根が合わぬほど震えておりました」
凛花は絨毯の端を握る指に、力を込めた。握った指の骨が、内側から軋む。血を吸った毛が、指の間で潰れ、爪の根に冷たい鉄の匂いを染み込ませた。
「箱は、誰が運び入れた」 「白衣の背を、と。——上位の宦官の装束かと」
白衣の背。内侍省の下働きではない。上位の宦官が、深夜に、箱を運び込んだ。運び入れた先は、貴妃殿。貴妃の私室に「見てはならぬもの」が運ばれ、それを目撃した女官が、翌朝、喉を裂かれて倒れている。——茶葉の弧、禁色の糸、そして箱。三つの点が、凛花の頭の中で、既に一本の細い糸で、繋がり始めていた。繋がっていく糸の先には、三年前、己の名を泥に沈めた者の影が、朝靄のように立ち昇ろうとしていた。
繋げるな、と理性が叫んだ。繋げるのは、眠った己が、もう一度起きることだ。起きた己が、もう一度、門の外へ放り出される姿を、凛花の骨は、まだ覚えていた。
「朱音」 凛花は絨毯を、敢えて音を立てて引きずり直した。板を擦る音で、近くの兵の注意を、二人の会話から絨毯の重さへと逸らす。 「もう、私に縋るな。私は灰色の女官だ。推理などしない。三年前に、そう誓った」 「姉さま」 「聞け。姉の骸を受け取り、故郷へ帰れ。それが、お前に残された唯一の道だ。——宮に残れば、次はお前が『見てはいけないもの』になる」
少女の喉が、ひくと鳴った。白い喉の皮膚の下で、骨が一度、浮いた。
「……姉さまも、同じでございましょう。三年前、冤罪を被ったのは、姉さまが『見てはいけないもの』を見たからでしょう。そのときの姉さまを、わたくしは、門の外で、見ておりました」
針が、心の臓の、薄い壁に突き立った。凛花は絨毯を握る手の、親指の爪が割れそうになるのを、無理に押し殺した。押し殺した痛みが、手の甲の血管を、細い蔦のように赤く浮かせた。
「見てはいけないものを、見なかったことにした者の末路を、わたくしは今朝、姉の喉で、見たのでございます。姉さま。もう一度、誓いを——」 「朱音、黙れ」 「誓いを、破ってくださいまし」
少女は頭を下げた。深く、板敷きにつくほどに。喪の白が、回廊の塵を拾った。その塵は、凛花が先ほど水桶から零した水の跡の上に、重なって落ちた。水と塵が混じって、小さな黒い染みが一つ、生まれた。その染みの形は、秋織の喉に残っていた切り傷の弧と、奇妙なほど似ていた。
——眠れ。
三年間、己を守ってきた呪文が、今朝、何度目かに、届かなかった。袖の縫い目の内で、禁色の糸が、心の臓の鼓動と同じ速さで、細く脈を打った。脈の一打ごとに、三年前に封じた記憶の蓋が、内側から、薄紙のように持ち上がっていくのが分かった。箱、糸、茶葉——三点を結べば、犯人の影は、既に、ひとつの方角を指している。指している方角に、凛花は、眼を向けることを、長らく己に禁じてきた。
「朱音」 凛花は、絨毯を引きずる手を止めた。止めたまま、囁いた。囁きは、喉の浅いところで一度、引き返そうとした。だが、もう戻らなかった。 「……箱の、形を、覚えているか」 「……長さ、二尺余。黒い漆の、蓋に銀の金具がついたもの、と」
薬蔵の、帳簿外の櫃。凛花の脳裏に、三年前に一度だけ見たことのある、禁制の毒薬を収める櫃の寸法が、くっきりと浮かび上がった。浮かび上がった輪郭を、凛花の理性は、既に、隠しきれなかった。銀の金具の冷たさまで、指の腹に蘇ってくる。あの夜、櫃の蓋に触れた己の指先が、何故か今朝、絨毯の血で濡れていた。
少女の肩を、凛花は片手で、ごく短く、撫でた。撫でた指先で、朱音の袖口から覗く細い腕の、骨の細さを確かめる。細い、三年前よりも更に細い。この少女を、もう一度、門の外に立たせるわけにはいかなかった。
「家へ帰れ、とはもう申さぬ。——が、今宵は、姉の骸の枕辺で、眼を閉じておけ。口は、何があっても、開くな」 「姉さまは」 「私は、床を磨く。それだけだ」
朱音は、頭を上げた。上げた顔に、涙の跡ではなく、水に洗われた小石のような、澄んだ光があった。その光を見た瞬間、凛花は、己の唇が、三年ぶりに、微かに動いたのを知った。動いた唇は、声を出さなかった。ただ、「待っておれ」という形だけを、朝の埃の中に書いて、消した。
少女が、回廊の影へ下がっていく。凛花は絨毯を担ぎ直し、日の出の方角へ、ゆっくりと背を向けた。袖の内側で、禁色の糸が、三年前の詔の封蝋と同じ熱を持って、肌に食い込んでいた。食い込んだ糸の跡が、やがて赤い筋となって皮膚に残るだろう——その筋を、凛花は、もう、隠そうとは思わなかった。
今宵、貴妃殿の香炉の灰を、一度だけ、指で撫でねばならぬ。——そう、己の骨が、既に決めていた。