第1話
第1話
画面の向こう側で、俺の記事が燃えていた。
「またこいつか」「人殺しライターがまだ書いてんの」「廃墟で人死なせといてよく業界にいられるな」――コメント欄に並ぶ匿名の言葉を、神崎蓮は無表情のままスクロールした。もう慣れた。三年も経てば、こういうものは皮膚の表面を滑っていくだけだ。痛みはない。痛みは、もうない。そう思い込むことに、もうずいぶん前から成功している。指先だけが機械的にトラックパッドを撫でる。コメントの数は二百を超えていたが、一つとして俺の名前を正確に書いているものはなかった。顔も知らない相手が、顔も知らない俺を裁いている。それが今のインターネットだ。
ワンルームの蛍光灯が微かに明滅している。交換しなければと思いながら、もう二週間が過ぎた。点いて、消えて、また点く。その不規則なリズムが、妙に心臓の鼓動と重なる気がして落ち着かない。デスクの上には缶コーヒーの空き缶が三本、食べかけのコンビニおにぎりが一つ、そしてノートパソコンが一台。これが神崎蓮の全世界だった。
かつては月刊の都市伝説専門誌『深層』で連載を持っていた。テレビの特番にも呼ばれたし、新刊は重版がかかった。オカルトライターとしては、それなりの位置にいたはずだ。
今は「ムーンウォーカーWeb」という、聞いたこともないようなウェブメディアで都市伝説の検証記事を書いている。一本五千円。月に十本書いても五万にしかならない。家賃を払えば、残りは食費で消える。
原稿料の振込通知を確認して、俺はノートパソコンを閉じた。午前一時。窓の外では四月の雨が降っていて、古いアパートの壁をぱたぱたと叩いている。排水管を伝う水の音が、壁の内側をくぐもった響きで這い上がってくる。その音を聞いていると、不意に三年前の夜の雨音が重なった。山中の廃墟。懐中電灯の光。コンクリートの粉塵と湿った土の匂い。そして、階段の踊り場に倒れていた梶井の——
やめろ。
俺は缶コーヒーの残りを一気に流し込んだ。ぬるくて苦い液体が喉を滑り落ちていく。記憶を胃の底に押し込むように。舌の上に残る金属的な後味が、なかなか消えなかった。
あの夜のことは考えない。考えても仕方がない。警察の結論は事故死。不安定な床が崩落し、カメラマンの梶井誠が転落した。それだけの話だ。俺が殺したわけじゃない。ただ、一緒にいただけだ。
ただ、一緒にいて、助けられなかっただけだ。
翌朝、スマートフォンの通知音で目が覚めた。畳の上に敷いた煎餅布団の中で、のろのろと手を伸ばす。背中が痛い。畳の目が肌に食い込んだ跡が、シャツ越しにもわかる。画面には編集部の横田からのメッセージが表示されていた。
『神崎さん、急ぎの案件。読者投稿の現地取材、やれます? ギャラ上乗せします』
ギャラ上乗せ。その四文字だけで、体が反応した。条件反射のように画面をタップして返信する。
『内容は?』
横田の返信は早かった。
『添付見てください。読者投稿です。「自分の声を聞く廃集落」って話。現地に行って検証してほしいと。交通費込みで三万出します』
三万。一本五千円の世界で暮らしている人間にとって、三万は大金だった。添付ファイルを開く。投稿者のハンドルネームは「yomikaesu」。タイトルは「忘失集落の声」。
『——県北部の山中に、地図から消された集落がある。五十年前に住民が一夜にして消え、以来、廃墟として放置されている。この集落に足を踏み入れた者は、七日以内に"自分の声"を聞く。最初はラジオやテレビの雑音に混じって。やがて、深夜の静寂の中で。声は必ず、同じことを言う。「帰っておいで」と——』
典型的な怪談のフォーマットだ。「呪われた場所」「決まった日数」「繰り返されるフレーズ」。三年前の俺なら、こんな投稿は十秒で却下していただろう。都市伝説の九割九分は創作か、既存の怪談の焼き直しだ。現地に行っても、何もない廃墟があるだけ。
だが今の俺に、仕事を選ぶ余裕はない。
投稿の末尾に、数枚の写真が添付されていた。荒れた山道。崩れかけた家屋。雑草に埋もれた石段。どれもよくある廃墟の風景だ。指先で一枚ずつスワイプしていく。三枚目、四枚目——
五枚目で、指が止まった。
写っていたのは、苔むした石造りの鳥居だった。左の柱が途中で折れ、斜めに傾いている。注連縄の残骸が蔦のように巻きついている。鳥居の奥には、暗い木立の隙間から差し込む薄い光。
見覚えがあった。
そんなはずはない。俺は東京生まれの東京育ちだ。こんな山奥の、名前もない集落になど行ったことがない。それなのに、この鳥居の形、この傾き方、折れた柱の断面——何かが、脳の奥底に沈んだ記憶を引っ掻いている。
五歳か、六歳の頃。暗い場所。冷たい石の感触。誰かの手に引かれて歩いた。泣いていたような気がする。怖かった。何が怖かったのかは思い出せない。ただ、怖かった。足元は湿っていて、草の匂いと、もっと古い——土の下の何かが腐ったような甘い匂いがした。その匂いだけが、やけに鮮明に蘇ってくる。
「……何だ、これ」
声に出してみても、違和感は消えなかった。写真を拡大する。鳥居の足元に、何かが彫られている。画質が粗くて読み取れない。文字のようにも見えるし、ただの風化した傷のようにも見える。
俺はスマートフォンを握ったまま、しばらく動けなかった。
鳥居の写真がまだ網膜に焼きついている。あの傾き。あの苔の付き方。知っている。確かに知っている。でも、いつ、どこで見たのかが分からない。母さんに聞けば分かるだろうか。いや、母はもう六年前に他界している。父は俺が生まれる前にいなくなった。親戚づきあいもない。幼少期の記憶を確認する手段が、どこにもない。
もう一度、投稿文を読み返した。
『集落に足を踏み入れた者は、七日以内に"自分の声"を聞く』
馬鹿馬鹿しい。そう思おうとした。だが、画面を閉じようとする指が、ほんの一瞬だけ躊躇した。
結局、横田に返信したのは昼過ぎだった。
『やります。明後日には現地入りできます』
送信ボタンを押した直後、妙な感覚があった。自分の意思で決めたはずなのに、まるで誰かに背中を押されたような。決断したのではなく、決断させられたような。胸の底に、理由のつかない焦燥がわだかまっている。行かなければならないという、命令にも似た衝動。金のためだと理屈をつけてみても、その衝動の芯には触れられなかった。
気のせいだ。三万円のためだ。それだけだ。
横田からはすぐに返信が来た。『助かります! 詳細は追って送りますね』。いつもの軽い調子。何も異常はない。
俺はスマートフォンを伏せて、窓の外を見た。雨は上がっていた。灰色の空の向こうに、薄い陽射しが見え隠れしている。明後日の天気はどうだろう。山道なら晴れている方がいい。
ふと、畳の上に転がっていた古いクリアファイルが目に入った。引っ越しの荷物に紛れて、ずっと開けていなかったやつだ。中には、母の遺品から出てきた数枚の写真がある。整理しようと思って、そのままになっていた。
何となく手に取って、中身を広げた。色褪せた写真が四枚。母の若い頃。俺の七五三。家族旅行らしき一枚。そして——
最後の一枚は、幼い俺が写っていた。三歳か四歳か。場所は分からない。背景は暗くてほとんど潰れている。泣き腫らした顔で、誰かの手にしがみついている。母の手ではない。節くれだった、老人の手だ。指の関節が太く、爪が土で黒ずんでいる。その手は俺の腕を握るというより、引きずるようにつかんでいた。
写真の端に、石造りの柱が写り込んでいた。
苔むした、傾いた柱。
スマートフォンに保存した投稿写真を、もう一度開いた。並べて見る必要もなかった。同じだ。同じ鳥居だ。
俺は、あの集落に行ったことがある。
知らなかった。覚えていなかった。母は何も言わなかった。東京生まれの東京育ちだと、そう聞かされて育った。なのに、幼い俺は、あの鳥居の前で泣いていた。
写真を裏返すと、母の筆跡で日付だけが書かれていた。月日の横に、一言。
『もう連れていかない』
何を。どこに。誰が。
答えてくれる人間は、もういない。
俺は写真を元のクリアファイルに戻し、明後日の準備を始めた。着替え。録音機材。カメラ。ノートパソコン。取材道具一式を古びたリュックに詰め込んでいく。手は、少しだけ震えていた。
三万円のためだ。それだけだ。
そう自分に言い聞かせながら、俺は左手首を無意識にさすっていた。何の痛みもない。何の痕もない。ただ、なぜかそこだけが、ほんの少し冷たかった。